第38話 クリスマスの朝

【十二月二十五日 午前六時】

 クリスマスの朝、昨晩は今冬でも特に冷える夜だったが都合がいいように雪は降らずホワイトクリスマスとはならなかった。今日は少しだけ曇り気味な空。ただこんな空では気分も陰ってしまいナイーブな一日になりそうだった。でも、早朝から薫の家へと潜り込み、彼のそばにいられる日は私にとっては天気なんて些細なことでしかなった。



「おじゃましまーす。」

「茉莉ちゃん、おはよう。」

「おじさん、おはようございます。」

 薫の父にきちんと挨拶をする。学生は休みだったが、今日は平日なので両親含めておじさんも仕事へ行く準備をしていた。

「今日のパーティは楽しみにしているよ。準備だけ任せてすまないね。」

「いいえー。私と薫がやるっていったんで、大丈夫ですよー。」

「また夜遅くまで起きてたみたいだからなあ、申し訳ないがたたき起こしてやってくれな。」

 この会話も何度目だろうか。通い慣れたこの家の朝での定番の光景だった。

「じゃあ、いってくるね。また夜に。」

「はーい、いってらっしゃいです!」

 仕事へ向かうおじさんを見送って薫の部屋へと向かった。



「おじゃましま~す。」

 薫を起こさないように部屋のドアをそっと開ける。昨日までと同じ部屋、だけれども少しだけ違うことがある。いや、よく見ると違うものもあった。彼のベッドの脇に置かれた机の上にメッセージカード付きの紙袋が置いてある。カードの文字を指先でなぞりながら和訳する。

“親愛なる茉莉へ、幸せなクリスマスを”

彼らしい字で描かれたメッセージカード。じっと見つめてまた指でなぞる。規則正しい呼吸をして寝ている彼の枕元にゆっくりと座る。起こさないように、そっと、そっと。

寝不足だったのだろう。いつもよりも深い睡眠のようだ。時折苦しそうな顔もしている。

「ありがとう。薫。あけていいよね?」

 彼の口元に指先をあてて確認する。唇に指が触れても彼は起きない。自分の行動に自制心がなくなっていく。指先を避けて、そっと寝顔へと自分の顔を近づける。髪の毛が彼の顔に垂れ下がらないようにそっと右手で抑える。昨日抱きしめてくれたときと同じ距離。あと10cmも顔を下に落とせばキスができる。してしまえばきっと、先輩よりも、誰よりも早く彼との初めてのキスを奪えてしまう。それはとても悪魔的な誘惑だった。

 ふぅっと息を吐いて、深呼吸をする。こんなことをしても彼の心の底にある恋慕の向け先を変えることは出来ない。知っていてもなお、理解できていても、自分の中の自己中心的な考え方が誘惑してくるのだった。

「ほっぺなら、いいよね……。ん……。」

 言い訳を口にしながら彼の頬には跡が残らないようにそっと口づけをした。

「はぁぁ…………。ダメだよこれ……。」

 桜色はとうに過ぎて、朱色と呼べるくらいに頬を染めた彼女はベッドから崩れ落ちるように床へと座っていった。はぁっとため息をつきながら自分宛てのプレゼントの紙袋を抱きしめる。

「茉莉?」

「え、ああ、薫起きたの?」

「おはよう。」

「えへへ、おはようー!」



 昨晩の美夜からのメッセージと、茉莉との電話を思い返しているだけでまたどうしても眠れなくなってしまっていた。ランニングの約束もあるし、なによりコンディションを整えておきたいが、なかなかに眠るのは困難だった。

午前三時を過ぎた頃にようやく睡魔に襲われる感覚へと包まれた俺は、そっと眼を閉じて眠りについた。



 朝だろうか、昨日抱きしめた茉莉の香りがする。ちょうどベッド脇でずるずると流れ込む茉莉の姿が横目で見えた。眠気眼だったので反応が遅れてしまった。

「茉莉?」

「え、ああ、薫起きたの?」

 何故か驚いている彼女が手に持った見覚えのある紙袋を抱きしめながら立ち上がった。

「おはよう。」

「えへへ、おはようー!」

 彼女の顔が少し赤い風邪でも引いてないだろうか。

「茉莉、ハッピークリスマス。風邪引いてないか?」

 彼女の首筋を触り温度を確かめる。

「……。あぁ。あ。」

「体温高いみたいけど、本当に大丈夫か?」

「全然、平気だよ!心配症だなー薫―!」

 風邪を無理して隠していないか心配になったが、それくらい大きな声を出せるのならひとまずは大丈夫そうだ。そのままそっと彼女の側頭部と頬を撫でると気持ちよさそうに手を重ねてきた。茉莉がそっと目をつむる。長いまつげが細かく震えているのさえわかる距離だ。

「プレゼント見てくれた?」

「……。ううん!まだだよー……。」

 恋人として扱ってほしいという願いは叶えられているだろうか。結局のところ、茉莉と美夜のどちらが好きかという問題には答えは出せていない。言い訳がましい自分にも吐き気がする。

「できれば開けてみてほしい。」

「うん!」

 がさがさと持っていた紙袋をかき分けて、白の簡素な化粧箱を取り出す。その箱から俺が用意したアクセサリースタンドが姿を表す。

「これ、猫の置物?えへへ。可愛いー!」

「茉莉の持ってるネックレスとか、指輪とかを、この辺にかけるんだよ。あと、スイッチがあるからこうしたら……。」

 電源スイッチを押すと猫が丸まっている部分が淡く光る。街灯のように橙色の光がカーテンで遮光された暗い部屋をじんわりと照らす。

「わぁ。プラネタリウムみたい。キレイ。」

 薄暗い部屋の中でたった一つの星だけが光るプラネタリウムだ。

「気に入ってくれなかったらどうしようかと思ってた。」

「薫から貰えるもので嬉しくなかったものなんてないよ。」

「それはとても良かった。茉莉のことわかってなかったらどうしようかと思って。」

 茉莉は首をよこにすっと振る。

「家族以外で、うーん。薫も家族みたいだけどー。えっと、私の事を一番知っているのは薫だから。私の事を作ってる、うーんなんだろう。構成しているものには薫がくれたものが多いの。だから、薫が考えてくれたものなら何だって大丈夫だよ。えへへ、なんて言ってるのかわからないね。」

 言葉数が多いが伝えたいことはきちんと出力されていると思う。

「いや、わかるよ。俺も俺を構成している要素の中に茉莉が必ずいる。茉莉がいなかったら俺は今の俺じゃない。」

 普段では言えそうにもないセリフだったが、間違った事を言っているつもりはなかった。

「うん、そうそう。そういう感じ。伝わってよかったぁ。あぁ……。私もプレゼント持ってきたよ。ほら。」

 そう言って彼女からも小さな紙袋を手渡される。

「開けてもいいよね?」

「もちろん!」

 紙袋の中からは薄い繊細な紙で包まれた革のキーケースが出てきた。シックなオレンジ色がかった革色。少しだけ年代が経ったように良い味を出している。

「あ、キーケースちょうど壊れかけてたな。知っててくれたのか?」

「えへへ。内緒。」

「えー、なんでそこで内緒なんだよー。」

 茉莉は自分の口に袖口を当てて、嬉しそうに肩を震わせてくすくすと笑う。なぜが秘密にしたいらしい。

「ありがとう。ずっと壊れるまで使うよ。」

「うん、そうしてくれたら、もっと嬉しい。」

 そのまま長い間楽しそうに笑う彼女と一緒に穏やかな朝を過ごしていった。



「今日はランニングしにいくのか?」

「そうだね、着替えてしにいこうかー。」

「茉莉は準備万端だな。」

 彼女はすでに運動着に着替え終わっている。髪をあとくくればそれでもういつものランニング姿になる。

「薫の着替え手伝ってあげようか?」

 そっと細い手で服の裾野に手をかけられてびくっとしてしまう。

「流石に大丈夫、大丈夫!」

 彼女の手をそっと押さえる。その手が彼女に掴み返されて、きゅっと握らる。

「じゃあ、部屋の外で待ってるから。終わったらすぐ教えてね。」

「すぐに着替えるよ。ちょっとだけ待っててね。」

 しなやかに身体を起こした彼女は、軽やかに部屋の扉の前まで移動して、そっと扉を開ける。

「あ、スタンド持って帰るね。お部屋に飾ってくる!」

 紙袋とスタンド本体をそっと抱えて彼女は一旦自分の家に戻っていったようだ。

「今日の茉莉は行動が読めないな……。」

 確かに感じた指先の体温がいまだこの手に残っている。じわりじわりと霧散していくその感覚を忘れないようにしておきたい。

 寝間着から運動着へと着替える。顔をしっかりと洗い、隈が無いことをじっと確認する。そのまま、そっと扉を開けて冷たい外へ進んでいく。

「あ、薫やっときたねー。」

 茉莉は廊下の柵に体重を預けてゆっくりと伸びをしている。

「今日は付いていけるかな。」

「ちゃんと伸びをしとかないと、怪我しちゃうよー。」

 彼女の忠告通り、動きを合わせてゆっくりと伸びをする。

「よし。さ、いきましょー!」

「はいよー!」

 肌が張り裂けてしまいそうな寒さに耐えつつ、風が吹く河川敷へと二人揃って走っていく。河川敷が一望できる防波堤へ続く坂道へ一歩一歩足を進めていった。登り切ると一段と強い海風が追い風になってくれる。一定のリズムで、一定の歩調を意識して、彼女のペースに合わせて同調していく。車も通れないこの道は今見渡す限りには二人だけの世界だった。

「薫。」

風に乗って茉莉の声が左から聞こえる。

「ん?どうした?」

 風に負けないように大きな声を出す。

「楽しい?」

「追い風だからな、すごい楽。」

「どこまでいけるかな?」

「病院の近くまではいけるんじゃないか?」

「じゃあ、そこまでバテないようにね。」

「わかったよ。気合いれよう。」

 トットットと風に背中を押されながら、気がつくと寒さはもう気にならない。火照った頬がこの空気に触れているだけでも気持ちがいい。この調子なら行ける気がする。



「はぁ、はぁ、はぁ。」

 ちゃんと目標地点まで彼女についていけたが限界ギリギリだった。茉莉も水を飲みながら肩で息をしている。

「いやー、ちょっと遠かったねー。」

「いつも自転車だったから、はぁ……。距離が思ったよりも遠いな。」

「でも、いいねー。あぁー。昨日いっぱいご飯食べたから丁度いいかも。」

「今日もいっぱい作るんだろう?」

「あ、じゃあ帰りも同じペースにしないとねー。」

「行けるかなー。ふー。」

 ようやく息のペースが戻ってきた。やってやれないことはないが大分しんどい。

「えへへ。ちょっとだけ歩いて帰ろうか。」

「わかった。ありがとう。」

 差し出された手を取って元の道へ歩いていく。帰りは向かい風だったが、繋いだ手で暖かさを共有していたので寒さはなかった。


【少し前 十二月二十四日 午後十一時過ぎ】

 薫くんへメッセージを一通送るだけでずいぶんと時間を使ってしまい疲れてしまった。その後、すぐに帰ってきたメッセージにはクリスマスを祝う言葉が返されている。それを見たら疲れなんてすぐに拭い去られるようだ。本当を言うとその言葉は直接電話で聞きたかった。だけれども今は約束通りその気持は抑えておこう。


 二十七日に、彼へどんな言葉、どんな口調で、どんな声音でこの気持ちを伝えようか。どうすればこっちを見てくれるだろうか。窓辺からは庭の木々とふわりと夜空に浮かぶ大きな半月見える。また、あの夜々のようにまた君と過ごしたい。



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