EX.1 後編

 画面には、かつて沙紀がアイドルを目指すきっかけとなった人物が映っていた。

 最初はビデオ通話かと思ったが、録画したもののようで、沙紀と視線が合うのを待つことなくしゃべり始めた。

『こんにちは、沙紀お姉ちゃん。覚えてくれてるかな。黒川明です』

 忘れるはずがない。沙紀が施設を出てから数年間会っていなかったから、記憶よりもずっと成長した姿になっていたが、それでも面影はしっかりと見て取れた。

『本当は直接会ってお話ししたいとも思ったんだけど、お姉ちゃんはすごく忙しいだろうし、私もお姉ちゃんに心配させないくらいしっかりした子になってから会いたいな、って思ってたから』

 そんなことを言っているが、沙紀からすれば明はずいぶん大人びていて、十分しっかりした少女のように見える。きっとそれは、彼女が普通の同世代の子とは全然違う経験を重ねているせいなのだろう。

『だから、一方的になっちゃうけど、こうやってメッセージを残させてもらう形にしました』

 そんな気を使わなくても良かったのに。沙紀はそう思いつつも、きっと彼女と会話をしてしまうと、もっと感情が揺さぶられただろうから、これで良かったのかも、とも思ってしまう。

『羽村さんがね、こういう機会を与えてくれたんだ。お姉ちゃんがレプランをやめるって言うから、私が思っていることを伝えてくれってお願いされたの』

 その「お願い」は、沙紀が予想していたものとは少しだけ違っていた。てっきり、沙紀を説得してほしいと言われたのだと思っていた。

『私ね、お姉ちゃんがアイドルをやっていることは、結構前から知ってたんだよ。舞原さんに教えてもらってたから。なかなかライブに行くことはできなかったけど、ネットで公開されている動画とかはずっと見てた。最近はテレビにも出てくることも多かったから、見る機会も増えて、お姉ちゃんだけじゃなくてレプラン自体が好きになってた』

 知ってくれていたということが少し意外で、沙紀はかすかに口元を緩めながら目を細めた。確かに舞原には定期的に連絡をとっていて、アイドルグループに入ったことも伝えていた。けれど、2、3年前に、明は他の施設に移ったと聞いていたから、彼女が自分たちのことを知るのはもっともっと知名度が上がってからだと思っていた。

『でもね、もしお姉ちゃんが本当に辛くて、やめたいんだって言うなら、私は絶対にお姉ちゃんの味方だよ。羽村さんには悪いけど、そこは絶対に譲れない』

 沙紀がちらりと視線を羽村に向けると、彼は苦笑を浮かべながらうなずいた。

『それでも――もし、もしもだよ。タイミングとかスケジュールとか、色々考えた上で調整ができるなら。できれば来月のライブには出て欲しいな』

 画面の中で、明は後ろめたいような、そしてどこか照れたような表情を同時に浮かべる。

『あのね、私、来月のライブに行く予定だったの。お母さんと一緒に』

 それを聞いて沙紀の目が大きく開かれる。

『半年くらい前に、やっとお母さんの状態が落ち着いてきて。何度か外で会ったりしているの。最初は少し怖かった。子供のころのように拒絶されるんじゃないか、っていう恐れはなかなか拭えなかった。何度か会って、段々その怖いっていう感覚がなくなっていった後も、お互いどこかぎごちなくて。そんな私とお母さんをつないでくれた共通の話題が、レプリック・ドゥ・ランジュだった。お母さんはお姉ちゃんを見て、すごいね、頑張ってるね、かわいいね、かっこいいね、って言うの。そしたら私は「そうでしょ」って、自慢気に言っちゃうんだ』

 そして明はくしゃっとした笑顔を浮かべる。そこにはかつてのような悲愴さは見られない。

『お姉ちゃんは私が一番つらい時に傍にいてくれた。だけどその後だって、私がちょっとしんどいな、大変だなって時に、お姉ちゃんが頑張っている話を聞いたり、その姿を見たりすることで、元気をもらえた。ずっと支えてもらってたんだよ』

 明の目はどこまでも真っすぐで、嘘など微塵も感じられなくて。

『だから、いつか絶対に伝えたかった。お姉ちゃん、ありがとう。私は、お姉ちゃんにどれだけ救われたか分からない。どれだけ力をもらえたのか分からない。お姉ちゃんがアイドルをやめても。芸能人をやめても。私は一生お姉ちゃんのファンで、ずっと感謝と憧れの気持ちを持ち続けると思う。だから、私はお姉ちゃんが一番納得できる形を、選んで欲しいって思ってるんだよ』


 その後、明が再会を期して別れの言葉を告げた所で動画は終わり、羽村はタブレット端末を手元に戻した。

 この映像を見せるのは、羽村にとっては一つの賭けだった。

 こんなにも真っすぐに向けられる心からの信頼を、今の沙紀が受け止められるのかという不安があった。

 けれども、自分はアイドルとしての能力に欠けていると信じ込んでいる彼女を翻意させるためには、どうしても彼女に自信や確信をもたらす何かが必要だった。

 わずかに躊躇しつつ羽村が視線を沙紀に向けると、呆然とした表情のまま、

「私には、何もないの」

 沙紀はそうつぶやいた。

「こんな風に感謝とか期待とかしてもらえるだけのものを、私は持ち合わせてない。スキルも、魅力も、熱意も。周りのみんなと比べたら全然足りない。それどころか、私を私たらしめる何もかも。私自身の過去も――未来、だって、私のものじゃない」

 泣きそうな声で、誰に言うともなく口から言葉を漏らす。

「未来?」

 羽村が思わず眉をひそめると、沙紀は唇を噛んでぎゅっと目を瞑った。

「そうだよ。いつか、何かの拍子で記憶が戻ったとき、私は私じゃない『桐谷沙紀』に戻るかもしれない。だから、私自身が保証できるのは、『今』しかないんだ」

「――それは、私も同じですね」

 生々しく傷だらけの言葉を吐き出す沙紀に、玲佳は微苦笑を浮かべて答える。

長い間ずっと抱き続けていた不安を一蹴されたように感じて、沙紀は玲佳に怒り混じりの視線を向けかけるが、すぐにその意図を悟ると、失言を自覚して目を伏せた。

「いえ、私だけではありません。あなたと状況や深刻さは違いますが、他人に自分の未来を保証することはできないという点では皆一緒です」

 玲佳の言葉に、羽村はうなずく。

「お前の自信のなさがそこから来るのは理解しているよ。でも、本当に今のお前には何もないだなんて、そんなことあるわけないだろう。お前のファンが今どれだけいるか理解しているか? 技術も魅力も熱意も、全てない? そんなやつがこれだけの人に受け入れられるはずはないよ。不足しているものがあるんだとしても、今のお前が、レプランのサキとしてのお前が、これまで見せてきたもの全部で評価してもらえたんだ」

「でも、それはきっと表面的なものでしかなくて――」

「さっきの明ちゃんの表情を見て、まだ本気でそう思うのか?」

 強い口調で言われて、沙紀は唇を噛み締めてうつむく。

 その反応を見て、羽村も熱くなった自分を自戒するように軽く頭を振った。

 しかし、ふっと短く息を吐くと再び言葉を続ける。

「俺は、他にやりたい事があるとか、この仕事を続けるのが辛くて耐え難いって言うならそれを尊重する。そして、こういう世界だから、自分の能力を見極めて引き際をわきまえるというのも大事だと思う。でもお前は違うよな」

「違わなくない。最初から今の今までずっと言ってるよね、私は――」

「本当に、そう思っているか?」

 もちろん。

 言いかけた言葉が、なぜかすぐには出てこなかった。

「桐谷、腹を決めろ。この先の桐谷沙紀の人生を歩むのは、今のお前だ。記憶を失う前のお前じゃない。もしも近い将来、昔の記憶が戻って今の記憶がなくなるのだとしても同じことだ。これからどういうことをしたくて、そのために今何をするか。決めるのはその時々のお前なんだよ。そして、俺も、四条も雪村も、明ちゃんも、そしてお前のファンも、今のお前を評価して、信じている。だからお前にも、自分自身を、そして俺たちの信頼を、信じてほしい」

 沙紀としては、羽村にここまで言ってもらえるとは思っていなかった。

 嬉しかったし、長年抱えてきた自分自身を信用しきれないという不安定な気持ちが、今この瞬間はその重みを減らしているのも事実だ。

「わかった」

 だから、沙紀はうなずいた。

「羽村さんが言う通り、私には自信がないし、この先もきっと不安が消えることはない。だからこそ、いろんなリスクを考えてしまうし、大好きなレプランに迷惑をかけたくない、って思ってしまう。でも、ここまで言ってもらえるならさ。もうちょっとだけ頑張ってみるよ。その後のことはまた考えなきゃいけないと思ってるけど。それでもいい?」

 そう言って、沙紀は羽村と玲佳に視線を向ける。

 羽村はある程度納得した様子で、そして玲佳はどこか釈然としない顔で、それぞれうなずきを返した。


 とはいえ、沙紀からすれば問題を先送りにしただけにすぎない。

 今の自分を評価してもらえていることは良く分かったが、これからどうなるかというのはまた別の話だ。

 沙紀にもこの先続けていけるだけの力はある、と羽村や玲佳は言ってくれたが、肝心の沙紀本人が、それを確信できない。

 内心、参ったなと思いながらひとまず着替えようとして部屋を出ると。

 扉のすぐ外側に座り込んでいた奏と視線が合った。

「奏ちゃん?」

 沙紀が声をかけるが、奏はその呼びかけには答えずにまっすぐに視線を向けてくる。

 先ほど部屋を出て行った時の弱々しいものとは打って変わって、彼女がステージ上でよく見せるあの目だった。そしてそのままゆっくりと口を開く。

「私たちはこれから、いろいろなステージに立って、たくさんの、普通に生きているだけでは見られない光景を見ていくと思う。やっぱり、私は沙紀さんと一緒にそれを見たいし、その場所にいる私のことを見ていてほしい」

 静かな口調とは裏腹に、熱を感じさせる言葉だった。

「見れるよ。例えレプランを辞めても、私はレプランのファンでいると思う。ライブにも通うし、テレビに映ったり動画がアップされたりすれば見るし、SNSもフォローする。みんなが輝いている瞬間を、きっと私は見逃さない」

 ざわつく胸の内を抑えながら、沙紀は努めて冷静な言葉を返す。

 例え同じステージの上に立っていなかったとしても、一ファンとしてその光景を共有することは可能だろう。

「それで満足できるの?」

 けれど奏が唐突に放ったその一言に、沙紀は言葉を失う。

 本当に、核心をついてくる子だ。沙紀は小さく呻く。

 そこまで言われて、ようやく気付いた。

 沙希はずっと『できるか、できないか』の話でしか考えていなかった。

きっとそれこそが、沙紀が自分自身を一番評価できないと感じていた所なのだ。

 改めて自分に問う。『やりたいのか、やりたくないのか』。

 答えは明白だ。

「言うじゃん、奏ちゃん」

 ぽんと奏の頭に手を置く。

 知っていたはずだ。奏には、他人にまで伝播するほどの強い熱がある。

 できないかもしれないことはできなかった時に、迷惑をかけるかもしれないことは迷惑をかけた時に考えよう。

 今まで頑なに拒んでいたそんな考えを、今は受け入れられる気がするのは、きっと彼女のその熱に当てられたからだ。

 そんな沙紀の感情の変遷を読み取れるはずもなく、ただ雰囲気の変化だけを感じ取った奏が、ぱちくりと目を瞬かせる姿がなんだか妙に可愛らしくて。

 沙紀は大きく声を上げて笑った。

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