四日目――水曜日(2)




 ――――そ、それは何だ?

 いろいろ段階をすっ飛ばしたあげくの空気の読めない大雑把すぎるプロポーズか?


 父親はポカンと固まったまま動かず、母親はあらまあとなぜかほんのり頬を染め……。

 えっそ、それは……姉はあげますが、マンションはあたしのなんで!と焦りをあらわに叫んでいる妹は、全員に見事にスルーされている。


 まさに開いた口が塞がらない状態(決して肉団子のせいだけではない)で隣を見ると、相変わらず優しい瞳で微笑む春馬と視線が合った。


(本……気?)


「あーいやー……ゴホン」


 機能回復したらしい父親が、邪魔して申し訳ないとばかりに咳払いを挟んだ。

 その表情に怒りの色は浮かんでいない。…………が。   


「その、なんだ……。気持ちは有難いが君にだって期待をかけてくれているご両親が、おられるだろう?」


(って、もう受け入れ態勢に入ってないか? 父よ! 「婿入」と聞いてそんなあっさり認めちゃうのか!?)



「いえ、両親ともにもういないんで」


「――」


 再びの静寂が訪れた。


(じゃあ長野に、っていうのは……)


「俺が小さいころに二人とも事故で。高校卒業までは、叔父夫婦の家にお世話になってましたけど。小さい子供たちもいるし、あんまり面倒かけられないんで……こっちに」


 微笑みを残したまま穏やかな口調で春馬は続ける。  


「憧れます、こういう団欒っていうの。すごく小さかったから、母の料理とか……実はあんまり憶えてないんですよね。父親とも、生きてたらこうやって一緒に酒が飲めてたのかなー……とか」


(それで、ひとりで……あの部屋で――。叔父さんたちに気を遣わせまいと、アルバイトもたくさん……?)


 ファミレスで家族連れに向けていたあの瞳は――優しい、慈しむようなあの表情は……失った家族への懐かしい想いとか、憧れからくるものだったのだろうか。


「……って、すいません。しんみりさせちゃいましたね。大丈夫ですよ。死んでから何年も経つし、俺けっこう鈍感なんで」

 

 ぺこりと一礼した後あえて明るく笑ってみせる春馬に、ハッと我に返って両親が動き始めた。 


「よ、よーし今日は飲むか、有沢君!」

「はい。ありがとうございます」

「母さん、ビールおかわり!」

「そ……そうね、ちょっと待ってね。私も飲んじゃおっかしらー?」


 悲しい気持ちになった時ほど父が饒舌になることも、パタパタとキッチンに走る母がこっそり目尻を拭っていたことも、春馬にはまだ言わないでおこうと心に決めた。

 敏い彼のことだ。もしかしたらとっくに気付いているかもしれないけれど――――。 







 ちょっと下まで送って来るね、と春馬に続いて靴を履いていると、玄関先にひょこっと宇宙人が顔を出した。


「今日はありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。じゃあ、テスト頑張ってね彩香ちゃん」


「お義兄さんこそ。また呪文唱えに来てください」

「あはは、ありがとう」


「美人ということ以外たいした取り柄もない姉ですが、本当にいいんですか? 後悔しませんか? クレーム、返品にはご対応できませんよ?」  


「あんた後で説教ね」


 ひと睨みしてやったら、ひぇっとばかりにドアが閉じられた。

 ふつつかな姉ですが末長くよろしくおねっしゃーす!とドア向こうで次第に遠くなる声と足音。


 エレベーターを降りてエントランスを抜けてからも、もう勘弁して……と春馬は笑いっぱなしだった。


「面白くて可愛い妹さんだね」


 よほどツボにはまったのだろうか。苦しそうに腹部を押さえ、目には涙が浮かんでいる。


「それ本人に言ってやってよ。どうも自信が持てないでいるみたいだから」


 言ったところで信じないだろうが。

 それでも、家族以外の人間に言われたら少しは耳を傾けるかもしれない。まあ、わからないが。


 ――と。

 いつの間にか足音も声も途絶えていたことに気付き、後ろを振り返る。

 エントランスを出てすぐの所で、春馬が立ち止まってしまっていた。

 驚きで軽く目を見開いたまま、微動だにせず……。


「――」

「……え、な、何? どうしたの?」


 何か変なことを言ってしまっただろうか?

 数歩引き返しながら訊いてみる。


「花織――――それって、また来ていいってことだよね?」


(あ……つい……) 


「スゴい嬉しい。俺素直に喜んでいい?」


 穏やかに嬉しそうに細められた目が、真っ直ぐに見下ろしてくる。

 どうしてそんなに素直に――真っ直ぐに想ってくれるのだろう?  

 つまらなくはないのだろうか? もういいや、って……。十分わかったから他のところへ行きたい……とか、そろそろ――。  


「ぎゅってしていい? 花織」

「え? あ……えっと」

「あーもーいいや、返事待てない」

「ちょ……っ」


 またこんな所で、と言う間もなく抱きすくめられていた。

 肩から背中に回された腕がすっぽりこの身を包んで、細くやわらかい春馬の髪の毛が優しく頬に触れる。

 自分の心臓の音がやけに大きく響いてくるような気がして、落ち着かなかった。


(なんで……? こんなハグくらいで……。あたし……)


「ね……ねぇ」


 少しでも気が紛れるようにと、何かないかと無理やり話題を探す。


「長野の叔父さんたちとは……上手くいってなかった、の?」

「え? なんで?」


 わずかに驚いた声が上がるが、抱きしめる体勢は変わらない。


「あ……えっと、なんとなく……」

「んー、そんなこともなかったかな」


 すぐ耳元で響く春馬の声。穏やかで優しい、いつもどおりの……。 


「良くして貰ってた……と思うよ? けど――本当の親子に……家族に、なれるわけじゃないから」

「――」

「そういう風に考える自分が、なんかすごく嫌な人間に思えてきて……。優しさとか、キレイ事だけじゃやっぱ済まなくて、現実にホラ、しっかり俺の分も金はかかるわけだし。……悪いなって思ってるうちに……どう接していいかもわかんなくなっちゃってさ。それもあって……出て来た。ってごめん、何言ってるかわかんないよね?」


「寂しい……よね」


 何を言ってるんだろう。寂しくないわけ、ないのに。


「大丈夫だよ。もう長いことそんなんだし。一人のほうが気楽だし。――それに、花織にも会えた」


 余計な話題を振ってしまった。

 どんな表情カオでそんなことを言わせてしまったのだろう……と思うと、自分の無神経さに腹が立った。


「……ごめん、ね」 


 ぽつりと謝ると、静かに春馬が笑う。


「いや――嬉しいよ。気にしてくれてありがとう」


 心から安堵したような穏やかな声とともに、回された腕に微かに力が込められた気がした。


「俺、やっぱり花織が好きだな……。すごくすごく好き。花織は? 少しでも俺のこと好きになってくれた?」


 この相手に同じくらいの想いを返せたらどんなにいいだろう……。

 いつの間にかそう思えるようになっている自分に気付いてはいる――――のに。  

  

「ま……まだ、わかんないわよ。あと三日あるでしょっ」


 ――まだ頷けない。  

 ここまで大きく感情を揺さぶられておいて何が「まだ」だ……と、自嘲の笑みをこぼしそうになるが。

 去り行く背中を想像すると、どうしても竦む。踏み出すのをためらってしまう。  



「うーん、まだまだか……」


 そっと体を離して、春馬が真っ直ぐに見下ろしてきた。

 そしてため息混じりに苦笑して、ゆっくりと顔を近付けてき――  


「ちょ、ちょちょちょ……! そう言いつつ何をしようとしてんのっ」

「何って、おやすみのキス」


 え、当然でしょ?とばかりにキョトンとする春馬。


「それともすっ飛ばして、このまま連れて帰っちゃっていい? それか、試用期間の延長してくれる?」


 あーこの流れはあれだ。また「だってたった一週間なんでしょ?」の攻撃パターン。

 というか段々遠慮も何も無くなってきてはいないだろうか。


「じ、じゃあいいわよ、き……キスで……っ」


 どことなく腑に落ちない気分でほとんど投げやりに絞り出した回答に、待ってましたとばかりに優しいキスが落とされる。

 そこまでは昨夜と一緒だった。

 唇がそっと離れたと思った瞬間、目にも止まらぬ速さで首筋に吸い付かれた。


「ーーーーーー!?」


 あまりの衝撃に真っ赤な顔で言葉無く口をパクパクさせている花織を眺め、無邪気な悪魔は純粋に楽しそうに微笑む。

 

「花織、可愛い」


「あ、あんた……っ! 『初めて』を無理やりあたしに奪われたみたいなこと言ってたけど、あれやっぱ嘘でしょ……っ?!」


(へ……ヘンな声出そうになったじゃないかっ! 絶対チェリーじゃないだろ、コイツっ!)


「んー……と。半分はホント」


 わざとらしく小首を傾げるフリをして、すぐさまイタズラっぽい笑みを浮かべる。


(半分ってどの部分だ?! そこ重要なんですけどっ!)


「くーーーっ! 生意気なのよアンタっ。もっとちゃんと敬いなさいよっ!」

「ええ? なんでそーなるの? こんなに花織が大好きなだけなのに」


 悪びれることなく、春馬が再びぎゅっと抱きしめてきた。


「ちょ……っ、ごまかすなっ! 大体アンタ、もうちょっと人目というモノを――!」

「早く――」


 腕の中でわたわたと暴れながらも、耳元で囁く春馬の声はしっかり聞こえた。


「早く俺のこと好きになって。それか……こないだ言ってくれたこと、思い出して?」


 こないだ――――最初に会った金曜の夜のことだろうと察しはついた。

 『だって花織さん、言ってくれたじゃん』と春馬が話していた、その内容――? 


「こないだ……って何よ? 言ってみなさいよ。思い出すかもしれないから」

「それじゃ意味がない」

「え?」


「もし……さ」


 抑えられた、静かな声。

 春馬が何かを言い淀んでいるのはわかった。が……。


「春馬くん……?」

「いや。何でもない。ってことで――――もう一回チューさせて?」


 言うが早いか迫り来る唇に思わずドキッとする。

 だが、そう毎度毎度好き勝手させてはいられない。さっきの不意打ちの怒りも再燃して、つい力まかせに胸と顎を押し返してやった。


「な……何が『ってことで』よ! とっとと帰って勉強しなさいっ! っていうかいつまでもこんなとこで騒いでたら近所迷惑でしょっ!?」

「えー、さっきから花織の声しか響いてないけどー?」

「なにぃぃぃ!?」

「わかったわかった。ごめん、帰るってば」


 冗談っぽく逃げ惑う春馬の、いつも通りの笑顔に安堵してみたものの。


 一瞬見せた神妙な顔付きと沈んだような声の調子が、なぜかなかなか頭から消えてくれなかった。






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