第42話 月夜の散歩

【少し前 十二月二十五日 午後十時】

 クリスマスの宴を終えて、酔いつぶれた親父たちを尻目に風呂へ向かうとしていた。その時に美沙みささんからかけられた言葉は俺にとって難しいけれども、ずっと優しすぎるものだった。


 子供の想像でしかないけれど、茉莉まつりと付き合ったらきっと今日みたいな楽しい日々が続く。きっとずっと幸せで、誰にだって誇れるような人生になれると思う。彼女の人生に責任がもてるような人間ではまだないけれども、万が一に俺の両親のように拗れる可能性だって決して0ではないけれども。それでも茉莉とだったら大丈夫だって胸を張って言える。美夜に会うまでだったらそう言えた。

 ただ今は目をつむると美夜の顔が思い浮かんで、あの雪の夜、月の夜が頭を過ぎってしまって。誠実に茉莉に向き合えると言い切れない。


 美沙さんに茉莉を大事にしてくれってもしも言われていたらそれを言い訳に茉莉と付き合う自分が居た気がして気持ちが悪い吐き気がする。風呂場で洗い流せるような汚れじゃないような汚いものが自分の中にあるようで鬱陶しい。こんな気分になる自分がまた気持ち悪い。良くないループが続くようだった。

 気持ち悪さを冷水で頭を洗い流してぐっとこらえる。これ以上に浸っていても仕方ない。茉莉をこれ以上に抱きしめてしまったら後戻りができない。ぐっと腹に力を込めて深呼吸をする。


 #


 風呂を上がった俺は窓から月を見上げて外向きのコートを羽織って、茉莉の元へと向かうことを決めた。 

 ……ただ、まずは親父を連れて帰らないといけない。隣の茉莉の家へと行くために玄関の扉を開ける。身を切り裂くような風は風呂上がりの体温を奪っていくけれど、先程のように身体は震えないで済む。


「お邪魔します……。」

 そっと小声で金属製の玄関の扉を開ける。すでにリビングの灯りは消えていて、奥からは男二人分の低い寝息が聞こえる。

「薫、ふふ、ちょっと遅かったね。」

 ちょうど髪を乾かし終わったのか、洗面所の方から茉莉が姿をあらわす。

「あれ、やっぱりだめだった?」

「お母さんが今二人に毛布を掛けてる。起きないね、きっとあれは。」

 また結局に美沙さんに迷惑をかけてしまった。うだうだと悩んでいるうちに長風呂になりすぎてしまっただろうか。


「薫くん、さっき言ったとおり今日はもう大丈夫よ。」

 奥からそっとリビングから顔を出した美沙さんは優しい声音で伝えてくれる。

「すいません、じゃあよろしくお願いします。明日の朝起きなかったら迎えに来ます。」

 すっと頭を下げてお礼をする。

「そんな畏まらなくていいのよ。」

「そうだよー。大丈夫!」

 茉莉も美沙さんに同調して太鼓判を押してくれた。寝間着姿の彼女はしっとりと濡れていて一段と優しげな雰囲気だ。そんな状態で忍びなかったけれども、さっき決めたことを伝える必要がある。


「美沙さん、茉莉とちょっとだけ出かけていいですか?」

 俺の依頼に少し驚いた表情を一瞬したけれど、美沙さんは頷いてくれた。

「……大丈夫よ、行ってらっしゃい。」

「え、薫どこいくの?」

 困惑した茉莉の目をそっと見つめて言葉を選ぶ。

「茉莉に付いてきてほしい。コートとか暖かい格好できる?」

 俺の雰囲気か、言葉尻から何かを察してくれたのか、茉莉はコクリと頷いてくれる。

「……わかった。ちょっと待っててね。」

 廊下をそっと歩き茉莉は自分の部屋へと戻っていった。

「今日は大丈夫よ。だから安心してね。」

 その言葉にはきっと色んな気持ちを込められている。美沙さんはひっそりと扉を締めてリビングへと戻って行った。


 #


「薫と夜のお散歩は初めてかもね。」

 彼女を横につれてこの時間に二人で出歩くのは確かに初めてだ。明るい月の光に照らされて髪の毛がつややかにきらめいてる。頭頂には綺麗な天使のように光の輪が出来ていた。

「深夜に茉莉を連れ出して何かあったら困るからな。」

「今日はいいの?」

 まるでイタズラを企むような声。不安と楽しさが入り交じるようなそんな声。

「遠くまでは行かないし、何かあっても茉莉だけは逃がすよ。」

「あはは、カッコいいのかカッコわるいのか分からないね。」

 もしも変な奴に絡まれたらどんなにダサくたって守らないといけない。ただ、閑静な住宅街なのでそこまでの心配はしなくても良さそうではあるけれども。

「どこまでいくの?」

 彼女の握った手に少し強さこもる。俺はその手に壊さないようにそっと握り返した。

「そうだな。歩きながらでもいい?」

「うん。薫がその方がいいのなら。」

 こうやって毎日歩き続けてきた。今みたいに手をつないでいたのは小学校くらいまで。でもたったの1週間前までずっとこうして学校やどこかへ向けて二人歩いてきた。


 タイミングはずっと難しい。この寒さがなければ一晩中彼女を連れ回して言葉が出てこないかも知れないけれどもいつまでもズルズルとするわけにはいかない。何度心に決めたって間違えて俺が泣きそうだ。

「茉莉。」

「なあに?」

 隣歩く彼女の目は街灯か月の光に揺らめいて。その目を見ながらそっと紡ぐ。

「俺はやっぱり、茉莉のことは家族だと思う。」

 その言葉は優しい言葉しかないのに、彼女を傷つける。

 茉莉は口を何度か開けかけて、すっと息を吸ったり、間違えてこぼしたような息を吐いたり、そうしてようやくに声を出す。

「やっぱり……だめ?私とは本物の恋人にはなれない?……先輩の方がずっと好きになっちゃった?」

 言葉をどんなに選んでも傷つけないように気を使っても、きっと自分のためでしかなくて。だからはっきりと口にする。

「うん、俺は美夜が好きになった。だから彼女に告白しようと思う……。茉莉が俺にしてくれたように。」

 握る手をさらに強く自分で自分の手を壊さないのか心配になるくらいに強く握りしめてくる。痛いけれどもきっと彼女のほうが痛い。

「そう……かぁ。そう……だよね。薫は私のことやっぱり妹にしか思えない?」

「あのままずっと抱きしめていたら……、茉莉の優しさに甘えていたらきっとこの先もずっと甘えそうだった。好きだって、恋人として好きだって、言葉が出そうだった。」

 多分、そのまま嘘を付き続けるうちに本当になった未来もあったとは思う。

「それで良かったのに……。」

「きっと、それはダメだって。自分なりによく考えてみた。」

「もう、何で振る方がそんなに必死なの……。」

 悲しく笑いながら涙を流さないで、心で泣いている彼女は強い。そんな彼女に想われていた自分のどこが良かったのか、わからなくなってくるけれどもそんなことは言っては行けない。

「必死だよ。だって、クリスマスイブの茉莉はもっと必死だった。」

「えへへ。勢い余って押し倒しちゃったしね。」

 ついこの間の話を思い出話みたいに話す彼女を頭の何処かで抱きしめろと悪魔みたいな俺が囁いてくる。本当に俺の中は気持ちが悪い。

「だから、ごめん。明日から茉莉がもしも……。」

 人差し指を俺の口に当ててくる。

「薫にとって私は家族、でしょう?」

「ああ。」

「じゃあ。ちょっと前に戻るだけだよ。ほんのちょっと前にね。」

 しーっと秘密話をするみたいに自分の口にも指を当てて。そんな綺麗なことを伝えてくる。

「偶には私とも出かけてくれる?誕生日くらい、美夜先輩置いて私とご飯に言ってくれる?クリスマスは……。もうだめかな。」

「茉莉がそんなに優しいなら、甘えてしまうよ?もちろん、俺はそんなこと断るわけない。」

「わかった。じゃあ、先輩がヤキモチ焼いてもちゃんと来てね。」

「まだ、美夜と付き合ってるわけじゃないよ。」

「もう、そんなこと言って。先輩独占欲強いから、私ときっと同じ。」

 この夜に歩き始めてから時間が結構たったけれど、ゆっくりと歩く俺達は決して遠くに来たわけではない。それでも、多分この辺りが一つの駅みたいなもので。乗り換えをしてしまったらもう戻れなくて。それでも、茉莉は笑顔で見送ってくれて。

「それに、先輩が薫を振ったりしたら私が今度こそ貰う。」

「それは……。心強いのかな……。」

「そう。だから大丈夫。」


 月夜に響くその声は、茉莉の優しさとか強さとか今までの人生を現しているようで。俺にはずっと眩しすぎる声だった

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