梯子
ある日、天から梯子が下りてきた。沢山の人がそれを興味深げに見つめていた。ある者は天国への入り口だと喜び、ある者はこれから誰かが降りてくるのだと恐れをなし、ある者は宇宙人の仕業だと考え、それを誰かが神の御業だと反論した。
梯子は世界でもひとつだけの地点にしか下されず、故に大多数の意思がそこへと注がれた。まずはヘリコプターで確かめられたが、梯子は遥か上空へと続いており、それ以上確認することは出来なかった。今度はロケットを飛ばして、どこへと伸びているのか確認してみたが、梯子はまず認識されず、その他機器を用いても、これは観測不能に終わった。
お陰で人々の好奇心を募らせ、遂には自力で登ろうとする人間が現れ始めた。どれほどの高さを誇るのか分からないまま、食料や道具を背負って登頂を目指すのだ。中谷もまた、数多くのクライマーのひとりだった。
リュックサックに必要なものを纏めると、家族に別れを告げて梯子へと手を掛けた。この頃になると既に何千人と挑戦者が現れていたが、それとほぼ同数の者が地面へと落下して、夢と共に砕けていった。長く登れば登るほど、転落する時間も長くなるわけだ。人は死ぬ間際に何を想うのだろう、と中谷は思った。あまりに儚い最期だ。気を引き締めて、最初の一歩を踏み出した。
登り始めて三時間後、牛歩のように緩やかなペースで手足を動かしていく中谷は、疲れから手足の痺れを感じ始めていた。時は既に夕刻を過ぎ、辺りは暗闇に覆われている。見上げれば星が点々と光って見えるが、それと視界に紛れる汗の煌めきとの違いが曖昧だった。
下からは今にも追いつきそうなクライマーの姿が見えた。中谷は順番の入れ替えをする準備のために、まずリュックからロープを取り出して、梯子と身体を結び、それから巻きつけるように引っ掛けた。これで後はじっとしていれば、下の者が追い越していくだろう。
上からは悲鳴が聞こえ、ややあって転落者の姿が通り過ぎた。中谷は恐怖のために身体を震わせたが、必死に自分を奮い立たせて我慢した。頂上に何があるのか確かめたい。もしかすると天国があるかもしれず、それとも四次元へと続く道があるかもしれない。すべては未知数で、想像することさえ出来ないのだ。
下の人間が中谷のロープにフックを掛け、おんぶをするように背中をよじ登っていく。中谷はこれを手や足を掛けてサポートし、完全に位置の入れ替わったことを確認してからフックを外した。追い越しに十数分掛かり、この時点で中谷はもう疲れ切っていた。
すると何処からともなく笛の音が響き、中谷は手を止めた。休憩の時間だ。今は夜だから、食事と仮眠を取るための数時間が与えられる決まりだった。ロープで身体を固定して、そこに座る形となった。ロープが切れてしまえば、中谷は落ちてしまうだろう。そう考えて肝が冷えた。
簡単な食事と仮眠を後に、再度笛の音が鳴った。中谷は孤独な──それでいて姿の見えぬ仲間と共に、静かな戦いに身を投じた。手の平にマメが出来ては潰れ、靴底が擦り減っては千切れ、指が出る。幾ら登ってもキリがなく、時折り脱落者が横を過ぎていく。次第に身も心も消耗していき、中谷は自分の決意を後悔するようになっていた。
何故登ろうと考えたのだろうか。単なる好奇心のためにしてはあまりに馬鹿らしく短絡的だった。既に標高二千メートルは越したのではないかという地点に居るが、まだ先は見えない。見上げれば先端は太陽へと続いていて、もしかすると梯子は灼熱へと伸びているのかもしれなかった。
今更後戻りも出来ない。下を見れば、霞むような姿が遠くに見て取れる。下りることはおろか、立ち止まることも叶わない。中谷に与えられた選択肢は、ただ登ることだけだった。この先に何があるのか、好奇心を燃料にして手を掲げた。
更に数時間経って、息も切れ切れになる頃に笛の音が微かに聞こえた。それは疲労困憊した脳が聴かせた幻聴かもしれなかった。中谷は今一度手を止めて、休憩に入った。マッチの火で集めた水を水筒に入れ、大量に飲み干した。要らなくなった道具は落下傘で地上へと落とし、荷物を軽くさせる。
中谷はロープの中で大きく伸びをすると、あまり空気の冷たくないことに気がついた。その上、酸素が薄くなっていない。この場に適応したのかと思ったが、確証はない。ただ違和感もそれを否定する要素も中谷の感覚的なものでしかなかった。暫く考えてみたが、笛が鳴ったので思案を取り止め、また上を目指した。
登り始めてから数日が経過した。この時にはもう落下する人間も少なくなり、中谷より上にはどれだけの者がいるのか気になった。もしかすれば自分が頂点に存在しているのかもしれず、だとするならば、真の開拓者として名を刻めるかもしれない。そんな未来を夢見て、頂上を想像した。
登頂した先には何が待ち受けているのだろう。例えば梯子を下ろした存在がそこには居て、登頂するのを今か今かと待ちぼうけているのかもしれない。もしも登り詰めたら、何故梯子を下ろしたのか聞いてみたい、と中谷は考えた。
呼吸のリズムに合わせて、ひとつひとつ丁寧に梯子を登り、中谷は雲の中を突っ切っていく。靄がかった視界の中、梯子には水滴が付いており、注意深く手足を動かしていった。少しでも身を誤れば地面へと一直線。また別の方法で天国へと向かうことになる。そしてこちらの方が正攻法で、確実なのではないか、早いのではないか、という冗談を考えるまでに中谷はなっていた。
端末を確認して、現在地点が標高三百キロメートルの位置に居ることを知った。そして同時に、今度は明確な違和感を覚えて、中谷はぞっとした。今自分は成層圏に居る。もしかしたら梯子はどこにも繋がっていないのではないか、このままでは宇宙へと突き進んでしまうではないか、と焦りを感じた。
不意に中谷は、人間は好奇心だけでどこまで登り詰めるだろうかという、気楽な好奇心のために梯子が下されたのではないかと考えて、恐ろしくなった。いずれにせよ、もう中谷に選択肢は残されていなかった。もはや下のことは見えていないのだから。
中谷は意を決して次の段に手を掛けた。いつ果てるともわからないこの身体だ、最上段まで辿り着けるかわからない。中谷は歯を食いしばりながら、よじ登り続けた。そして──彼は梯子の途切れるのを目に留めた。漸く辿り着いたのだ。そこは梯子の果て。そう、その先には何もない。
何もなかった。
中谷は察した。これは単なる梯子であり、どこにも繋がっていないことを。ただ漠然と置かれたのではなく、この梯子自体が異次元空間そのもので、中谷はそこを移動したのかもしれない。だとすれば、最初の一段に足をかけたその時点で、もう既に梯子を伝って別の場所に来たことになる。ならば、地上から梯子の世界へと来たのだから、梯子より先の世界はない。落ちるしかない。
中谷は考えた。もしかすると、今までに落下していった者たちは皆、最上段へと辿り着いていたのではないか、と。彼らは途中で限界を迎えたのではなく、限界点を迎えたのだ。これでは誰も梯子が独立していると知ることが出来ない。
それならこのまま留まるのはどうだろう、と考えた。後詰まりを起こして、それとなく知らせるのだ。だがそれも良い案だとは思えない。下の者から見れば、上に居る人間の身体ばかりが見えて、途切れているのがわからない。これでは信じてもらうにも説得力が足りないだろう。それに、落とされてしまう可能性だってある。
では、反対側へ回って折り返す──?
中谷は血の気が引いて、思わず手を離してしまった。
「あっ」
呟くのも束の間、身体は宙に投げられた。
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