会えなかった六日目~ラスト土曜日(2)




「どんなヤツだよ? そいつ」


「……は?」


 何を言ってるのだろうこのクズは――そう思うあまり、つい振り返ってしまっていた。

 興味が薄れてあっさり乗り変えた女のことなんてどうでもいいではないか。

 当然こんな相手に春馬のことを話してやる義理などない。


「関係ないでしょ。放してよ」


 今日初めてまともに返ってきた声が思いのほか低く怒気をはらんでいたことに面食らったのか、意味不明な笑みを浮かべて鷺沼はさらに顔を近付けてきた。


「お……怒んなよ。何かまた綺麗になってたからちょっと気になったんだって。浮気くらいで別れたことも実は後悔しててさ」


 浮気くらいで――――?

 誰がしたんだ? どっちから別れを切り出したと思っているのだこの男は。


 後悔、なんて。

 そんな殊勝なことができる性格なら公衆の面前で怒鳴り散らしたり、こんなみっともない絡み方するか?

 自分を抑えられずつい……というのは解らないでもないが、それにしては回数も多いしそのとき何をしているかの自覚も、この男はちゃんとある。

 要は治す気が無いのだ。


「放して、って――」


 何を言われてもまったく響いてこないし、近付けられる顔も掴まれたままの肩も正直気持ち悪いとしか思えなかった。


「な。な。もしかしてすっぽかされたんなら俺と遊びに行かね? お前さえよかったらもっかい俺と――」

「無理! 無いから! それだけは!」


 張り上げてしまった声に、思いのほか通行人たちの視線が集まった。

 それでもまだ痴話喧嘩か何かのように思われているのか、遠巻きに眺めるだけで間に割って入ってくれるまでには至らないらしい。

 一瞬怯んだかのように思われた鷺沼の手が再び乱暴に、しかも今度は両肩を鷲掴んできた。

 

「そ……そんなにそいつがいいかよ? 俺よりもか?」

「ちょ……痛いって!」

「なあ、今まで俺らうまくやってきたじゃん。あの女とはもう別れたからさ、機嫌直してくれよ」


(知らないよ! っていうか……ヤダ! ホントに無理!) 


 湧き上がるのは嫌悪感。

 わずかな期待に縋り付いて春馬を待っているのでなければ、こんな所とっくに逃げ出している。 


「俺やっぱりお前がいいんだって。お前だって少しくらい情とか残っ――」

「無いわよっ! もう絶対無理! だから放してってば!」


(よく言う……! つまらない気が利かない可愛げがない、って友達の前でも並べ立ててうすら笑いしてたくせに)


 どうしてこんなヤツと二年近くも付き合っていられたのだろう、と今さらながら愕然とする。


「な……何だよ」


 拒まれ方が尋常ではないとようやく気付いたのか、相手の顔から薄ら笑いが消えた。


「ど、どうせそいつのことも本気じゃないんだろお前。たいして好きじゃなくたって――」

「るっっさいわね! 好きよ!! 何でこんなにって思うくらい超ーーー気になりまくってるわよ!」


 負け惜しみなことくらい、歪んだ口の端を見るまでもなくわかっていた。

 わかっていたのに――言わずにはいられなかった。


 どうしてこの想いを――春馬に対する気持ちを、こんな奴に軽んじられなければならない?


「春馬くんは優しいしフラフラしないでちゃんと想ってくれるし、アンタなんかよりよっぽどしっかりしてる! いつまでも親に頼ってばかりの誰かとは大違いなんだから! こんなとこで油売ってないでまともな職探しでもしたらどうなのよ!」


「お……おま」

「あーもう、あんたなんかと比べるのも勿体ないわよ。っていうかもう他に誰もいらないくらい、春馬くんが大っっっ好きよ!! わかったらとっとと消えて!」


 「このクズ!」と最後に叫ばなかっただけ自分を褒めてやりたい。

 少しばかり満足して、軽く息をついたとたん――  


「て……てめえっ! 黙って聞いてりゃ……!」


 もの凄い形相と振り上げられた拳が見えた。


(あ。ついに殴られるのか)

 

 怖くなかったわけではないが、どこかまだ他人事のように、呑気に思う自分がいた。


 浴衣の襟を鷲掴みにされた拍子に、血走った目と迫り来る拳をついまともに見上げてしまい――ハッとする。

 こんな小物な男に殴られるほどのことを口走ってしまったのか、とようやく自覚した。 

  

 後悔はしていない。

 していない――――が。 


 迫り来る衝撃と想像を絶するであろう痛みを受け止める心の準備は、さすがに無く――  


「!!」


 固く目を閉じて思わず身を竦めたまま、 

 その鈍い音を聞いた。


(え……)


 映画やドラマの乱闘シーンで使われる効果音とは程遠い、鈍く低い音が一度きり――。  

 音のみでまともに衝撃がやってこない理由を確かめるべく、恐る恐る目を開けると。


「――」


 はいた。


 視界を覆うようにしてすぐ目の前に立つ背中。

 猫っ毛で汗だくの――――。 

 どこから? いつの間に? なんて思う間もなかった。  



「春……馬くん……?」



 殴られたと思ったら、間一髪で走り込んだ春馬に庇われていた。


「そりゃないでしょう……。鷺沼先……輩……」 


 激しく息を切らせながら、わずかに身を屈めるようにして春馬が口元を拭ったようだった。

 未だこちらには背を向け、鷺沼から庇った形をとったまま。


「な……何だ、誰だよおまえ……っ」


 見も知らない相手を殴ってしまった動揺からか、鷺沼が上ずった声を上げて一歩後ずさる。

 春馬よりはるかにガタイは良いのにこういうところが小さい。

 だが、とりあえずは逆上してますます手もつけられないまでに発展することは無さそうだと、春馬の背中でそっと息をつきかけた。

 ――と。


「何なん、ですか……いきなり女、殴るとか……」


 片手で口元を覆い、シャツの喉元を掻きむしるように鷲掴んだまま、春馬の身体が大きくよろめく。


「は……春馬くん?」


 急激に弱々しくなる声に胸騒ぎがした。  

 状態を確かめようと押しのけるように正面に回りこんだとたんに、うずくまるように春馬がその場に倒れ込んだ。


「春馬くん!?」


 頭を抱え起こしながら必死に呼びかけるも、閉じたまぶたも投げ出された腕もぴくりとも動かない。


(当たりどころが悪かったとか……!? それとも元々どこか身体が……?)


 ただの痴話喧嘩が暴力事件にまで発展したところで、周囲の注意がようやく真っ直ぐに向けられるようになった。


「うそ……嘘! やだ……っ! 春馬くん!?」


 おい大丈夫か、救急車呼ぶか、何があった、などと口々に集まってくる人々の手にはすでに携帯電話が握られている。


「お、俺のせいじゃない! こ、コイツがいきなり前に出て来たから!」


 マズイとばかりに狼狽えだした鷺沼が、喚きながら一目散に逃げ出した。

 誰かが引き止めようとしてくれていたようだったが、どうでもよかった。

 そんなことよりも――


(嘘……! こんなことって! 春馬くん!!)





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