第7話 懊悩

 羽村が沙紀と別れて事務室の自席に戻り、しばらく仕事を片付けていると、気づいた時には周囲に同僚の姿はなかった。

 集中していたのか、それとも逆にぼんやりしている時間が多かったのか、自覚はなかったが、いつの間にか終電を意識する時間になっていた。

 そろそろ帰宅しようかと、パソコンの画面を漠然と眺めていると、部屋の入口のドアが、がちゃりと開いた。

「あれ、羽村君。まだ残ってたの?」

 軽く目を見張って、そう言ったのは羽村の先輩マネージャーのたちばな由香ゆかだった。新人だったころの羽村の指導係でもあった。

「橘さんこそ。この時間まで打ち合わせですか?」

「うん、今担当してる男の子たちのライブが今度あってね。今詳細の詰めに入ってるとこ。他にもフェスの出演交渉とかやってたから、さすがにちょっと疲れた」

 んー、と声を漏らしながら両手を挙げて伸びをした。

「冷蔵庫に栄養ドリンクたくさん補充しておきましたから、良かったらどうぞ」

「ほんと? じゃあ遠慮なく」

 そう言って、橘は鼻歌を歌いながら共用の冷蔵庫の前まで歩いていくと腰をかがめて扉を開けた。

 彼女は出会った時からそんな感じだったのを不意に思い出して、羽村は無意識に笑みをこぼした。そんなタイミングで、

「羽村君さぁ。何かあった?」

 冷蔵庫の陰から突然そんな風に言葉をかけられて、羽村は思わず息をのむ。

「いや、どうしてですか?」

「いつもより眉間のしわが深いよ」

 橘はたちあがって、とんとん、と自分の眉間のあたりを指で軽く叩いた。

 そんなに分かりやすかっただろうか、と羽村は苦笑する。

「今日、桐谷と話をしたんです」

「ああ、沙紀と? ちゃんと引き留められた?」

 状況を知っている橘からそう問われて、

「結果的には」

 渋い表情で羽村が答える。

「だけど根本的な解決にはなってないんです。あくまで一時的な契約の延長に過ぎなくて、彼女の低い自己評価を覆すまでには至ってなくて」

 羽村は親指を眉間に押し当てる。

「彼女はタレントとしての力がない、って自分で自分を見限ってしまっている。それがすごくもったいないと思うんです。共演した役者から、もう一度一緒にやりたいって言ってもらえるのは、他にはない彼女の長所だと思う。だけど、桐谷自身はそこに価値を見出していない」

「まぁね、最終的には自分の役割なんて本人が納得しないと意味ないし。でもあの子は頭がいいし、きちんとコミュニケーションを取れば伝わる所はあると思うわよ。少し様子を見ながらうまくフォローしてあげたらいいんじゃない?」

 そう言いながら羽村の隣の席に座ると、ん、と栄養ドリンクを一本差し出した。

 どうも、と会釈してそれを受け取ると、羽村は一気に飲み干す。

「橘さんは」

 しばらくの沈黙の後、羽村がためらいがちに口を開き、

「アイドルを辞める決意をした切っ掛けというか、基準はあったんですか?」

 マネージャーに転身するまでは別の事務所に所属するアイドルだった橘に、そう問う。

「私? 私はさ、ソロだったし沙紀とは状況が全然違うと思うけど」

「でも、ちょうど辞めた年齢が今の桐谷と同じだから、感覚に近いものがあるかもしれない」

 言われてみればその通りだ、と橘はくすくすと笑う。

「まぁ20歳っていうのは目安になるからね。その直前は確かに色々考える。でも私の場合も別に分かりやすい理由や明確な基準があったわけじゃないの。単純に力不足を実感した。本当にそれだけ」

「でも、力のない人がライブで2000人集めたりできませんよ」

 よく知ってるねぇ、と目を丸くする橘に、そりゃ一応同じ課の先輩のことですから、と何でもないことのように羽村が応える。

「確かにピーク時はそれくらい来てくれたよ。でも逆にそこで限界を感じた。2000人を満足させられる力がなかった。だから、そこからお客さんが減っていっても、『どうしてだろう』っていう悔しさよりも、『そうだよね』っていうあきらめの方が強かった。そうなったら、もう潮時でしょう?」

 少し寂しそうに笑って、橘は同意を求めるように首を傾げた。

「多分、桐谷の考え方も同じなんでしょうね。でももし彼女が、自分の長所を自覚しつつもなおタレントとして力不足と断じる理由がそれなら。それは辞める理由にならないと思うんです。グループとしてやっていくんだから役割分担があって、全員が全員人を惹きつける力をもつ理想的なアイドルである必要はない。だけどそれは……プロデュースやマネジメント側の勝手な思惑であって、桐谷自身の夢や理想を無視した、ただの押し付けになってしまうんでしょうか?」

 苦々しい表情でそう吐き捨てるように言う羽村に、あぁ、と橘は細く息を吐く。君は、そういう風に悩むんだね。小さくそんな言葉を漏らした。

「さっきの話はそういう意味か。でもそれはさ、私が軽々しく答えられることじゃないよ。君と沙紀がこれからいろんな経験をして、それから結論を出すことだよ。これから見聞きすること、出会う人、考えること。そんなことの積み重ねで、考え方が変わることは十分にある。だから、もし私から何か言えることがあるとしたら、彼女にそういう場をたくさん与えてあげること。それから良く会話をすること。良く見ていてあげること。もっとも、それは沙紀に限ったことじゃないけどね」

「そう、ですね。ライブをやって、お客さんの反応を直に感じれば桐谷の考えも変わることもあるかもしれませんね」

 口ではそう言いながら、彼女の反応を実際に見ていた羽村はそれが簡単なことでもないと理解している。ただそれでも、と思う気持ちもまた、羽村から消えないのは、それだけあのグループに期待しているからだろうか。

「あぁ、そういえば、もうライブやるんだって?」

「そうです。曲の制作、衣装の用意、場所と人の斡旋。異例だらけでしたけど、小垣

さんにはかなり無理を聞いてもらいました。メンバーからは、特に豊口には相当文句言われましたけどね」

 その時のことを思い出しながら、自然と笑いがこみ上げてくる羽村に、

「あ、悪い顔してるなぁ。分かってたんでしょ、あの子ならきっと怒るだろうって」

 しょうがないな、という表情を浮かべて橘は呆れてみせる。

「まぁ、そうですね。別に狙ってやったわけじゃないですけど。ただ、ライブやるなら絶対今なんです。今なら失敗しても失うものは何もない。あいつら皆メンタルが強いから心が折れるようなこともないし、むしろ追い詰めることで面白いことになりそうな期待感がある」

 嬉々として語る羽村を微笑まし気に見つめながらも、

「相変わらず君は、しれっとしながら結構なスパルタだよねぇ」

 橘は苦笑を浮かべる。

「でも、それだけあの子たちを信用してる。どうして?」

「あいつらは皆、アイドルになることの先に目標があるからです」

 一瞬の沈黙の後、成程ね、と一言漏らして微笑むと、橘は椅子から立ち上がって少し伸びをした。

「まぁでも楽しそうで良かった。翔子のこと、よろしくね」

 かつて担当していたタレントの名前を出して、ポンと羽村の肩を叩くと、じゃあお先、と言って帰り仕度を始める。

「やっぱり、王生に心残りがありますか?」

 ぽつり、と独り言のようにつぶやいた羽村の言葉に、橘の手が止まった。

「心残りっていうか」

 一瞬、わずかに隠れた彼女の表情が、泣いていたように見えた。

「あの子がブレイクしきれなかったのは、やっぱり私の責任だからさ」

 けれど発した声も、振り返った表情も、思いのほかしっかりしていて、羽村はわずかに胸をなでおろす。

「そういうの、言い出したらキリがないですよ」

「――だね。ま、困ったことあったら言ってよ。応援してるから」

 そう言って、橘は笑顔を見せる。

 その表情が引っかかって、羽村はわずかに眉を曇らせる。

 一度だけ、翔子を安易な方向に育てたくないんだ、と橘が漏らしたことがあるのを覚えている。そしてそれが、翔子が仕事を取れていないことの一因だ、と悩んでいたことも知っている。

「橘さん」

 そんなことを考えていると、思わずそう声をかけていた。

「ライブ、今後どんどんやっていくつもりです。だからもう少ししたら、あいつらがもう少し成長したら見に来てくれませんか? きっと王生のことも、正解だったってそう思わせてみせますから」

 虚を突かれた感じで固まっていた橘の表情が、やがてゆっくりと和らいで笑みを浮かべる。それは直前に見せたどこかぎこちないものではなくて、自然なものだったと、羽村はそう感じることができた。

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