死のない社会
街は水に呑まれ、何もかもが水底に沈んだ。
半青色の液体が空気の代わりに辺りを包んでは、質量が生み出す摩擦によって、腕や足の動かす早さにストッパーが掛かる。寝ぼけたように愚鈍な動きを繰り返して、俺は天を仰ぐ。
俺たちは、死を失う代りに、再び水棲生物へと退化した。
その昔、ある研究者が水棲生物の老化しないことに気が付き、その原因に水の影響があることを指摘した。老化とは物質の劣化であり、劣化とは空気との摩擦から生じる酸化である、と。
まずその仮説が生まれ、次には空気に代替する液体が開発された。試験的にその液体の中で子供を育ててみると、奇妙なことに、老化しないことがわかった。然し、食べれば食べるほどに、質量保存の法則から言って人の体積は増えていく。つまるところ、大きな子供が出来上がった。
それは天使のように気味が悪く、悪魔のように可愛らしく、そのために人々は希望を持った。
その日以来、人は子をなすことなく個をなした。老化に苦しむくらいならば、死と生を捨てることを選んだ。同時に、魂の価値は地に堕ちた。
さて、不老不死のための技術が開発された次に待ち受けたのは、その装置を設けることの大変さであった。建造物の多くは鉄で出来ているが、然し、鉄は水のために錆びて脆くなる。そこで注目されたのが、今現在でも残っている遺跡物であった。
長い年月が経っていても尚残るためには、
水を入れる器として、多くの建造物は砂や土から作られるようになった。やがて、街全体に満遍なく液体が流し込まれ、不老不死の第一歩を踏み出すこととなった。街は、生命維持装置の器となった。個々人という魂にとっての、肉体となった。俺たちは、地球と一体になったのだ。
俺たちが水棲生物となってから、数年の月日が経った。本来ならば時間の経過など記録する必要はないのだが、まだ死者が出ていた頃の、昔の癖というものが残ってしまっているのかもしれない。最近になってから、時間というものの概念が消えかかっている。
ある民族は時間という概念がないらしい。それは、俺たちの命を捨てた日よりも昔からそうであったらしい。不思議な話だ。過去であれば、俺はこの話を疑っていたに違いない。だが、今となってはそれが現実になりつつある。どうやら、彼らの考えは非常に先進的であったらしい。
例えば、時間の進み方は「過去→現在→未来」の順に訪れては過ぎ去っていくものだ。だが、思考する際は、「未来からやってきて現在となり、やがて過去となる」わけだ。こうした肉体的な感覚と思考による理解の違いもあって、大変に時間というものの不可思議さを持っていたが、それも
こうした自分でも
身体が変化すると、精神もまた、魚に近づいていくようで、何とも形容し難い心持ちになる。肉体の感覚から精神は形作られるのであれば、やがてそこから形成される論理もまた、変化するだろう。ならば、受動意識説というのはこうした論理から裏付けされるに違いない。
水没した都市の中を、俺たちは自由に生きている。
だが死ぬことがなくなった所為か、最近は自由だとか生きた心地だとかが抜け落ちていくように感じられる。
とは言え、それも悪くないように思う。
本能のままに赴くことも、良いではないか。
背中に伝わる水の振動から、背後から訪問者の来ることを察知した。こうした物理的な気配というものを、俺は会得していた。これは、魚にもある能力であるという。そのために、彼らは目で見なくとも世界を認知できているのだ、と。
成る程、ならば俺たちはやはり魚に近づいているのだろう。
そろそろ、このメモ書きも終わりにしておこう。訪問者の対応をしなければならないのだから。とは言っても、俺は何故メモ書きをしたのだったか。昔のことを思い出して、少々、感傷的になってしまったのかもしれない。
だが、今の世界にとっては、時間は無いに等しい。
──永遠なのだから。
だから、後世のために何も語る必要はないだろう。
これからのことは、今までのことの、延長線上にあるに過ぎないのだから。
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