第24話 次のステージへ(2)

「ええ、それは最低限で構わないです。はい、それくらいの時間で。……そうです。それで大丈夫です。ありがとうございます。当日はよろしくお願いいたします」

 軽く頭を下げながら羽村は通話を切り、そっと受話器を置いた。

 そしてふぅっと軽く息をつくと、目をつぶって椅子に背をもたれかけた。

 イベンターとの細かい調整も大体終わり、ライブ当日を迎えるにあたっての課題もほとんど解決している。

 先日受けた取材記事のチェックも終わって先方にOKの回答を返している。

 また、ラジオ出演の売り込みもかけて、何局か色良い返事ももらっている。

 できることはしている。それでも、

「不安は、消えないもんだな」

 苦笑いを浮かべながら、独り言ちた。

 1500人。無謀だと、言われるまでもなく理解している。でも、賭けるなら今なのだ。

 有象無象から一つ抜け出るために、この数を集めた実績を作れるかどうかというのは大きい。そして今のタイミングを逃して次のチャンスが来るかといえば、きっと難しい。だから。

「お、っと……?」

 目を開いた羽村は、思わず驚きの声をあげてしまった。

 すぐ隣で、橘が腕を組んで立っていたからだ。

 けれど橘は彼女の正面、羽村からすれば自分の後方をまっすぐに見たまま、羽村には視線を向けていなかった。

「……橘さん?」

 しばらく間が空いた後、そう声をかけると、

「羽村君」

 わずかに、固い声で彼女が応える。

「怖くないの?」

 その問いに、羽村は目を丸くしてすぐには答えらえれなかった。

 けれど、ばつの悪そうな表情を浮かべて、

「怖いですよ、もちろん」

 正直に言う。

「それなら、どうして――」

「関係ないからです。彼女たちには。怖いのは俺自身がビビっているだけであって、彼女たちに対して不安や疑念があるからじゃない。だから、これが原因であいつらが成功する機会をみすみす失ってしまうだなんて、許されない」

 それを聞いて、橘は初めて羽村に視線を向ける。

「強いなぁ、君は」

 しみじみとした声で、囁くように声を漏らした。

「もし君が悩んでたりプレッシャーで辛そうにしてたら、励ましたり、慰めたりしてあげようかな、って思ってたんだけど」

 うれしいような、恥ずかしいような気持ちと、少しの反発心もあって羽村が複雑な表情を浮かべると、橘は羽村の机の上にすとんと腰を下ろした。

「羽村君さ。私の――ユカのファンだったでしょ?」

 橘由香。かつてはユカという名前のアイドルだった彼女は、そう言ってニヤニヤとした笑みを羽村に向ける。

「何言ってるんですか、いきなり」

 羽村は呆れた表情を浮かべようとして失敗しながら、なんとかそう答える。

 その反応に、ふふん、と橘は笑って羽村のペンケースに手を伸ばす。

「あ、ちょっ……」

 慌ててそれを止めようとする羽村を制して、橘は彼のペンケースを開き、内ポケットに入っていた小さなメダルを取り出した。

「これさ。私のラストライブの会場でしか販売しなかったグッズなんだよね。何か形に残したくて。そして、できれば皆に長く持っていてほしくて。壊れにくくて邪魔にならないものがいいと思ってメダルにした」

 懐かしそうに手に取ったメダルを見つめながら、

「でも、もう8年前だよ。大事に、持っていてくれたんだ?」

 悪戯っぽく目を細めながら、それでも隠し切れないほどの喜びを表情に滲ませる。

「……いつから、気づいてたんですか」

 さすがにしらも切れなくなって、頬杖をつきながら尋ねる。もちろん目なんて合わせられない。

「割と早い時期。君が新人で入ってきて、私が指導役になってすぐかな。最初はね、微妙な気持ちになった。もしかしたら昔ファンだったとか、サインが欲しいとか言い出してくるのかな、って」

「言いませんよ、そんなこと」

 羽村は憮然とした表情で言うが、照れ隠しの成分も多分に混じっている。

「そうね、言わなかった。当時はそういう公私混同なこと言ってきたらキツめに叱ってやろうと思ってたけど、君はそういうところ、まじめで潔癖だよね。でも、今ならいいよ」

 橘の言葉の意味がわからず、いぶかし気な表情を浮かべる羽村に、

「頑張ってるご褒美。ユカとして、君のこと励ましてあげてもいいよ」

 橘はにこりと笑みを向ける。

 最初は、冗談だと思った。けれど、彼女の目は気遣わし気で、優しくて。

「いえ、大丈夫です。俺は、ユカのラストライブで思ったんです。今までずっと皆のために頑張ってきてくれたんだから、これからは自分のために頑張ってほしいって」

「そう? まぁ別にあの時だって皆のためだけに頑張っていたわけじゃないけどね」

 橘は少し照れ臭そうに笑う。

「まぁ、それなら。橘由香として、励ましてあげる」

 どういう意味かと問いかけようとした羽村の両肩に、橘は両手を乗せる。

 そして、腰を折り曲げて顔を近づけると、さっと唇を合わせた。

「んなっ」

 あまりにも予想外の行動に、羽村は顔を真っ赤にして声を上げる。

「あははっ、羽村君かわいい。意外とウブなんだねぇ」

 そういう自分だって顔赤いじゃないかと思いながら、羽村は非難の目を向ける。

「羽村君」

 それを楽しそうに受け止めながら、橘は口元をほころばせる。

「頑張りな」

 そんなシンプルな言葉が、なぜかたまらなく有難く思えて、羽村は素直に首を縦に振ってうなずいた。


 歌唱レッスンの最中、今回のライブに向けて作った新曲の3曲目をフルで通した後、高宮は手を止めると、うつむいてじっと考え込むように沈黙した。

「悠理」

 そして顔を上げると、そう呼びかけた。

「今日、曲によって歌い方変えてるよね? 今のバラード、低音域にハリと伸びがあって、よく響く声が出てた。奏に近い、情感的な歌い方。今までは切なく歌い上げる感じが多かったと思うけど、どうして変えたの?何か心境の変化でもあった?」

「いえ、そういうわけではないんですけど……JIP Fes.でサンドリヨンのエーコさんの歌い方が印象に残ってて。ダメ、でしたか?」

 恐る恐る悠理がそう問うと、高宮は顎に手を当てて視線を外したまま、首を振る。

「ダメじゃない。……ダメじゃない、よ。むしろ、こういう歌い方ができるなら表現の幅が広がる。あなた個人としてだけじゃなく、グループとしての武器に、なる」

 そして一つうなずくと、高宮は悠理に笑顔を見せた。

「それにしても、エーコの影響か。いい刺激を受けたみたいね」

 悠理がかすかに照れ笑いを浮かべて、目を伏せた。

 高宮はそれを微笑まし気に見た後、他のメンバーに視線を向ける。

「皆、合宿の始めのころに比べるとすごく上手くなってる。その自覚は皆にもあるんじゃないかしら。でも、今皆が歌っているのを聞いていて、それに対して迷いがある子もいるように感じた」

 何人か、思い当たる節があったのか、高宮からわずかに視線を逸らすメンバーがいる。

「アイドルは、他の音楽一本でやっているアーティストに比べればちょっと特殊よね。お客さんの中には、あなたたちの成長の過程を共有したいと思っている人たちが少なからずいる。だとすれば、最初から上手な姿を見せるよりも、そうでない所から徐々にうまくなっていく姿を見せる方がニーズには合ってるのかもしれない。そういう考え方もあると思う。私にはそれは否定できない」

 それを聞いて、奏が眉をひそめる。そしてそれを見て、高宮がおかしそうに笑った。

「最終的にそういう方針を決めるのは、あなたたち自身と羽村君だからね。ま、でも個人的な見解を言わせてもらえば、レプリック・ドゥ・ランジュはそういう戦略を取るグループじゃないと思う」

「どうして?」

 メンバーの中で一番迷いの深そうな表情をしていた理央がそう尋ねた。

「あなたたちのリーダーが皆の前で、ステージの上ではっきりと言っていたじゃない。あなたたちがステージの上で見せるのは、あなたたちのすべてだって。それなら、そこに嘘や欺瞞、誤魔化しをまじえるのなら、理由が――信念がないとダメ。逃げたり、楽になったりするためじゃなくてね。私は、死ぬ気でつかみ取ったものを、出せるものを出し切るのが、あなたたちのやり方なんだろうな、って思ってる。そう考えたら、もっと上手くなることができる能力と機会があるのに、それをあえて見送ってしまうのは、あなたたちのやり方じゃないって思うよ」

 理央は少し思案気な表情をした後、ちらりと奏に視線を向けた。

 それに気づいた奏は一つうなずくと、自らの想いを口にする。

「私は、香里先生に賛成。『いつか』褒められるために、今全力を出さないなんて私は受け入れられない。お客さんの前に立つなら、その時、その場にいるお客さんを、その時出せる力すべてを振り絞って満足させなきゃいけない。その方針は私にとって基本で、根源で、絶対に譲れない。絶対に」

 言っている内容とは裏腹に、奏は淡々とした口調で話すが、それがかえって凄みを感じさせて、理央は苦笑を浮かべた。

「わかった。確かに、ちょっと余計な事を考えちゃった。そもそも私たち程度のレベルで上手くなるのをためらうとか、傲慢すぎるね」

「それは間違いないわね」

 理央の自嘲めいた言葉を、翔子はくすりと笑いながら肯定する。

 そんな様子を、高宮は少しほっとした表情を浮かべながら見守り、そして改めて口を開いた。

「さ、じゃあ話を戻すけど、悠理みたいに何か変えてみたいってことがあれば、その都度遠慮なく言ってみてね。私はこうしなさい、ああしなさい、とは言わない。でも、どうなりたいのかって聞いてあげることはできる。そしてそうなるためにどうすればいいか、っていう相談には乗るよ」

「はい」

 そう答えるメンバーに目にはすでに迷いはなかった。

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