EX.1 前編

 私には、おそらく芯というものがない。


 自分が自分であるための基準、生きていく中で自然と形成されるはずのそういうものが、私にはない。


「そんなの、私だってそうだよ」

 高校生の頃、一度だけ友人にそんな話をしたことがあるけれど、彼女はそう言って苦笑いを浮かべた。

 その時は私も、そうかもね、なんて答えて話を終わらせた。だけど、違うのだ。

 どちらも同じだと言った彼女と私の間には、決定的な違いがある。


 私には、13歳より前の記憶が、一切ない。


 一番古い記憶は、病院のベッドで目を覚ました時のことだ。ベッドから見た天井の映像を、今でも覚えている。

 私は両親、親戚の人たちと一緒に参加したツアー旅行で、バスの転落事故に巻き込まれた。地震と落石が発端となったその事故は大惨事につながり、生存者は私しかいなかった――らしい。

 私の病室に入れ替わり立ち替わり入ってきた色々な大人が、そう教えてくれた。

 私は全身に傷を負っていて、最初はまともに動くこともできなかったので、その話を疑うことはなかった。それでもその事故に関する記憶がなかったから、どこか現実離れした話にも聞こえていた。

 主治医の先生に記憶がなくなっていることについて話すと、彼は、物理的にも精神的にも強い衝撃を受けたのであろうから無理もない、と言ってうなずいた。そして、治療も試みるが効果が見込めるとは言えない。何かのきっかけですぐに戻るかもしれないし、今後ずっと戻らないかもしれない。冷静な表情で、そう言われた。

 実際に検査でも異常は見られず、催眠療法も効果はなかった。

 それなら、仕方ない。記憶がないことで、急にわけもなく不安や焦りに襲われることもあったが、それでもそう納得するしかなかった。


 ケガが治って退院した後、身寄りを失ってしまった私は児童養護施設に入ることになった。

 施設長の舞原さんは優しそうな人だった。私が不安に思っていることを聞いてくれ、親身になってアドバイスをくれた。

 そして、私の両親が私の体を守るようにして亡くなっていたことを教えてくれ、あの事故の唯一の生存者として、その意味を考え、感謝して、精一杯に生きなさいと、そう言われた。

 その話は病院でも色んな人から言われた。それは議論の余地がないほどに正論で、両親の顔も覚えていない薄情な私でも、その通りだなと素直に納得することができた。

 ただ、そうは言っても、自分の生き方を見つめなおすにあたって記憶がないというのは難しい状況だった。本来の自分はどんなことが好きでどんなことがしたかったのか、何もわからなかった。だから、人の役に立つことで自分にできることをやろう。そういう発想になった。

 施設で一緒に過ごすグループの中で、私は年長の方だった。だから、年下の子の面倒を積極的に見るようにした。スタッフの人はいつも忙しそうだったから、私に感謝してくれたけれど、元々それを期待されていた節もあった。

 施設には複雑な状況にいる子が多かったが、普段の生活で一番目についたのはあきらちゃんという5歳の女の子だった。

 彼女は私より1週間早くこの施設に入った子で、母親から虐待を受けていて外傷もまだ生々しかった。皆の遊びの輪にも入れず、ずっと部屋の片隅にいて、たまに泣いている姿を目にすることもあった。

 職員さんも気にしていて、たまに声をかけていたけれど、忙しすぎて彼女にだけ構うこともできていないようだった。だから、私は他の子に気をかけながらも、明ちゃんにも積極的に話しかけるようにしていた。邪険にされても懲りずに繰り返していたら、本当に少しずつだが、態度が柔らかくなり、話をしてくれるようになった。

 やがて私には笑顔まで向けてくれるようになって、心を開いてくれているのかな、などと思い上がってしまうこともあった。けれど、皆が寝静まった夜に、明ちゃんが声を殺しながら泣き、『ママ』と囁いているのを耳にする度に、私は偽物でしかないのだと、思い知らされた。


 それから半年ほど経った時、施設に支援者を招いてクリスマスパーティーをすることになった。定番だけど劇もやることになり、私は天使の役を演じることになった。

 台詞は少ないけれど、迷い、悩み、苦しむ人を見守り包み込むような優しさを表現できればいいな、と考えて演技をしていた。

 劇を終えると、パーティーに参加していた大人たちからたくさん褒めてもらった。普段から有名な劇場に足を運ぶような人も多いことは知っていたので、その言葉を額面通りに受け取ることはできなかったけれど、それでも、何もない私が褒められることはあまりなかったから、少し、嬉しかった。

 そしてパーティーを終えて、片付けをしていると、私のもとに明ちゃんが走り寄ってきた。

 もう遅いから早く寝なさい、と伝える私に頷きを返しつつ、明ちゃんはもじもじとしながら私の服の端をつかんでいた。

 そして、意を決したような表情になって口を開いた。

 おねえちゃん、すごくきれいだった。今まで一度も目にしたことのない、キラキラとした瞳で、彼女はそう言った。

 それを聞いた私は一瞬固まってしまい、そして思わず彼女をぎゅっと抱きしめた。

 ああ、こんな私でも、誰かにこんな目で見てもらえるようなことができるのか。


 我ながらひどく単純だと思う。けれどこの時、私に初めて目標と呼べるものができた。

 明ちゃんのような子が、あんな風に前向きな表情を見せてくれるような何かをしたい。

 そんな思いを舞原さんに相談すると、彼女も賛同してくれて、彼女の知人に色々と掛け合ってくれた。そして施設の支援者の一人が、芸能事務所のオーディションを受けてみたらどうかと提案してくれた。

 最初に舞原さんに相談した時点では、私はどこかの劇団に入団したいと考えていた。

 記憶も経験も、嗜好も思想も。積み重ねたものがなく、何一つとして自分自身の『本物』を持たない私だったけれど、舞台の上でお芝居として表現される小さな世界の中ではそれも関係ないはずだ。そこでなら、偽物でしかない私でも戦える。そう、思った。

 それを考えると、芸能事務所に所属してタレントや女優を目指すことも、あながち目的から外れた選択ではない。けれど、ハードルはぐっと高くなっているようにも感じた。

 ただ、オーディションを紹介してくれた人は、さすがに合格までは融通できないが、書類審査を通すことくらいならしてあげれられる、と言ってくれた。客観的に見て、私は決してビジュアルがいい方ではないし、経歴や今の状況を踏まえると、書類審査で落とされる可能性が高かった。それならこの機会を生かすべきだと、自然にその結論に至った。

 結果から言うと、私はオーディションに合格した。

 病院で目が覚めてから今に至るまで、私はたくさんの大人たちに会い、病気や経済的な事、法律的な事など重めの話もたくさんしてきた。おそらくそのせいで、彼らのちょっとした仕草や言葉で、彼らの本音や私に何を求めているのかが分かるようになってきていた。そういう機微を読み取った受け答えが面接ではできたと思うし、自分の状況や思いを変に誤魔化したりせず、正直に言ったのも良かったのかもしれない。

 いずれにせよ、望外の結果を手にすることができた。

 舞原さんたち、周りの大人は喜んでくれたけれど、そこから先は順風満帆とはいかなかった。

 事務所が用意してくれた演技レッスンをこなしながら、映画やドラマ、CMのオーディションをたくさん受けた。ようやく、CMのエキストラとして役がもらえたのは、事務所に所属してから半年が経った頃だった。

 テレビにほんの一瞬映った私を見て、施設の子たちは、すごい、すごい、と言って興奮してくれていたが、私からすれば期待をはるかに下回る成果だ。

 私は焦っていた。来年には高校生になるので、その時までには自立できるようにしていたかった。そして、今私が舞原さんたちにかけている負担や迷惑に見合う何かを、返したかった。現状はそれからは程遠かったし、最初の仕事の後も数か月おきにしか仕事を取れなかった。

 仕事をもらえるようになるにはどうすればいいのか。オーディションを片っ端から受けながら、ずっと考え、もがいていた。自分と同じ状況の人は周りにもありふれていて、だからこそどうにかして差をつけなければならなかったが、簡単なことではなかった。

 運動して身体をつくったり、空いた時間で発声練習やストレッチをしたり、すぐに思いつくことはやっていたし、事務所や現場で先輩やスタッフさんと会う機会があれば積極的に話を聞くようにした。

 けれど、そんな当たり前のことを当たり前にやっているだけでは、到底追いつけない人たちがいることを、私は知ってしまった。私のような、端役をつかむことでさえ汲々としている有象無象とは一線を画した、そこに居るだけで場の空気を変えられるような人たち。

 そして同時に私は気づいてしまう。施設の子たちが私に向けてくれる賞賛は、『私の演技や表現』がすごいからではない。『私がテレビに出ていること』がすごいからなのだ。

 どんな理由であろうと、明ちゃんたちが前向きな感情を持つきっかけになってくれれば、それで十分。そういう風に考えられればそれでも良かったかもしれない。けれど、私は明ちゃんたちみたいな子が他にもたくさんいることを知っている。だから、それでは意味がないことも分かっていた。

 崩れ落ちそうになる心を懸命にこらえている状況で、マネージャーから転籍の話があった。

その話を聞いてショックを受けたかと言えばそうでもなくて、逆になんだか肩の荷が下りたような、そんな気がした。


 私は舞台やステージの上でなら、偽物が立つことも許されると思っていた。だけど、違った。そこにはやっぱり本物がいた。

 8000人の観衆を前に、スポットライトの光を一身に浴びるカナデちゃんの背中を見て、私は目をすがめた。



 ライブ終了後、樋口達に指示を出し終えてようやく一息つくと、羽村はほぼ荷物置き場になっているマネージャー用の控室に向かった。

 扉を開いて、羽村は眉をひそめた。人がいるとは思ってなかったからだ。

「どうした? 桐谷」

 ライブ衣装のまま、壁に背中を預けながらどこか悄然とした表情を浮かべていた沙紀が、ゆっくりと羽村に顔を向ける。

「羽村さん」

 反射的に口にしたその言葉から先が、なかなか出てこなかった。

 沙紀は目を閉じて、言葉を探っていたようだったが、不意に何かの衝動に襲われたかのようにぎゅっと眉間に皺を深く刻み込んだ。

 そして肩にかけていたタオルをとって丸めると、それを顔に押し当てた。

 しばらく沈黙が下りた後、沙紀は細く、長い溜息をついた。

「羽村さん。私は、ここだと思う。ここしかないよ」

「……何が、だ?」

 半ば、答えは予想できていたが、羽村はそう問いかける。

 沙紀は顔からタオルを外すと、表情を崩して微笑んだ。

「私が、レプリック・ドゥ・ランジュを辞めるタイミング、だよ」

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