第25話 次のステージへ(3)
レッスン後、他のメンバーからは大分遅れて帰り支度を済ませた悠理が事務所を出ると、すでに帰路についたと思っていた玲佳が目の前に立っていた。
寒さに思わず背を丸めてしまった自分とは対照的に、玲佳は長い脚をピタッと合わせたまま真っすぐに伸ばし、背筋もピンと立てた美しい立ち姿で、悠理は思わず見とれてしまう。
「あら、悠理さん。お疲れさまでした。今日はお車ではないのですか?」
玲佳の方も悠理に気付くと、微笑んでそう声をかけてきた。
「ええ、最近はずっと電車なんです。いつも家から車を出してもらうのは心苦しかったので」
以前は他のメンバーより先に帰宅する口実が必要だったので、それでもお願いするしかなかったのだが、今はそれももう必要ない。
「玲佳さんこそ、今日はこんな時間までどうされたんですか?」
玲佳も帰りはいつも家から車で迎えが来ていて、早めに帰宅することが多かった。
「今日は少し羽村さんと会話したいことがありましたので、迎えの時間を少し遅らせてもらいました」
「話って、今度のライブのことですか?」
悠理がそう尋ねると、玲佳はどこかあいまいな笑みを浮かべながらも、肯定するように首を縦に振った。
「1500人、ですもんね。JIP Fes.の時も2000人で、すごい数だなって圧倒されましたけど……その時とは意味も全然違う」
改めてその重みを感じて、悠理は口をつぐむ。
その様子をじっと見つめていた玲佳は、一瞬の間の後、悠理に問いかける。
「怖いですか?」
「それは――」
もちろん、と言いかける悠理を制するように。
「騙す相手が、急に増えたことが」
玲佳が連ねた台詞に、悠理は言葉を失った。
「すみません、責めるつもりで言ったわけではありません」
悠理の反応を見て、玲佳は自分の失態を恥じるように視線を落とし、謝罪する。
「いえ、事実ですから。確かに私は怖い。私たちに向けられる笑顔や優しさ、期待が増えるほどに、私が犯す罪は増えていく。だけどそれは分かっていたことです。今更前に進むのをためらって、足を止めるわけにはいかない」
「そうですね」
悠理の覚悟を受け入れるように、玲佳は優しい表情でうなずく。
それに対して、悠理は少し不思議そうな表情を玲佳に向ける。
「今更ですけど、私はあの時、皆からもっと反発を受けると思っていました。私個人のわがままで、レプリック・ドゥ・ランジュに大きなリスクを抱えさせてしまっている。それなら、早い時点で私を切り離す選択肢も皆の中にできていたはずです。なのに、誰もそれを言葉にしなかった。どうしてでしょうか?」
「確かに、私にとってレプリック・ドゥ・ランジュという存在は何にも代えがたいものです。それを守るためなら、私は冷酷な対応を取ることも辞さない覚悟はあります」
悠理は息をのんで、玲佳に恐る恐る視線を向ける。
しかし、彼女の強い言葉にはそぐわない、悩みや迷い、自責のような、珍しく弱さを感じさせる表情が、そこにはあった。
「それでも、悠理さんのケースには、私は何も言えないのです」
「どうして、ですか?」
「私も同じだからです」
その言葉の意味が分からず、悠理がぱちぱちと目をしばたたかせる。
「すみません、今はまだ何も言えません。でも、私とあなたは、とてもよく似た立場にいます。自分自身の、どうしても譲れない目的のために、レプリック・ドゥ・ランジュを利用し、大きなリスクを背負わせる。だから、私とあなたは同じ悩みを抱える」
そう言って、玲佳は悠理に微笑みを向ける。けれど、彼女の透き通るような顔の肌の白さと相まって、それはひどく儚げで危うさを感じさせるものだった。
「あのっ!」
何か言わなければならない。そんな焦りにとらわれて、悠理は思わず声をあげる。
けれど、真っ白になった頭からは言葉は漏れ出てこない。
もどかしげに表情を歪ませる悠理の目に、眩い車のライトの光が差し込む。
もう、考えをまとめる時間も、言葉をつくろう時間もなくて。
「私は、私のすべてをかけてこの嘘を貫き通します。これ以上、他の誰にもこの嘘が嘘だと分からないように。裏切られたと、騙されたと、誰かが傷つくことがないように。だから玲佳さん、どうかあなたもその嘘を貫いてください。きっとそれは、あなた自身の望みをかなえることに必要なことでありながら、同時に他の皆が傷つくことがないために必要なことでもあるのだろうから。あなたが嘘をつくというのは、きっと、そういうことなのだろうな、って私は思うから」
勢いで、ずいぶんおこがましいことを言ったと思い、悠理は顔を赤らめる。けれど、それは確かに悠理の本音でもある。
玲佳はそれを聞いて目を見張ったまま、しばらく声を発することができなかったが、やがて軽く頭を振る。
「さすがにそれは買い被りすぎですが――でも、」
ぎゅっと、こみ上げてくる何かをこらえるように、眉間にしわを寄せ、眉尻が下がった状態で、
「悠理さん、ありがとうございます」
それでも悠理に向けられたのは、優しい微笑みだった。
「遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
玲佳が車の後部座席に座ると、運転席の男性がそう謝罪した。
「いえ、かまいません。私も時間を変更したのが直前でしたし、車を待つ間も友人と有意義な時間を過ごせましたから」
玲佳がそう答えると、運転手の男性はその厳つい相貌を緩めて目礼する。そして前へ向き直ると、そのまま車を発進させた。
事務所から自宅までの二十分強の間、玲佳は窓の外の様子をじっと眺めて過ごし、二人の間に会話はほとんどないのは常ではあった。しかし、その日はしばらく走った後、何か違和感を覚えて運転手がバックミラーに目をやると、彼はぴくりと眉をひそめて表情を険しくした。
「お嬢様」
そう呼びかける彼の視線の先で、玲佳は眉間に深いしわを刻み、ぎゅっと目をつぶったまま真一文字に結んだ唇を噛み締めている。額には脂汗も吹き出ていた。
「……大丈夫です。いつもの症状ですから、このまま家に向かってください」
確かにその症状がいつものレベルを逸脱しないのであれば、今病院に行ってもただの気休めでしかなく、意味はない。
「ごめんなさい、少し楽にします」
律儀にそう断って、玲佳はずるずると身体を倒して横になる。うつぶせになって顔は見えないが、表情はきっとより苦しげなものになっているはずだ。
運転手の彼にできることは、このまま自宅に向かい、少しでも楽な状態になれるよう急ぐことくらいだった。
その程度のことしかできない自分の無力さに、彼は表情を歪めることしかできなかった。
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