第16話 彼女の変化
【十一月十九日 午前十時】
京南病院にて。
「おばあちゃん。もう胸痛くない?」
昨日の朝に自宅で倒れた。祖母はしばらく意識がなかったが、夜には無事に目を覚ましてくれた。
「美夜。大丈夫さね、おばあちゃんは病院の先生が見ててくれるから学校行っておいで。」
祖母はベッドの上で精一杯元気な姿を私に見せてくれる。
「午後から行くよ。朝ご飯残してるけど、美味しくない?」
机の脇に追いやられたプラスチックの食器類には料理が少し残っている。
「味が薄くてたべられん。自分でつくった方がマシさね。」
確かに健康的な味付けのようだが、全体的に色合いが薄い気もする。祖母が作る普段の料理の味付けが濃いだけの気がしなくもないが。
「来週までには退院できるんだから。元気になるためにちゃんと食べてね。」
「美夜に怒られるんなら、しかたないねえ。」
おばあちゃんはしかたないと何度も口で言いながら病院食をもそもそと食べてくれる。昨日の朝、学校から駆け付けたとき、意識なく厚いガラスに覆われた部屋で横たわっていた。様々な機械を繋がれていたあの祖母の姿を考えるとまた涙が零れそうだ。
「家から着替え、持ってきてくれてありがとうね。」
「ううん。これくらい軽い軽い。すぐもってこれるよ。」
実際に祖母の荷物なんて神社へ向かう時に背負うギターと比べれば、軽い上にかさばらない。自転車に乗せて整えられた河川敷の道を走ればあっという間でなんの苦でもなかった。
「男手があれば、車出すなり、楽なんだけどねえ。」
窓の外を見ながらしみじみと彼女は言う。
「お爺ちゃんかお父さんがいればね。」
父さんが生きていた頃は週末に行楽へよく連れて行ってくれた。行き先の公園などでも楽器をよく弾いてくれてとても楽しかった。祖父はあまり会ったことはないが農業をしていたはずだ。きっとトラックやトラクターを運転していたのだろう。
祖母がそんな感傷に浸る私を気遣うように明るい声を出す。
「それか、美夜が彼氏を連れてくるかだね。もう十八歳なんだから、いつでも結婚できるさ。」
「まだしないよ!もう。」
「ははは。」
くすくすと祖母が笑い、本気なのかわからない冗談を言ってくる。孫の結婚姿を見たいのは嘘ではないのだろうとは思う。
必死になって否定している私への追い打ちをかけるように祖母が楽しそうしている。
「昨日、公園で会ってたのは違うのかい?」
「なんで知ってるの!?」
今度は本当にびっくりしてしまった。祖母に薫くんの姿を見せてはいない。
「朝ご飯を運んでくれたひとから教えてもらったよ。看護師さんってのは何でも知ってるんだねえ。」
病院の待合室から目の前の公園まで彼と手をつないで歩いていったのは迂闊だった。ぱあっと顔が赤くなるのを自覚してしまう。いや、きっと部屋の暖房が効き過ぎなせいだと思う。
「薫くんは違うの、……まだ友達。たぶん。」
「まだなら……私ももう少し生きなきゃねえ。」
「まだじゃなくて、えっと違う……。」
そんな寂しい事は言わないでほしい。もう私の血がつながった家族はお婆ちゃんしか居ない。本当を言えば病院に来るのはもう嫌だった。
でも、昨日の夜から、すっと心が軽い。余計に気負って背負っていた荷物を降ろして、羽を休められたのだろう。だけれども、とまり木の様にいつまでも彼に頼っていてはいけない。そもそも彼を思う女の子がちゃんといるはずだ。そう思うと軽くなったはずの心の奥が溺れてしまったようにずんと暗くなる。
太陽はもうずっと真上近くまで登り、きらりと窓から光を差し込んでくる。カーテンの向こう側には温かな陽射しが辺りに降り注いでいるだろう。
ふと、昨日の朝に急ぎ病院へ向かう学校の中で見つけてしまった忘れ物を思い出す。
「そういえばこれ、返さないとね。」
この忘れ物のノートを学校へ行ったら届けよう。あのまま放っておいて雨にでも濡れたら持ち主が不憫だ。見た目を見る限り授業用のノートではなさそうだ。持ち主の名前がないかパラパラとめくると、そこにはきれいな歌詞やコードが楽しそうに描かれている。これは誰かのメモ帳なのだろう。
ふとある一節の歌詞が目が付いた。
"あなたの瞳の奥にある 優しい月が欲しいだけ"
その言葉で薫くんを思い出した。彼には幼馴染が居るようだ。校門でちらりと見ただけだがずいぶんと可愛らしい見た目だったあの子がそうなのだろう。
彼と一緒に過ごしている彼女の姿を妄想して、また胸の奥がずんとする。昨日の心配とは違う、嫉妬だった
彼のすこし気だるそうなあの目。その瞳の奥にある月の光を私だけ照らしてほしい。そんなワガママな感情が芽生えてくる。これはイケナイ気持ちだ。
「私、ダサいな、もっと大人にならなきゃ。」
頬をギュッと引き締めて、心のなかに芽生えた邪な気持ちを封印する。
病院を出て学校へと向かうことにする。病室の窓から見ていたとおり気持ちの良い昼前になっていた。
#
ノートの持ち主は守野さんというらしい。守野 燿という名前が裏表紙を一枚めくった箇所に書いてあった。内容から察するにおそらく音楽系の部活の子だろう。
職員室に挨拶に行く際に軽音部顧問の先生に聞いてみることにした。
「守野?ああ、一年の守野ね。確かにそんなノート確かに持っていた気がするな。預かって渡しておこうか?」
せっかくの提案をしてもらったが、この歌詞を書いていた彼女のことが気になる。
「いえ、お手間ですので自分で返して来ます。」
「そうかぁ。ありがとう。ならあいつは一年二組だ。まだ昼休み始まったばかりだから今行けば会えるかもなあ。」
「ええ、そうしてきます。」
踵を返して職員室を後にしようとする。
「守野、雰囲気変わったな。」
先生は一年頃の担任だった。その先生からそう言われるのだとすると、確かに何か変わったのかもしれない。
「あ、そうですか? じゃあ、なら多分良いことがあったんですよ。」
久しぶりに学校で自然な笑顔が出せた気がする。
一年生の教室は三階だ。一組を超えて二組の教室へ向かう。もしかするとこの扉の向こうに薫くんがいるかもしれない。自分の姿を窓ガラスに映して髪を整える。髪留めの位置を変えて、自分の顔がはっきりと見えるように変えていく。普段あっているときのように、良く見られるようにスッと自分自身を切り替えていく。
「このクラスに守野さん、いますか?」
「ああ、あっちにいますよ。」
近くにいた男子生徒に聞いてみると、教室後ろ側の角を差される。二人の女生徒とそれを見守る薫くんがいた。偶然だろうか。思っていた通りの展開にふと笑みが溢れる。
「ありがとう。」
男子生徒に礼を伝えて、私はその場所へ向かっていく。
今日から一層寒い日になるらしい。次に神社へ行くときは彼の選んだコートを披露しよう。
「似合ってるよ。」
そう君は多分言ってくれる。その言葉を私は待ち望んでいる。
今だけは、その先は私の隣にずっといてはくれないとしても、今のこの学校にいる間だけでも一緒に過ごしたい。
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