前日(2)




「もーーーーっ! 泊まりなら連絡してって言ってるでしょ!? 食事当番の身にもなってよ!」


 マンションの玄関にたどり着くと、制服姿の妹が腕組みしたまま仁王立ちで怒り狂っていた。


「はい……すいませんすいません、ホントごめんなさい」


 弱ったゾンビをさらに容赦なく責めたててくる妹の大声に、お願い勘弁して、と花織は痛む頭を抱える。

 アンタただでさえ声でかいんだからさ……と声なき訴えが喉まで出掛かった。


「……お父さんたちはぁ? 今日も仕事だっけ?」


 帰宅してからヨレヨレとダイニングにたどり着くまでに、そういえば妹の怒鳴り声以外、何も聞こえてきていなかったことに気付く。共働きの両親はもう仕事に出掛けたのかもしれない。


「二人ともとっくに出たよ。あたしもこれから部活」

「土曜なのに大変だぁねー……」


 へばり付くようにダイニングテーブルに突っ伏した花織の目の前に、コトリと音を立てて、水の入ったグラスと薬が置かれた。

 へにゃりと顔が緩むのを自覚する。


「んふふふーありがとん。よくデキた妹をもって姉ちゃんは幸せだ」

「珍しいじゃん、そんなに飲むなんて。昨日はデートだったんじゃないの?」


 今度は幾分声を落として、妹がテーブルに両手をついてきた。


「うん、まぁ。…………別れたけどね。ゆうべ」


 そこは憶えている。

 横暴なうえに少し前から挙動不審だった彼(元カレか)を半信半疑で問い詰めたら、開き直った挙句に逆ギレされた。それも公衆の面前――行きつけの居酒屋で。

 それ以降の記憶がスパッときれいに抜け落ちてしまっているのだが。


「……大丈夫?」


 テーブルに伏したままの姉を気遣ってか、妹がさらに声を落として言う。


「ん?」

「ヘコんでない?」


「それがまったく」


 にへらと締まりのない顔のまま笑って、ブイサインを送ってやる。


 横柄な言動が目に余るようになってきたうえに、最近どうも束縛がキツくなってきた感じはしていたのだ。

 それでいて自分は浮気とか――どういう了見だ、と怒りでもショックでもなく呆れ笑いが出た。

 阿呆はとっとと見限る、と即決して切り出したのが昨夜。


 実際、心配されるような精神的ダメージはほとんど無い。あえて言うなら男運と人を見る目がない自分にほとほと嫌気が差している、といったところか。

 今現在あるのは、そういった自虐的な感覚と二日酔いによる酷い頭痛と突発性記憶喪失(何か違う)だけだ。


「まあ……そだね。お姉ちゃんならすぐ次見つかるしね」

「えーー何それ、何か嫌な響きーー」

「美人だって言ってんの。あ、ヤバ……もう行くね。昨日のおかず冷蔵庫入ってるから、チンして食べてね」

「アンタ、ホントにいいお嫁さんになるよぉ」

「嫁になんか行かん! 家のことはあたしに任せて、お姉ちゃんこそイイ人見つけてどこにでも行っちゃっていいからね!」

「ハイハイ」

「行ってきまーすっ!」   


 額を冷たいテーブルにつけたまま、ひらりと手だけを振ってあわただしく出掛ける妹を見送った。


 両親の面倒はちゃんとみるから好きなところへとっとと嫁いでくれて構わない、と事ある毎に口にしてきた高1の妹は、なぜか結婚なんか絶対しないと思い込んでいるフシがある。それどころか恋愛願望の欠片も無さそうな様子に、姉としては時折心配になる。

 何か変な思い込みでもしているのだろう。身内の贔屓目かもしれないが普通に可愛いと思うのだが。

 まあ、言ったところで聞く耳持たない頑固さには慣れっこだし、そのうちあの子のすべてを理解して受け入れてくれるような男が現れるのを期待するしかなさそうだ。


「ふう……」


 一気にグラスの水を飲み干して、壁の時計を見ると9時少し過ぎ。

 それにしても、と安堵の息を吐きながら濡れた口元を拭った。

 我ながらよく生還できたと思う。


 ベッドで上げた自分の悲鳴が二日酔いにさらに追い打ちをかけてしまい、ぐらんぐらんと押し寄せる頭痛に呻きながら、彼(ところで誰だ?)の部屋を飛び出してからここへ帰り着くまでの経路をぼんやりと思い返す。

 身支度もそこそこにボロアパート(すいません)をあわてて飛び出した自分の目に映ったのは、去年まで通っていた大学近くの町並み。見慣れた場所で「うおっラッキー!」と安心したのも束の間、駆け出してすぐに気持ち悪くなってしまったのは言うまでもなく……。

 3駅離れた自宅マンションに着くまで、電車の中と道途中、何度か激しい嘔吐感に襲われた。

 道行く人の白い目が朝日と共に身に沁みた。

 もう決して無茶な飲み方はすまいと固く心に誓って――そもそも記憶がないため、かなりあてにならない決意ではあるが――よろりらと帰途についたのである。


(で? あの男は一体ナニモノ? どの時点から一緒に居たんだろう? どう考えても知り合いではないし、見たことも――) 

 

 そこまで考えて、いや待てよ……と思わず目を見開く。      

 なんとなく見覚えは、あるような気がした。


 人好きのするような仕草と表情。少しだけ茶色がかった細い猫っ毛の髪。   

 どこで会った? 仕事関係? 人数合わせで連れていかれた合コン?

 それとも今日にかけて一緒に居たからそんな気がするだけ?

 痛む額を抱えてグルグル考えを巡らせるが、一向に答えに辿り着けそうにない。


(けど……悪いヒトではなさそうだったな)


 名前を呼んで、本気で体調を心配してくれていた男の姿を思い出す。

 ――お互い裸ではあったが。


(うっ……何やってんだあああ、あたし! 彼氏と別れてすぐに他のヒトと……なんて)


 状況的に見てやはり――と……何というか、その、あれやこれやを……致してしまった、と考えるのが妥当なのだろうか。

 ここまで軽い女だったのか自分! しかもまったく憶えてないってどういうことだ! ……と、混乱と情けなさとで無性に泣きたくなってきた。


 と同時に、妙に腑に落ちてしまった。こんな混乱と騒ぎのさなかでは、確かに別れてしんみりどころではない。

 知らず、微かに笑みがこぼれていた。


 もちろん、それのおかげ、というばかりでもないが……。 

 思っていた以上に平気な自分に、とりあえずホッとした。浮気を疑った時も、そう言えば取り乱すことも悲しみにくれることもなく、ああまたか、と思ったのだった。


 浮気されるのは――目移りされるのは――慣れている。

 「つまらない」「思っていたような女じゃなかった」というのが彼らの言い分らしいが。

 とは言ってもまるでショックを受けないわけではないし、気付かぬふりをしてズルズル続ける趣味もない。

 一旦怒りだすと面倒くさいあの彼氏――何といっても公衆の面前で恥ずかしげもなく怒鳴り散らすような奴だ――と、穏やかに話をするにはどう切り出したらいいだろう、とそう言えば早々に別れ際のシミュレーションを始めたような気がする。


 存外、自分は薄情なのだろうかとも思ったが、何の事はない。

 事に気付くもっと以前から、冷めていたのかもしれない。あきらめていたのかもしれない。

 ……いつから? 

 好きではなくなる瞬間がどの時点だったのか――なんて、わからないし考えても意味のないことかもしれないけれど。 


「そうだ。早いとこアイツの名前、消去しないと」


 しまった、昨夜のうちに消しとくんだった……と独り言ちながら片手でバッグをまさぐる。

 名前を見ると辛いとか心が揺れ動く、などという可愛らしい女心なんぞこれっぽっちも持ち合わせていないが、携帯に奴の名前が存在していると思うだけで胸くそ悪い。


「あれ……?」


 いつまでたっても、両手を動員し始めても、指先に馴染んだスマホの感触が伝わってこない。

 頭を突っ込みそうな勢いでバッグを覗き、普段入れるはずのないスーツのポケットまで念のため確かめた。

 が――。  


「無い。え、嘘……落とした?」


 今さっき道端で屈みこんだ拍子に取り落としてしまった、とか? それとも居酒屋に置き忘れ? あるいは、さっきのあの男の部屋?

 呆然と額を押さえ込んだまま記憶をたどってみるが、最後に触っていた場面がどうしても思い出せない。

 

 パスはかけてあるが、友人知人仕事関係の情報なんかもかなり入っているそれをまるごと落としたとなると――――   

 洒落にならない。


 何だこの踏んだり蹴ったりな状況は……。

 ため息をつくが、思い出せないものはしょうがない。

 あきらめてリビングの隅に置かれた固定電話に向かい、受話器を手に取る。

 こうなったらどうか親切なヒトに見つけられてるか交番に届けられてますように!と切実な願いを胸に自分のナンバーをプッシュすると。

 コール2回で繋がった。


『花織さん? 良かった、ちゃんと帰れたんだ』


 低すぎずやわらかい男の声。


『具合悪いのにいきなり飛び出して行ったから、心配したよ。コレ忘れて行くし……。あ、【自宅】って出てたから勝手に出ちゃったよ、ごめんね?』


「ちょっ……ちょっと待って。えと……さっきのヒト?」


 あわてて遮る花織に、受話器の向こうでクスリと笑った気配がした。  


『そう、さっきの人です。 頭痛は? もう平気?』





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