増量……えっ、アリなんですか!?(1)
うららかな、何の変哲もない平日の昼下がり。
まったりぽかぽかな春らしい陽気から程遠いその衝撃は、突然容赦なくやってきた。
カツン、と軽い音を立ててそのままコロコロとフローリングを転がっていった小さな物体を、花織は信じられない思いで見つめる。
「う……うそ」
壁際ギリギリでようやく動きを止めたのは、頭をグラグラさせながらも辛うじてファスナー上部にくっついていたクロップドパンツのボタン。
えいやっ!とボタンホールにちょっとばかし強引に押し込もうとした結果、見事に弾け飛んでしまったのである。
(ま、まさか……え? あたし、マジでとんでもなく太った!?)
いやいや糸が甘くなっていただけかも……、ちょっと爪で引っ掻いちゃったかも……、などという虚しい言い訳がまるで意味を成さない状況になっているのは、ダブルベッドいっぱいに広げ散らかされた憐れな洋服たちを見れば認めないわけにもいかない。
あれ? おかしいな、まさか……と思いながら数着試した後の、「よし、わりと緩めだったしなコレ。今度こそ大丈夫かも……」と縋るような思いではいてみた最後の砦的なパンツだったのだ。
(ど、どうしよう……)
◇ ◇ ◇
「それで、なんでウチに来るかな?」
翌日午後。
異様に切羽詰まった表情の
「緊急事態なの! 助けてよお!」
「みーちゃんに会えたのは嬉しいけど。ねー?」
「にぇー」
相変わらずのやり取りをしながらすでに娘の靴を脱がせ、さあおいでー入ってーと小さな手を優しく引きにかかっている妹。
我が娘を可愛がってくれるのは非常にありがたい。ありがたいのだが。
「ひどい……姉にももっと優しくしてくれたっていいじゃん」
優しく――どころかまともに取り合ってくれてすらないような気もする。悲しい。
「だーって、どうしろって言うのよ。今すぐ痩せさせてあげることなんてできないし。それとも何? ゲッソリやつれるほどメガトン級の罵倒でもして欲しい?」
「うう……」
「っていうか、言うほど太ってないんじゃないの? ぱっと見、全然わかんないよ?」
おおそうか! じゃあこの着こなし(体型隠し)術は見事に成功したのだなっ。
…………そうじゃなくて。
逃げてはいけない。現実を直視しなければ。
「……春物秋物のボトムス全滅でした」
試してこそいないが、この分だと夏物だって――いや露出の多い夏物こそ昨年までと同じように着て歩ける気がしない。
「じゃあしょうがないね。あきらめて全部買い直せば?」
「そういう問題じゃないのー! お願い、何かアドバイスをー! あんた栄養的ななんちゃらに関してはスゴいし、何とかっていう資格まで取ってんでしょー?!」
「うわー……全部うろ覚えな上にスゴいテキトーに褒められてるうー」
こりゃアカンと思ったのか、妹が
呼び名なんぞ知ったことか。
何でもいいからとにかくその栄養に関する知識を総動員して実の姉をほっそりさせておくれ。できればなる早で。
「じゃなきゃ、義弟くんから何か――いいアドバイスとか貰えちゃったりしないかな?」
「えー無理でしょー? 食べるモノ抑えてちょっと運動して規則正しい生活しろって言われるだけじゃないの?」
「そんなドカ食いしてるわけじゃないんだよ!? 運動は……そりゃしてないけど、あんたと違って昔から何もしてないのは変わらないし……。なのに何これ? 歳ですか? 体質の変化ってヤツですかっ! しょうがないんですかっ? もう無理なんですかっ!? 今から運動しなきゃなの!? それこそ無理でしょお?!」
「うわーうるさーい……。みーちゃん、さあ行こうね。美味しいおやつあるよー。ママの分も食べちゃおうか」
「おやつー」
(こ、この鬼どもめ……)
軽やかなスキップでリビングに引っ込んだ二人を追って、打ちひしがれながらのろのろと上がり込む。
と――。
鬼妹と娘の先――ダイニングテーブルを挟んだ向かい側に、もう一人の影。
線が細く、たおやかな仕草で慎ましやかに微笑んでいる黒髪の美しいこの人は確か――
「お久しぶりです。お姉さん」
「あ、あー、
思ったとおり妹の学生時代からの大親友である。
見ていて羨ましくなるくらい、本当に仲の良い二人だ。
やはり付き合いはずっと続いていたのか、と思うと我が妹のことながら嬉しさがこみ上げた。
先ごろようやく一緒に暮らし始めたものの入籍はまだな妹カップルとは違って、確か彼女たちのほうは早くに結婚したのではなかったか。すべて妹からの伝え聞きではあるが。
「遊びに来てくれてたんだー? あ、ホラ、みー。ちゃんとご挨拶して?」
たおやかな美女をぽかんと見上げていたかと思うと、急に顔を赤らめてモジモジし出す娘。
「……」
「こんにちは。ミズキちゃん? おねえちゃんね、あーちゃんのお友だちなの。おねえちゃんとも仲良くしてくれる?」
「い……いいよぉ」
しゃがみ込んでにこやかに優しく助け舟を出してくれた柚葉に、一言だけ蚊の鳴くような声を絞り出してパッと妹の膝の裏に隠れてしまった。
…………つくづく美形に弱い娘である。一体誰に似たのだろうか。
「それにしてもホントに久しぶりー」
愛娘は妹が自身の隣に座らせてくれて甲斐甲斐しく面倒見てくれてるので、自分は向かい側――柚葉の隣に座らせてもらうことにした。
椅子を引きながらにこやかに彼女を見る。
「今日は一人で? ご主人は?」
旦那さまにあたる人も妹たちカップルとごく親しい間柄だと、以前聞いたような気がする。
仕事は確か警察関係の何かだったような。
「珍しく出張なんです。一週間も一人だとさすがに寂しくて」
「あーもしかしてサミット関係?」
「そう、それです。要人警護だとか」
詳しいことはわかりませんけど、と小首を傾げて柚葉は微笑んだ。
「うわ……なんか大変なのねー」
「ちょうど彩香のとこも今日は先輩が居ないって聞いて。泊まりに来ちゃいました」
「えっ、今日義弟くん帰ってこないの? アドバイス貰えないじゃん!」
「突然押しかけて来ておいて何すかソレ? それに居ても『無い』って言うと思うけど……」
「あうう……」
娘の前にはハチミツ入りのミルク、こちらにはほわりと湯気の上がる馴染みの紅茶を出してくれながら呆れた顔で妹が言う。
姉妹のこんなやり取りを慣れた風情でクスクス笑いながら見つめる柚葉の横顔を、思わずジッと凝視してしまった。
「……柚葉ちゃんが羨ましい」
「えっ?」
「なんでそんなほっそりしてんのー? 昔からだけどさー」
視界の隅では、まだその話題引っ張るのか……と妹が呆れ笑いしているが、構っていられない。
「お、お姉さん……あたしはむしろ痩せすぎで悩んでるんですけど……」
「えー! なんでー?!」
羨ましい 羨ましすぎる!
本人は悩んでるのだろうが、今の自分からは何を贅沢言ってるんだ?! という悲痛な叫びしか出てこない。
「だって、出るトコも出てないっていうか……その……色気の欠片もないっていうか……」
「そんなのどうってことナイナイ! 着るモノいきなり全滅ってどう!? キッツイわよ!?」
「え……で、でもお姉さんこそ大丈夫です。彩香も言ってたけど、お世辞でも何でもなくまったく変わってないじゃないですか」
「いや、ありがたいんだけど……そう言ってくれるのはすごくありがたいんだけどっ! だがしかしっ」
現にボタンがとんだりあちこちパッツンパッツンになってたりだなあ!
さすがに悲しすぎる事実をアピールするのは思いとどまった。
何でもかんでも思いの丈をぶちまければいいというわけではない。
つい舌打ちして斜向かいの妹を睨み遣る。
「くっそう……
「……はい?」
「そうですよね。陸上やめてからも太らないし、程よくちゃんと筋肉ついたままでしっかり締まってるし」
「…………もしもし?」
急に矛先を向けてきた姉と便乗して拗ねたように同調し始める親友のタッグに目を真ん丸にしていたかと思いきや。
「あーのねー」
あーやだやだ……とばかりに妹が半開きの目で睨んできた。
「たいそうな美女二人がこんなチビブサ捕まえて何言ってんスか。わざとなの? イジメなの? っていうかあたしだって胸ないんスけど。欲しいんスけど?」
まだ言ってるのか、このミラクル卑下大魔王……と思ったが、そんなことはないと指摘しても何を言ってもどうせ聞く耳持ってくれないだろう。
明らかに無駄なやり取りは省いて先を続けることにする。
「あんたはアレよ。ほら、ウエストが思っきし締まってるから他が気にならないのよ」
「やっぱりハイジャンの成果でしょうか……お姉さん」
「さあ、どうだかね。今も隠れて何かやってんのかも知れないし。何にしてもムカつくわね。どうする? 柚葉ちゃん」
「とりあえずシメておきます?」
「あのね……。別に隠れてないけど、そりゃ軽くストレッチくらいはしてるよ? 部活やめてからも何にもしないとウズウズしちゃって……。お姉ちゃんだって何かやればいいじゃん。運動が億劫なら簡単なストレッチだけでも。結構効くよ?」
なんなら今いくつか教えようか? と言って妹が立ち上がる。
相変わらずの行動力には感心するし、おー待ってました、よろしくお願いしますっ! ……と飛びつきたいのは山々なのだが――
「あー……え、っと……それが、さ――」
すでに小さめソファやローテーブルをどけてちょっとしたスペース作りに取り掛かっている妹に対して、とたんに申し訳ないという気持ちがわいてくる。
「ハルが『駄目』って言うのよ」
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