ぺトリコール、あるいは紙の花

それは自覚なく始まり、気づいた頃には手遅れになっていることが多い。


本が読めない。好きなものが見たくなくなる。苛つきとも怒りとも取ることができない感覚に頭と胸のあたりが支配される。どこにいても落ち着かない。何かがしたいわけでもないし、したくないわけでもない。私はその状態に、「思考に霧がかかった」という名前をつけている。


言葉は思うより遥かに広範で、雨上がりのときの匂いにも、食パンの袋を留めるあれにも名前はついている。この状態も、私が知らないだけで名前があるのかもしれない。が、どう調べればいいのか見当もつかないため、私なりの定義をしているだけである。


人があるものを表現したり知覚したりする際言葉が必要になる以上、人の表現や知覚にはそれまで積み上げてきた語彙が少なからず影響する。「悲しい」という概念を持ち合わせていない人間に「悲しい」を表現させるのは酷な話だろう。

ただ、「悲しい」という概念を持ち合わせていなくても、その人の中で「悲しい」に代替される表現が構築されるはずである。


精神病理学の教科書で取り上げられる症例には、患者さんの定義がそのまま使われることがある。医師が必ずしも解離や躁状態に陥った経験があるわけではないので、それらがどのような状態を指すのかをできるかぎり理解出来る形で示すためであろう。あくまで想像の域内ではあるが。


どれだけ表現に悩んでも、表現が妥当でないとはっきりわかっていたとしても、それしか「まし」な表現がないならそれにするしかあるまい。表現する努力をやめてしまうと、「よくわからない何か」などの広範で乱雑な言葉を当てるしかなくなる。それが持つ奇妙さや難解さは影に隠れ、個性が没却され、平坦になって戻ってこなくなる。私はそれを非常に恐れているのである。


書き始めて一日が経った。何度も消そうとしては思いとどまり、他の文章を捨てることで気を保った。思考の霧はまだ濃く脳内に広がり、胸中を騒がしくしている。積み上げた言葉の塔は、労力を嘲笑うようにぐらぐらと揺れる。正気に戻ったあとの私が、積み方が汚いと言って崩してしまいそうなぐらい。


それでも、言葉を積み上げる営みは止めてはいけない。崩れたとしても、所詮その程度の玩具でしかないから。





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