第3話
「これは……?」
次の日、いつも通りの時間に現れた桂樹さんにある場所へ案内された。
それは、俺が入院している五階から二つ下がって三階にある、とある病室の窓際のベッド。そこには一人の少女が眠っていた。シワ一つないベッドの上に少女だけがぽつんと存在していた。
「あの、この子は?」
「私の娘です」
「むっ、娘?」
衝撃の告白だった。娘……、まさか子供がいたとは。でも、確かに昨日、年は二十八歳だと言っていたし、結婚していても、子供がいてもおかしいことではない。……そうか、結婚してたのか……。
「お子さんがいらっしゃったんですね」
「ええ、こんな私でも一応一児の母親です」
「旦那様はどちらに?」
「夫は……いません」
「えっ?」
桂樹さんの顔が暗くなった。そして、窓へと視線を移し、空を見上げた。今日もよく晴れている。
「私……、初めての恋人に舞い上がっちゃって……。彼も、私と同じ気持ちだと思っていたんですけど、その、どうやら違っていたみたいで、私を置いてどこかに行っちゃいました」
空から視線を戻し、桂樹さんは俺に笑ってみせた。でも彼女の笑顔は青空の広がる外の世界とは対照的で、どこか悲しげだった。
「親からは中絶しろって怒鳴られたんですけど、なんだか命を粗末にするみたいでできなくて。だから絶縁覚悟で親の反対を押し切って娘を産みました。その時一人で生きていこうって決めたんです」
普段の桂樹さんからは感じられないが、どうやら彼女は俺なんかとは違って壮絶な人生を歩んできたらしい。時折見せる頑固さにも合点がいったような気がした。そしてこれは思ってはいけないことかもしれないが、結婚していない事に安心してしまった。
「……軽蔑、しましたか?」
「えっ?」
「なんの考えもなしに、舞い上がって、子供作って、親と縁切って、どうしようもない女だって」
「そんなことはありません」
今にも泣き出しそうな彼女に、俺は強く否定した。桂樹さんの肩がビクッと震えた。自分でも驚くくらい大声を出してしまった。
「まだ出会って少ししか経っていませんけど、俺は知っています。桂樹さんは優しくて、強くて、楽しい人です。だからそんなこと言わないでください」
「あ、ありがとうございます。桔梗さんにそう言ってもらえると、なんだか救われた気分です」
へへ、と彼女は笑った。ようやくいつもの彼女らしい笑顔が見れた気がする。
そこで、病室に入った時から気になっていた疑問をぶつけてみる。
「娘さん、何か病気なんですか?」
桂樹さんの表情がまた曇ってしまう。
「ええ、実はその、心臓が悪いみたいで」
「心臓、ですか」
「ええ、それで、その……、もう、治療ができなくなるみたいなんです」
「治療ができなくなる?」
どういうことだ。治療法がない、ではなく、治療ができなくなるって。
「それが、その、お恥ずかしい話、シングルマザーなわけですから、その……、お金がなくて」
「お金……ですか」
「はい、実は手術もすでに二回ほど行っている上に、保険が効かない病みたいで……。入院費もばかにならないですし」
「そう、ですか」
感情論で言ってしまえば、お金より子供の命の方が大事だろう、と病院に詰め寄りたいところだが、医療だってビジネスだ。そんなことは言えない。この国ではお金を持つものが力を持つのだ。
「いくらくらいですか?」
「えっ?」
「いくら必要なんですか?」
「それは教えることはできません」
「教えてください」
「教えることはできません」
桂樹さんは、怒気を含んだ声で俺を見据えた。その目の圧力に負け、俺は一瞬たじろいでしまう。
「もうこれ以上、桔梗さんに迷惑をかけることはできません。……話を聞いてくれただけで充分です。ありがとうございます」
桂樹さんは、いつもの雰囲気に戻って笑った。俺は言葉を返すことができなかった。
「あっ、すみません。私、これから先生のところへ行かないといけないので、これで失礼します。また後ほど」
桂樹さんは、軽く一礼して病院を後にした。
一人残った俺は、桂樹さんの娘さんの顔を覗く。桂樹さんによく似て可愛らしい。血色もよく、髪もツヤツヤしている。この子が重い病気だなんてとても信じられなかった。
窓の外に目をやる。先程より少し雲が出てきた。
俺は桂樹さんが好きだ。なんとかして彼女の助けになりたい。俺はどうしたらいいのだろう。そんなことを考え、頭を抱えている時だった。
「ねえ、そこのお兄さん」
声が聞こえた。桂樹さんの娘さんの真向かいのところからだ。カーテンの隙間からベッドに横になっている男性と目があった。
「もしかして俺のことですか?」
「そう君」
俺は男性の元へ近づいた。カーテンを開けると、物がなく殺風景なところに、布団を首までかけた男性がうっすら笑みを浮かべていた。布団にシワがほとんどないところを見ると、もしかしたらこの男性は自分から動けないのではないか、と思った。
幼い顔立ちではあるが、顔つきからそこそこ年はいっているように感じられる。もしかしたら俺より年上かもしれない。そして、左頬には一筋の大きめな傷跡があった。
「俺に何か用ですか?」
「あんた、あの女の人が好きなのかい?」
男は俺の疑問には答えず、質問を投げかけてきた。
「なんですか、急に?」
「いいから、悪いようにはしないって」
なんか答えないとしつこそうなので答えることにした。
「まあ、そうですけど、それがなにか?」
「そう警戒しないでよ。あの女の人がいくら必要なのか教えてあげる」
「えっ、知ってるんですか?」
俺はそっとカーテンを閉めた。
「まあね、ずっとここにいるから、先生たちの会話も聞こえるのさ。とりあえず、五百万は借金してるみたいだよ」
「五百万?」
「そう、手術費と入院費でね。でもちゃんと払えてないみたい」
「そうだったんですか。でも、とりあえずってことは?」
「そう、これはあくまで今までかかった費用だからね。もしこれからも続けるとしたら、もっとかかるんだろうね。……そして病院側は、この五百万が払われない限り、治療は打ち切るって言ってる」
「そう……ですか……。それで、その期限っていうのはいつなんですか?」
「今日だね」
「きょ、今日!?」
思わず大声が出てしまう。男は、静かにしろ、というジェスチャーをした。俺は口に手を当て頷く。
「昨日そんな話をしていた。女の人はだいぶ取り乱してたよ」
聞くに耐えなかったね、と思い出すように男は言った。
これで昨日の様子が変だった理由が分かった。
「俺が持ってる情報はこれだけかな。あとはお兄さんに任せるよ」
「分かりました。貴重な情報、ありがとうございました」
俺は頭を下げ、カーテンを開ける。
「あの子のこと救ってあげてね」
カーテンを閉めようとした瞬間、さっきまでとは違った穏やかな口調で男は言った。俺は力強く頷いて、病室を後にする。俺の決意はすでに固まっていた。
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