第30話 母親との再会
【十二月二十日 日曜日 午前十一時】
自分の心の中ではあれだけうだうだと悩んで決めた母親との再会は難なく終わってしまった。もう少し、大きな出来事が起こるのかと身構えていた自分の見当違いだったことが少し恥ずかしい。
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【その日の少し前】
あの日、茉莉に母親と会う旨の電話を掛けた後、親父に聞いていた母親からの会ってみたいとの提案を受けると伝えた。親父は目を伏せしっかりと考えたあと口を開いた。
「そうか。茉莉ちゃんにも細かい相談してみたのか?」
「いや、誰にも事情はそこまで説明してないよ。ただ、茉莉には大分良くしてもらった。あと、美夜っていう先輩にも。」
相談に乗ってもらったというよりも、察されて気遣われたという方が正しい。
「やっぱり俺が思うよりもお前達はずっと大人なんだろうな。俺はいつもお前達がまだまだ子供だと勘違いしてしまいそうになるが、むしろ俺達のほうが年齢よりも子供みたいだ。」
親父がそこまで買い被ってくれるのは素直に嬉しい。ただ、その言葉の意味を本当感覚として理解できるのはもっと何十年以上先なのだろうとは思う。
「母さんとはいつ会えるんだろう?」
親父はカレンダーをじっと眺めて、相手の予定を思い出している。
「一番早いと今週の日曜日だ。今日、お前が言い出さなければ年内は会えないと断ろうと思っていた。」
会える日程は想像よりもずっと早かったが、ことは早く進む方がありがたい。
「じゃあ、場所とか決まったら教えて。」
「たぶん、母さんがこっちの駅前には来てくれるよ……。俺は同席するとややこしいから一人で行ってもらうが問題ないか?」
「ああ、それで大丈夫。目の前で拗れたりしたらややこしいからな。」
「情けないな。すまない。」
次の日に親父は母さんに電話をしてくれた。言っていたとおり駅前の喫茶店で会う手はずとなった。
何から話をしようか。何を話せば盛り上がるのだろうか。そう考え込むと眠りに付くのが遅くなって、次の日にまた茉莉に起こされてしまった。
「おはよ~。久しぶりのお寝坊さんだねー。」
「おはよぅ。ごめんなー。」
「偶には良いんだよー。全く無くなると寂しいじゃないー。」
「随分あまやかしてくれるな……。」
陽の光を浴びて頭が覚醒してくる。茉莉は太陽の様に暖かい笑顔を振りまいて、ご機嫌に部屋を出ていった。
「着替え終わったら、一緒に何かしようね~。」
着替え始めて上半身が脱ぎ終わったタイミングで彼女が部屋に舞い戻ってくる。
「やー。ごめんー!」
裸を見られた女の子でもないのにきゃっきゃと出ていかれてしまった。異性の裸となると幼馴染とはいえあまり見せないようにしておかないと。
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「薫?」
俺が母親の姿について覚えているのは俺が小学校へ上がる少し前からだけだ。母親はいつもどこか疲れた表情をしていた。記憶の中では髪のロングヘアだったが、かなり短いショートカットへ変えているその姿を見て、年月が流れた事をひしひしと感じた。
「母さん?……そう、薫だよ。」
喫茶店の角の席に彼女は座っていた。机の上に置かれたコーヒーはすでに空になっている。きちんと約束の時間から五分前にここへ着いたが、彼女はおそらくずっと前から待っていてくれたのだろう。
「大きくなったわね。さあ、座って。今は何を飲むの?」
記憶の奥底にある柔らかい声が想起させられる。ああ、こんな声だったなとエピソードとともに色々な感情がサルベージされる。
「俺は……母さんと同じものでいいよ。」
「あら、もうメロンソーダじゃないのね。」
昔は外食へ連れて行ってもらったらソーダ類をよく飲んでいた気がする。今でも好きだが久しぶりの母親の前で背伸びをしたかったのだ。
「大分時間がたったからね。飲むものも少し変わったよ。」
前日から深く考えていたよりもずっと自然と笑えている。もう少し何も話せないかと心配していたが杞憂だったようだ。
近くいにたウエイターを呼んで二人分の新しいコーヒーを注文する。店内には静かなBGMと水の流れる音が流れている。カウンターに目を配ると数個のサイフォンが並んで静かに蒸気を吹き出しながら香ばしい香りを出している。何テンポだろうか、じっと休符が並ぶ。
「私のこと、恨んでいる?」
その質問はいつか聞かれるのだろうとは思っていたが、最初に来るとは思ってなかった。ずっと考えたが、恨みなんてなかった。それだけはわかる。ただ、それ以外には何もわからなかった。この感情はなんて言葉にしたら良い?頭の中の辞書を懸命に調べたって分からない。
「……。いや、恨んではいないよ。俺には母さんと親父に何があったのかは分かっていない。でも、引っ越した後も、今だって俺の隣にいてくれるひとがちゃんと居てくれたから、何も問題ないよ。」
色々と言葉を絞り出した結果、これ以外の答えはなかった。俺が今日まで荒れずに優しくあれたのも家族や友人のおかげだろう。主に茉莉のおかげが大きいと思う。彼女が優しいから、きっと俺も優しくなれている。他人の悪口なんて言わない素敵な子だ。
「そう……。私が言えた義理は何もないけどね。……なら、よかった。」
その答えに、濡れた鳥の羽のように柔らかく母が微笑んでくれる。またいくつか間があくが、先ほどまで緊張のようなものは表情と同じ様にほころんでいく。
頼んでいたコーヒーが二つ到着する。カウンターから漂っていた芳しい香りが辺に充満する。
「母さんは、今は何の仕事をしているの?」
「隣の県の小さな教室で音楽を教えているわ。専門は弦楽器、アコースティックギターやウクレレとかね。あとピアノも少し。」
子供の頃に母親が演奏している様子は見たことがない。家に楽器らしきものがあった記憶もないのが不思議だった。その事情は親父に聞いたら教えてくれるだろうか。
「結婚する前からはギターを弾いていたの?」
「そう、父さんに聞いたのね。そうよ……。学生の頃からね。」
細い指先は柔らかそうにしなやかで、それでいて筋肉がしっかりとして見える。その繊細な指先で音を奏でるのだろう。母は到着したコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れながら話を進める。甘党なのだろうか?
「薫は音楽嫌い?」
好き?と聞かれないことに違和感を覚える。もしかすると、俺が親父から聞いた話で嫌いになっているのかと勘違いしているのかもしれない。
「最近、初めて間近でアコースティックギターの生音を聞いたんだ。この前は友達とエレキベースにも触ってみた。」
母はその答えに少し驚いた顔をする。コーヒカップを手に取ろうとした挙動をふと止めてしまっている。
「大丈夫嫌いじゃない。好きだよ。別に母さんみたいに生きる仕事にすることはないと思うけど、音楽が嫌いになんてなってない。」
これは美夜のおかげだと思う。以前からだってそんな事情は知らないのだから、音楽に好きも嫌いもなかったとは思う。ただ、彼女がそれよりも前に聞かせてくれた音が、あの夜々に聞いたあの音が好きだ。
夜の境内で響かせた下手くそな和音。ちょっとだけ前スタジオで一緒に響かせた音。彼女と夜の街を歩く時に響く足音だって。今では帰りに街から聞こえてくる子供の声だって。だから多分、母親が奏でるギターだって好きになれる。そう間違いなく思えるのは美夜のおかげだ。
「じゃあ、もしも良かったらまたいつか私とも演奏してくれるかしら。」
涙目になった彼女はコーヒーカップを手に取れないまま、俺のことだけをじっと見つめてくれる。
「ああ、母さんがそう思ってくれるのなら、ちょっとだけは上手くなっておくよ。」
「……。」
母の目元から涙が溢れる。昔の見た涙とは違って、あの辛そうな涙とは違って、今流す涙は綺麗な涙だった。
「勝手な母親でごめんね。薫は立派な大人になってるわね……。」
ずっと勝手なことだと俺も思っていた。捨てられたのだろうかと、きっと禄でもない人間なのだろうと思ったこともある。卒業式にだって親は誰もいなかった。代わりにいたのは茉莉達だった。
ずっと怖くて聞けなかった。前に親父が言ってくれた言葉のとおりなのかも知れない。俺が思っているよりも両親はまだずっと子供な一面があって、許せないことも多くて。
手を付けられていないコーヒーからはいい匂いが薄くなり、もう冷めてしまっていた。せっかくきちんとした道具で入れられコーヒーなのにもったいない。
その後は今の生活のこと、高校のクラスメイトや生活のこと、茉莉のこと、美夜のこと。母親の教室のこと、最近の出来事。話せることは思っていたよりもずっとあった。考えすぎた時間を取り戻すように時計の針はずっと早く周っていった。
「今日は楽しかったわ。会ってくれてありがとう、薫。」
そのままの喫茶店で二人で昼食を済ませた。午後一時になって母親と別れることにした。この調子ならまた会うこともあるだろう。
「母さんも元気でね。」
駅の方へ向かう彼女を見送った俺はいつもの駅前のベンチへと座り、ぼおっと空を見上げる。今日は隣に美夜はいない。待っていても彼女は来ない。大人がタバコを吸うタイミングはこの気分なのかも知れない。人とよく話した充実感と同時にある種の虚脱感がどっと押し寄せてくる。
意識をしっかりと取り戻した後、街を見渡してみるとすっかりクリスマスムードだ。あちこちの店でクリスマスセールの文字が書かれたのぼりなどが揚がっている。あと四日でクリスマス・イブになる。手持ちの小遣いはそこまで潤沢ではないが、茉莉にプレゼントを買っておこう。最近傘をあげたばかりなので彼女には遠慮されそうだが、今の気持ちをきちんと伝えたい。言葉だけでは不安だったし、それ以外には思いつかなかった。ちょっとした可愛らしい小物か調理道具を事前に探して彼女に贈ろう。
あと、クリスマス・イブに会う美夜には何を渡そうか。茉莉と違って家族のように付き合いがない彼女にプレゼントを送ると引かれたりしないだろうか。多分彼氏はいないと思っているが、恋愛的に好きでもない男から贈られて困惑しないだろう。
彼女は何を喜んでくれるだろう。また空に浮かぶ雲をじっと眺めていても答えは思いつきそうにもない。しばらく考え込んで今日の夜に散歩にでも誘ってなんとか探ってみようかと決めた。
街は賑やかな音楽に包まれている。クリスマスの雰囲気がしっかりと出るように天気も気を使ってくれたのか急激に冷え込む。風は肌を削るように冷たくなり、頬は締め付けられるような空気になる。夕方に彼女がアルバイトを終えるタイミグを見計らってメッセージを送る。
“今日、いつもの場所で会えるか? 寒いから体調が悪ければ別の日で”
“美夜は元気いっぱいだよー”
どうやって彼女から色々聞き出そうか。ジロジロみるとまた何かからかわれてしまうので気をつけよう。
月はゆっくりと地平線から登り始めていた。太陽はお休み。月が元気いっぱいに照らしてくれる。
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