五日目――木曜日(1)
木曜日は快晴だった。陽射しは強めだが、吹き抜ける風が程よく強くて心地良い。
担当の営業マンに忘れ物を届けにたまたま大学近くまで来ていた花織は、もうこんな時間か……と泣き出す腹の虫を宥めながら時刻を確認した。
無事お役目は終えたしちょうどお昼時だし、せっかくだから懐かしの学食で食べてから会社に戻ろうか。
悪くない思い付きに、少しだけワクワクした気分で久々のキャンパスへと方向転換した。
(あ……講堂の改装やっと終わったんだ。おお、駐車場がちょっとだけ広くなってる!)
懐かしさに目を細めてメインの通りを歩いていると、中央の時計台の横に見慣れない銅像のような物を発見した。
そういえば新しく妙なオブジェができたと春馬が話していた。おそらくあれのことだろう。……確かに何を象ったものかさえわからない。我慢しきれず小さく噴き出してしまう。
他にもベンチが新しくなっていたりサークル活動用の掲示板が増えていたりと、少しだけ様変わりした構内を新鮮な思いで眺め歩く。
浮いたり悪目立ちしてしまうかな……と少しだけ心配もしたのだが、すれ違う学生たちに特別ヘンに振り返られたり凝視されたりしていないということは、まだまだ自分も違和感なくこの場に溶け込めているのかもしれない。そう思うと正直かなり嬉しかった。
ふっ、見たか。老けこんだ女、なんて言ってたヤツめ。(誰もそこまで言っていない)
やはり今日もスーツをやめて正解だったな、と少しだけ春馬に感謝したい気持ちにさえなった。
在学中、人間関係は唸りたくなるようなものばかりだったし、この場所自体にさほど思い入れがあるわけでもなかったため、まさか自分がこんな前向きな気分――というか妙な高揚感を伴って再びここを歩けるなんて思ってもみなかった。
気恥ずかしさ、照れくささといったものが先に立ってしまい決して口には出せないが、それもこれも全て彼のおかげではないだろうか。今はそう、素直に思える。
そしてそう思える自分が――何だか少し嬉しい。
さて。
時間は無限にあるわけではないし何を食べようか、と気持ち火照った頬を扇いで冷ましながら、足取り軽くカフェテリアが併設された総合校舎へと向かった。
(お昼もう食べたのかな……? バッタリ会えたりして)
もう四年だし学内に居ない時間の方が多いかもしれないが、トレーを抱えて席を探すフリをしながら、少しだけ期待のこもった視線で周囲を見渡してしまう。
見知った人物の居ない空間に残念なようなホッとしたようなため息をついて、入口に近い隅に座った。
近くに来ていることをメールで伝えようかとも考えたが、何かの邪魔になるといけない。何をしているにしても平気で中断してすっ飛んで来そうな気がしなくもないし、どうせ夜には会えるのだ。
それに会いたくてわざわざやって来たのだと勘違いされたら大変だ。ますます「一週間しか」攻撃に歯止めが効かなくなるかもしれないし。
ここはまだ――せめて期限の日までは――大人の余裕というモノを維持しておかなければ。と妙な意地でもって、心の中で思わずぐっと拳を掲げる。
(でも……もしホントに会えたら、驚くだろうな)
想像したら、自然にふっと笑みがこぼれた。
驚いて……そしてきっと、あの人懐こい笑顔で嬉しそうに走り寄ってくるのだろう。
あと二日と少し。
(もし――――)
最終日になっても春馬が少しも変わらず、懲りずに真っ直ぐな気持ちを向けてくれるようなら。
踏み出してみてもいいかも……と思い始めていた。
人の気持ちなんて移ろいやすく曖昧なものだし、彼の想いが変わらないなんて保証もない。怖くないと言ったら嘘になるが……。
それでも、春馬の気持ちにしっかり応えて向き合ってみてもいいかもしれない……。いや、押し切られて付き合うのではなく、ちゃんと向き合ってみたいと初めて心から思えた。
今まで他の誰にも抱けなかったこの不思議な感覚は……何だろう。
(ってあたし、これじゃまるで小中学生だな……。いや、今ドキの彼らのほうがもっと先を行ってるかも……)
それにしても、おかしい。
にわかに騒ぎ出した胸を、空いた左手でそっと押さえる。
ちゃんと知り合ってまだ数日しか経っていないというのに。期限も提示できたし「大人の女」としての余裕もかませたし、アドバンテージは完全にこちらにあると思っていたのに。
これではすっかり向こうのペースではないか。
いろいろと、しっかりちゃっかり、まんまとヤツの策にハマってしまったような感が否めない。それが一番悔しい。
(くっ! あの偽チェリーめ……)
憎めない犬っころのような笑顔を思い起こし、真っ赤になって折れんばかりにスプーンを握りしめて唸っていると――。
すぐ後ろのテーブルに、ガヤガヤと数人の男子学生たちが腰を落ち着けた。
「そういやこないだの夜、有沢見かけたんだけどさー。なんか花織先輩っぽいヒトと一緒だった」
一度に自分たち二人の名前が聞こえてきたことに、思わずぴくりと反応しそうになってしまう。
「花織先輩って?」
「ほら、俺ら二年ン時の準ミスだったヒト」
そ、そうか……。別に隠れてコソコソとかではないから普通に目撃されるよな……と、気持ち縮こまりながら「バレないうちに」と完食を急ぎ始める。
顔と名前は知られていても後ろ姿だけで判別できるほどではないらしく、誰一人後ろで猛スピードでカレーをかきこむ猫背気味な女には気付いていない。
「あーあの綺麗な先輩! えーすげー羨ましいー」
「何だよ有沢ー。バイト忙しいとか言って上手いことやりやがってよー」
「けど、あれだろ? その花織先輩って、在学中に男十人以上取っ替えひっかえしてる、って噂あったヒトだろ? そういう女って……ちょっとどうよ?」
ずいぶん尾ひれをつけられたものだ。こないだ別れた
そ、それでも「取っ替えひっかえ」になるのだろうか……?なるのか……あああぁ、と激しい後悔に襲われ速度をやや落としながらもスプーンを口に運び続ける。
「あー、いくら美人でもそんな節操無いんじゃなー」
「完全に割りきって遊んでもらえるならイイんじゃね?」
「だなぁ」
「そうするとやっぱアレか? 有沢も『そんだけ男知ってるなら』っていう……
(コイツら……食べながらする話じゃないとは思わないのか? それにそんな関係にはまだ――。って、そうだ、初日になっちゃったんだっけ……。しかもあたしから無理やりって……あああぁあぁぁ)
「そっちかー」
「だべ? それか、金? 何だかんだ言って俺らしがない学生だしぃー」
(ふっ、言ってろ。春馬くんは絶っっ対、何が何でもっ払わせてくれないんだよっ。おまえらとは違うっつーの!)
「つーかあいつ、こないだまで高校生と付き合ってたらしいじゃん」
意外そうに言う一人の言葉に、思考と動作がぴたりと停止した。
――高校生、と……。
力の抜けた指からスプーンが滑り落ちそうになって、慌てて握り直す。が、カツンと一瞬だけ皿に当たってしまった。
「あー見た見た、N女学院の子だろ。セーラー服の可愛い子」
「うっそマジで? ちょー羨ましいんだけど! テクニック無くてもいい!」
「でもガキんちょの相手も面倒くさいからな。大人の女に甘えたくなったんじゃねえ?」
「じゃその子かな? 昨日の夕方、何か校門前で有沢と話してたけど」
「おおおお、そりゃヨリ戻すね。絶対。俺のカン!」
「おめーの勘、ちっとも当たんねえじゃねーかよ。林教授のテストどうしてくれんだよ」
「れ、恋愛の勘は別! 山勘とは別っ!」
ギャハハハと笑い合う声を背後に聞き流しながら、そっとトレーを持って立ち上がる。
誰の目にもつかないように極力少ない動作で、目立たないようにうつむいたまま。
返却口に戻して外に出ると、景色が――視界に入るものすべてが――一変していた。
(すごい……。さっきまであんなにキラキラに見えてたのに、こんなに変わるんだ……)
気持ち一つでここまで視覚に影響を及ぼすのだという現実に、奇妙な感動すら覚える。
ため息ひとつ涙ひとつこぼさずにいられる自分の冷静さが今はありがたかった。
慣れってすごいなとも思ったが、よく考えると当然だ。
春馬とはまだ何も、気持ちの上では何も始まっていなかったも同然なのだから。
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