五日目――木曜日(2)
(まあ、そんなところだよね。……あたしなんて、やっぱり誰にも……)
虚しく空を仰ぎながら、ゆっくりと正門に向けて歩き始める。
何を浮かれていたんだろう。
わかっていたはずではないか。こんなつまらない女、誰にも本気で想ってもらえるわけない。あるわけない……と。
だからこそさんざん用心して、一週間という期限まで設けて、彼をあきらめさせようとまでしたのに――。
わかっていたのに、どうして今こんな重い気分を抱えているのだろう。
(高校生の彼女って……何? 昨日も話してた、って……。じゃあ、昨日うちに来たのって何だったの?)
そういえば最後あたり、少しだけ様子がおかしかったし。
見込みあるかどうかの最終確認――したかったとか?
……だとしたら笑える。あんな純粋そうな春馬にまんまと食わされたことになるのか。
あーダメだこりゃ、と思ったら若くて可愛い彼女とヨリを戻そうとでもしていた……とか。
そんなことにも気付かずにキスやハグなんかにいちいち慌てて、可愛いかもなんて……悪くないかもなんて……。
「……バカじゃん、あたし」
マズイ。笑いが込み上げてきた。
恥ずかしくて滑稽で、笑いたいのか泣きたいのかわからない妙な声が一瞬だけ出てしまった。
すれ違うカップルが怪訝そうな目を向けてくる。
今どんな表情をしてるのかと思うと少しだけ落ち着かなくなり、うつむきがちに足早に門へと急いだ。
偶然会えたらどんなに喜んでくれるだろう、なんて……。
柄にもなく向き合ってみようか、なんて――――
いつの間にか自惚れていたらしい自分に心底呆れる。
みっともないにも程がある。
危なかった。情けない、イタい姿をさらすところだった。
バッタリ会えたりしなくて……早まった決断をしなくて、本当に良かった。
(大丈夫。ほんの少し気持ちが揺れ動いてしまっただけだ……。まだ5日しか経ってないんだから、今ならまだ間に合う。フツーに戻れる。あたしは大丈夫。大丈夫)
無理やり言い聞かせるように何度も唱える「大丈夫」が、ふいに何の意味も持たないただの音の並びのように感じられた。
(……『大丈夫』って、何が……?)
大丈夫ならどうしてこんなに――景色が暗く……重々しくなってしまったんだろう?
どうして……凍りついたように、心が動かなくなってしまったのだろう――。
「花織?」
正門を出てすっかり立ち止まってしまっていたところに。
進行方向とは逆側の歩道から、聞き覚えのあるやわらかな声が届いた。
「え、花織だよね? 何、どしたの? 仕事で近くまで来た、とか?」
(すごいな。
駆け寄ってくる足音とはしゃいだような声に、つい乾いた笑いがこぼれそうになる。
……が、堪らえるのは簡単だった。鈍く重くなった心が自然に枷となってくれる。
このまま振り向かずに走り去ってしまおうか――と考える間もなく、正面に回り込んだ春馬に左手を取られていた。
「なんだー、言ってくれればもっと急いで来たのに。今日は俺、午後2コマだけだからさ」
「……」
見上げなくてもわかる。
きっと浮かべているのは満面の笑み――。
濃茶の猫っ毛の髪はちゃんとすればそれなりに見えるのに、「セットするのが面倒だ」と言って多分そのままで。
そのせいできっと、童顔にもますます拍車がかかっていて……。
「花織?」
(だけど、それももう……)
いつまでたっても顔を上げないどころかますますうつむいていく花織に、春馬もようやく何事をか感じ取ったらしい。
「花織……何? どうかした?」
手のひらを添え覗き込もうとした顔まで逸らされ、春馬が息を呑んだのがわかった。
「もう……いいよ」
(もう、そんな彼を見るのも最後にしなければ……)
これ以上は、自分がダメージを受けるだけだ。
パンプスの爪先に目線を落としたまま低くつぶやき、未だ手首を掴んだままの春馬の手をそっと引き剥がそうとするも――――失敗に終わる。
ますます強い力で手首を引き寄せられ、思わず顔を上げてしまった。
「――何が、『もういい』の?」
真っ直ぐに見下ろしてくる、怖いくらい真剣な表情。
見ていられなくて再度逸らそうとした顔が、もう片方の手のひらに呆気なく捕まってしまう。
「花織? どうしたの?」
「無理することないって言ってんの。お試し期間も終わり」
それを――言おうとしてたのではないのだろうか? 昨夜の彼は――。
いつまでも靡かないならもういいか、って……。
「……終わってないよ? まだ二日以上ある。お祭りだって一緒に――」
「昨日ここで話してたっていう彼女と行ったら?」
「え」
「高校生の可愛い子なんだって? 良かったじゃない。ヨリ戻しそうなんでしょ」
吐き捨てるような気持ちで口に出すと、ようやく笑うことができた。
「心配して損した。何よ、ちゃんと居たんじゃない、そういうヒト」
「それは……。でも俺」
「いいのよ別に。あたしなら平気だから。慣れてるって言ったじゃない。面倒くさく付きまとったりしないから安心してよ」
弁解も釈明も必要ない。別に怒って問い詰めてるわけではないのだから。
ただ、もう責任とか一切関係なく、本当に自分が一緒にいたいと思う相手――自分に相応しいヒトのところへ行けばいい。
期限には少し早いが、春馬にはそうする権利があるしそうすべきだと思う。
(それなのに、どうしてそんな
春馬の手は未だに離れない。
微かに眉根を寄せ、心の奥底を読み解こうとするような瞳もずっと向けられたまま。
「花織。それ本心じゃないでしょ」
「……何よ、それ」
「俺のこと、少しも好きじゃなかった?」
どうせ去って行く。今までだって皆そう。初めだけ優しくて……。
「……は? 自信すご……」
でも、自分がダメダメだから、愛想つかして離れていってしまう。
彼だってきっと――。だから……。
「だって……あたし包容力なんてないし、つまんなくて素直じゃなくて可愛くないし。押し切られたからってすんなり引いて、結局支払いだってしてあげられなかったし? ……ほら、春馬くんにとって何かメリットある? 無いでしょ。意地になって責任どうこう言ってる価値さえ無いんだから、もうさっさと――」
「そういうこと訊いてるんじゃない」
ちゃんとこっちを見ろとばかりに、春馬が両手で支えた頬を上向けさせようとする。
が、今度ばかりは必死で視線を逸らし続けた。
「好きじゃ……なかったわよ」
「じゃあなんで、そんな泣きそうな顔してるの?」
「――」
言われて初めて気付く。
表面張力で辛うじて留まっていたものの、涙はもうあふれる寸前だった。
「花織――」
「な……泣いてなんかないしっ」
(ここで泣いちゃダメだ。泣いたら……今のこの重い気持ちを読まれてしまう。強い大人の女のままで立ち去れない……!)
「俺ホントに」
「だから……っ! そもそもたった一週間で本気になるとか、最初からあり得なかったのよ! アンタがしつこいから付き合ってあげただけで……っ!」
「――」
(あ……)
どうして最後の最後に、まともに顔を上げてしまったりしたのだろう――。
せめて見ないまま、何も聞かないまま……立ち去ってしまえばよかった。
だけど、もう――――。
「……そんな、イヤだったんだ? 花織……」
唇だけで無理やり作った笑みと、切れ切れに絞り出されるような掠れた声。
茫然と瞠られていた濃茶の目が寂しげに歪むのを見た瞬間、死ぬほど後悔した。
――――傷付けてしまった。
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