2.観測 -observation-


 委員会の話し合いを終えて教室に戻ると、もう日は傾いて、夕焼けの奥には淡い紺色が滲んでいた。


 少し遅くなっちゃったな、と思って鞄をつかみ、屋上に向かう。彼女は不良のようにいつでもそこにいるのだろうけれど、一緒に過ごせる時間は限られている。

 窓から差し込む光の中で、人気のない階段の影は色濃く映る。つるりとした床の踊り場を、私の影が駆けていった。


 ドアノブを回して屋上へと続く扉を開ける。重たいそれは軋みをあげて、屋内に光を誘った。

 緩やかな風が前髪を攫う。髪を押さえて視界を広げると、フェンスに囲まれた中央に、彼女はひっそりと佇んでいた。

 そしてこちらに気づく。黒髪が靡くのを気にするでもなく、私を見て目を細める。


「や、お疲れさま」

「ありがとう。遅くなった」


 軋みを背後に、日織の元へ駆け寄った。彼女は気にする風もなく、一つ頷いて、人差し指と親指の先をくっつける。


「それじゃあ、始めようか」


 隣に並ぶと、日織は肩の接触を厭わずに私の方へと身体を寄せる。私もいい加減に慣れてきて、服越しの感触から目を背けつつ、顔を近づけた。

 日織が掲げた円形に視線を注ぐと、次第に風景が歪んで、フェンスに穴が開く。中学の時から習慣になった、二人だけの異世界観測だった。


「あのさ」

「うん?」


 SF映画に出てきそうな近未来都市の様相を見ている途中で、私は日織に声をかけた。彼女は視線を外さないまま反応だけを返す。まぁ、聞いてても聞いてなくても構わない内容ではある。どうせ何も変わりはしないのだし、ただの確認でしかないのだから、別にいいのだけど。


「真木野さんのこと、捨てたでしょ。すごい落ち込んでたよ」

「捨てたとは心外だな。アカウントをブロックしただけだよ」


 瓦礫まみれの廃墟に景色が移る。どれだけ放置されたのか、コンクリートを木や蔦が突き破っていて、日織はそれを眺め回している。

 そこに罪悪感のようなものは微塵もない。相手がどう感じるかを理解した上でそれを足蹴にしているのは、私も重々承知している。ただ、相談されるこっちの身にもなって欲しいとは思うわけで。真木野さんは、私と委員会が同じなのだし。


「それがどうかしたかな」


 テレビと同じ気楽さで、長閑な田園風景へと切り替える。聞こえてくる鳥の鳴き声らしきものが嫌に凶暴なのが、少し気になった。


「別に。事実確認がしたかっただけ。どうせ、飯田君とヨリを戻すだろうし」

「それはいい。ハッピーエンドだ」

「終わってないし、元凶は日織だからね」


 人の彼女を横取りしておいて何を言うか、と怒るのが正しい。何も得られないと思ったらすぐに関係を絶つから、後腐れしか残らない。それでも、今のところ日織を恨んでいる人がいなさそうなのは、日織に切られた人が皆、自分のせいだと思っているからだ。とことんたちが悪い。

 だから、本当は誰かが彼女を怒るべきなのだと思う。できるならボコボコに叩きのめして、二度とそういうことができなくなるのが、世のため人のためなのだと思う。日織が日織である限り、これからもきっと傷つく人は後を絶たない。


「真っ当に生きるなんて、私には無理だ。そんなのは、君が一番分かってるだろう」


 信頼してるよ、という言葉に、私は溜め息しか出ない。そうでしょうね、と内心でつぶやいた。

 私は、自分が日織の味方であり続けることを確信している。彼女が私の世界に空いた穴である限り、私はそこから見えるものに見惚れ続けるからだ。彼女の指の合間に見える異世界も、空虚な心を通した世界観も、真っ黒な眼に反射するこの世界だって、彼女が関わるからこそ綺麗だと言えた。

 眼の輝きに惹かれて私から先に近づいたけれど、あの日、中学校の屋上で彼女の指先に瞼を触れたあの時から、私は変わってしまったのだと思う。世界と伊庭坂日織は、もうセットでなければ意味をなさない。

 いつの間にか日織の横顔を見つめていた。はっとして、様子を伺いつつ視線は外す。ちょうどまた、見る世界を切り替えたところだった。

 最初に聞こえたのは、映画で聞いたような銃撃の音だった。いくつもの種類の異なる旋律が、一息に奏でられて私は後退る。戦闘をしているのと出くわすとは珍しい。


「戦ってるね。戦争でも起きたのかな」

「そうなんじゃない。知らないけどさ」


 日織は臆することもなく変わらない距離感で穴の中を見つめている。私は日織の肩のあたりから顔を覗かせた。


「それ見てるなら、私ここにいるから」

「怖いの?」

「だって危ないでしょどう考えたって。私知らないよ」

「……そうだね、危ないかも」


 私の言葉に返すまでの間で、何を考えていたのか。私が思考する前に、日織が言葉を続けた。


「ねぇ、私、実は──」


 一瞬の爆発音と日織が呻いたのは、ほぼ同時だった。あれほど維持していた穴を閉じて右目に手を当てるのを、私は状況を一切飲み込めないまま見つめ、理解した時には、灰色のコンクリートに鮮やかな赤が零れていた。


「日織ッ」


 穴の近くで何かが爆発して、その破片が目に刺さったのだと、私は知った。

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