第28話 ファーストセッション
【十二月一六日 午後四時】
一昨日の雨はこの季節には珍しく二日間降り続き、今日も雨こそ振っていないが、空は曇ったままだった。曇天という言葉の音が似合うように、ズンと一面から重さが漂ってくる。
音楽教室のレンタルスタジオを借りるために隣駅の駅前で美夜と合流をしていた。
「やや。お待たせー。」
「そんなに待ってないよ。大変だっただろう、一旦家に戻るの。」
自転車で通学している彼女は一度家に帰ってから戻ってきているはずだ。
「いやー。どうせ先生に呼び出されて遅くなると思って駅のロッカーに朝入れておいたんだよね。」
「テスト、ダメだったんだな……。」
「あはは、大丈夫補習でたらね。」
一度駅に寄るのは手間だっただろうが、呼び出される理由は自業自得なので致し方ない。
「ちゃんとやってきたからさー。ね?」
「俺は怒ってなんかいないよ、荷物持とうか?」
「これは大丈夫。ふふ、ありがとう。」
ギターケースは自分で持ち続けたいようだ。そういえば一度も代わりに背負ったことはないことを思い出した。
「事前に予約の電話入れておいたよ。空いてるのは空いてるってさ。」
前日の予約なんて制度はなく、当日の空きは電話が必要だった。まあ、教室として使うこともあるだろう。さすがにカラオケと同じ様に飛び込みでは難しそうだ。
「あはは、ありがとう。会員登録とかは私がしないとね。」
二人で曇天の下とぼとぼとあるいていく。重いケースを背負っているのでなるたけゆっくりとした歩調になるように。
隣駅の商店街は夕暮れ前の買い出しの客で賑わっている。近所の商店街よりも規模が大きく、辺りの惣菜屋などからはいい匂いが漂っている。
「部屋の中で食べたら怒られるよねー。」
コロッケの匂いに釣られた彼女はじっと商品を見つめている。
「流石に揚げ物はダメだろ。帰りに見ていこう。」
「はーい。薫くんに着いていきますー。」
人混みにはぐれないようになのか、また手を繋いでくる。ようやくなれてきたともいえなくないが、急にされると心臓は相変わらず落ち着かなくなる。目的地はこの辺りのはずだが。
「ああ、これか。」
雑居ビルの四階。商店街の店と店の間に佇む細長いビルの存在に気がつくのが遅れた。一階が不動産やということもあって、奥に伸びる通路とエレベータはひっそりとしていた。
「到着?ありがと。」
廊下の奥は曇天といはいえ明るい雰囲気の商店街とはまったく様相が異なる。天井の証明は切れかけでチカチカとしている。雑踏の音もあまり届かないので、ここだけ忘れ去られたような場所だ。楽器を演奏するにはこういう場所のほうが迷惑が少ないのであろう。
「このエレベーターやばくない?」
ガタガタと揺れ目的階まで運んでくれる。最低限運んではくれるというのが正しいk気もする。
「よっぽど古いんだな。かなり遅いし。」
「でも扉開くスピードは以上に速い……。」
色々味があっていいビルだとは思う。マンションがこの様子だったら困るが。
「いらっしゃいー…。」
もともと電話越しでも分かっていたが寡黙な店主がエレベーターを出た俺達を迎えてくれた。
「あの、電話で確認させてもらった五十嵐です。」
「ああ、五十嵐さん、二時間だったね……。楽器はそのギターで良いか?他に借りたいものはないか?」
「あ、はい!」
美夜元気よく答える。背負ったギターを降ろし始めている。
「ああ、その前にこっちのカードに連絡先とか書いて……。もしもなにかあった時に困っちゃうからね。」
店主からボールペンと紙を乱雑に受け取り、美夜が自分の住所と名前を記載していく。気がつくと店主がじっとギターケースを見つめている。サラサラと文字が書かれる音と、奥の部屋から管楽器の練習をする音が漏れ聞こえる。最初は手持ち無沙汰でギターケースを見ているだけかと思ったが、かなり見つめている、何かあるのだろうか?
「あ、書き終わりました。」
「はい。じゃあ、部屋貸すけど物とかわからないものは触らないようにね……。あと…………。」
急に店主がだまり始める。なにか不備があっただろうか。
「あのー?なにかダメでしたか?」
「……。」
「戸森さんかい、そのギター君が買ったのか?」
店主の話しぶりが急に変わる。さぐりさぐり確かめるように優しげに。
「いえ、これは父さんのギターを貰いました。」
「お父さんは、戸森 圭吾さんかい。」
「ええ、そうですが……。なぜ?」
店主は口ひげを触りながら、そっとため息を付く。
「そうか、そうか、圭吾の娘さんか。親父さんは残念だったね……。」
「父さんの知り合いですか?」
美夜はびっくりした声で問いかける。俺もこんな偶然があるのか、不思議だった。
「通夜にはいけなかったがね、その後に線香はあげさせてもらったよ。君の親父さんは学生の頃はよくこの教室に練習に来ていたよ。歳は離れているけど昔からの友達さ。」
店主はそっと目を細めて、悲しげな表情をする。目の奥には涙があるように見える。
「ああ、話が長くなってしまったね。さあ、部屋は自由に使いなさい。料金は後払いだから。」
「いえ、ありがとうございます。また、父さんのこと聞かせて下さい。」
美夜は丁寧に腰を曲げてお辞儀をする。
「そっちの君は楽器、使わないのかい?料金は部屋だけだから二人入っても問題はないが……。」
「いえ、僕楽器は弾けないので……。大丈夫です。」
完全に着いてきただけなので、そう聞かれると少し困ってしまった。なにか俺も始めたほうが良いのかも知れない。
「せっかく来たんだ、貸してあげるから触ってみなさい。本も貸してあげるから。」
「ええ、貸していただけるなら是非。すいません、ありがとうございます。」
店主が店の奥へと進んでいく。倉庫のような場所には一見楽器が乱雑におかれているように見えるが、ホコリは一切積もっていない。すべての楽器が定期的に清掃されているようだ。
「彼女がギターだしな……せっかくだ、エレキベース合わせてみたらどうだい。今日はなにも弾けなくても仕方ないが、気に入ったらまた貸そう。」
二本のベースを指さされる。素人目には違いはよくわからない。
「薫くんの好きな方で良いんじゃない?」
美夜は首をかしげて少し嬉しそうだ。父親の知り合いに出会えてだいぶ喜んでいるようだ。
「こっちがプレシジョン、こっちがジャズベースだ。まあ、触るだけならどっちでもいいさ。デザインで選んでいいよ。もしも買うことがあったらまた色々調べると良い。」
“ジャズベース”その言葉を聞いた時にすでに決まっていた。
「ジャズベース、お借りさせていただいてよろしいですか?」
「こっちかい、はいよ、シールドとアンプのセットもしてあげるから。先に部屋に言っておいで。」
「ありがとうございます。」
「良かったねー。薫くんも仲間入かな?」
「買うにはお金ないし、そもそも弾けるわけないー。」
部屋の中は六畳程で、周囲には機材とスピーカーなどが所狭しに並んでいる。実質的に座れるのは二畳分くらいしかない。音楽室で見かける吸音用の壁に包まれていた。扉も鉄製の大きな扉で開くのも閉じるのもとても厄介だった。店主がのっそりと部屋へと入ってきて先のベースを機材に繋いでくれる。つまみとスイッチをいくつかいじってくれる。
“ダダ ダーン・ダン・ダダダダーン・ダン・ダダン・ダン・ダダ・ダダ“
しびれるような重低音が響き渡る。体の芯から温まるような音がスピーカーから出て、全身が心の底から震えそうになる。
「あはは。すっごいカッコいいー。」
美夜はにこにこと店主の演奏を聞いている。
「君たちでも知ってそうな曲にしておいたからね。さぁこれで弾けるようになってるから、あとは好きに触りなさい。使い終わったらそこへ立てかけておいてね。」
「ありがとうございます。何から何まで。」
美夜と二人で頭を下げて礼を伝える。ここまで良くしてもらえるとは思っていなかった。
「圭吾の娘と彼氏が来てくれたんだ。最初は良くしておくよ。気に入って自分の楽器買ったら贔屓にしてくれ。じゃあ。」
そう言って彼は部屋から出ていった。
「あはは、彼氏だってさ。」
美夜は少しいじわるな、試すような目で俺を見てくる。分かっていて言っている。
「勘違いされて困るのは俺じゃないぞ。」
「私はきにしなーい。」
彼女はそう言いながら、背負ったギターケースから自分のギターを手に取る。
借りた本を読みながら見様見真似で弦を指で押さえて、音を出してみる。
“ダン・・ダ・ダ・ベン”
音の大小が全く安定しないし左手をいくらやってもさっきみたいな音は出なかった。
「あはは、私と一緒だね。」
「すぐに追いついてやるからな。」
「えへ。じゃあまずはバイトしてお金貯めないとねー・」
それはそのとおりだった。打ち込むとしたら場所もお金も俺にはなかった。
そのあとはそれぞれ全く別の音を出しながら練習に勤しむ。音量は少し絞っておいた。
「そういえば、なんでプレシジョンじゃなくてジャズをぱっと選んだの?」
「なんだろうな、デザインかなー。」
「なるほどねー。まあ、本体の赤色がいい色だねー。べっ甲かなー。」
俺は彼女に嘘を付いた。本当はジャズという言葉だけで選んでいる。母親の影を追っているのは明白だった。この音を、彼女もどこかでまだ聞いているのだろうか。またこんな顔をしていると茉莉にバレてしまう。
「薫くん。着いてきてくれていつもありがとうね。」
急に落ちつた声で礼を言われて少し戸惑う。
「なんだよ、気にしてないよ。俺が好きでしてるだけだから。」
「なんとなく伝えたくなったの。なんでもない。」
心の中の泥みたいなものが少しだけ掬われる気がする。思ったよりも俺は暗い感情は顔に出やすいのかも知れない。茉莉のようにはっきりとはバレていないようだが、美夜にも微妙に伝わっているのかも知れない。
「それじゃあ、さっきの曲練習してみる?」
「”LAST LOVE LETTER?”あれ絶対弾けないと思うんだけど。」
「さっきの店長さんの口ぶりだったら行けそうな気がするんだけどなー。」
少ない知識を総動員して楽譜の読み方を覚えていく。確かに美夜とギターを頑張っていたころの知識をそこそこ使えるようだった。
「はい、じゃあ一緒に練習ー練習ー!」
「おいおい、ちょっとまってくれよー!」
俺の鳴らす基本のリズムと彼女のアコースティックギターが全く合わない。そのおかしさに自然と笑いが出る。でもそれぞれの楽器から出てくる音に二人共耳を傾けて、共有して、没頭していった。
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