第2話
一週間後。
「おお、すごいです。桔梗さん」
まだまだ普通に歩くことはできないが、棒を持ってバランスを取るコツはつかめてきた。俺の成長に桂樹さんは手を叩いて喜んでくれている。
スタッフのおばさんは微笑ましいものを見るような顔をしている。
「もう少しで退院できそうですね」
「だといいですね」
桂樹さんが車椅子を運んでくれた。俺はそこに腰掛ける。
「私がいない間によく頑張りました。えらいえらい」
病院の廊下で車椅子を押しながら、桂樹さんは俺の頭をポンポンと軽く叩いた。すごく光栄なことではあるが、気恥ずかしい。
「やめてください。子供扱いしないでくださいよ」
「ふふ、ごめんなさい。でも桔梗さん頑張ったんだから、ちょっとくらいお姉さんに甘えてもいいんですよ」
「いやいや、お姉さんって、あなた年下でしょう?」
「えっ? 桔梗さん、あなたいくつですか?」
「俺は二十六ですけど……」
「じゃあ、桔梗さんは年下ですね。私二十八なので」
「えっ、桂樹さん年上だったんですか!」
「そんなに驚くことですか? まあ、若く見てくれたってことでよしとします」
ふふ、と桂樹さんは手を口に当て笑った。
病室に戻り、ベッドの上へと移動する。始めはこれだけでも一苦労だったが、今ではすんなりとできるようになった。
「私ちょっと用事があるので、今日はそろそろ」
桂樹さんはハンドバッグを肩にかけ、帰る支度をしていた。
「はい、今日もありがとうございました」
「また来ます。では」
桂樹さんは軽く手を振り、カーテンを閉めた。
俺は軽くため息をつき、横になった。なんか桂樹さんがいなくなった途端疲れが出てきた気がする。ちょっとだけ昼寝でもしよう。俺は軽く目をつぶった。
目を開けると、白い天井に赤みがさしていた。横目で窓の方を見ると、夕焼けが広がっていた。結構な時間眠ってしまっていたらしい。水でも飲もうと体を起こした瞬間、ベッドの横に人が座っているのに気づいた。
「あれ、桂樹さん……?」
「……ああ、おはようございます、桔梗さん」
「……おはようございます」
桂樹さんの様子は明らかにおかしかった。うつむきかげんで返事はどこか上の空。初めて会った時のあの弱々しさを感じる。
「……どうかしたんですか?」
「えっ?」
「なんか元気ない……というか、様子がおかしいですよ?」
それに帰ったはずなのに、と付け加えた。
桂樹さんは、なにか迷っているのか、俺から視線を外し、どう答えようか考えているようだった。
俺は急かすことなくじっと答えを待った。看護師さんたちの忙しないざわめきが聞こえてくる。
「あの」
桂樹さんが重い口を開いた。
「ごめんなさい、今はまだ何も聞かないでもらってもいいですか?」
「そ、そうですか……」
「それで、あの、その……」
「どうしたんですか?」
「その、何も言わなくてもいいので、もう少しだけ一緒にいてもらってもいいですか?」
桂樹さんは少しモジモジとした仕草を見せた後、まっすぐ俺を見つめて言った。ベッドで上体を起こした俺から見ると、桂樹さんが、上目遣いしているような状態になり、思わず息をのんだ。
「ええ、それはもちろん。断るわけないじゃないですか」
彼女の上目遣いを直視することができず、視線をちょっと外して答えた。俺の顔はきっと赤くなっているのだろう。桂樹さんが、夕日の赤みだと勘違いしてくれることを願うばかりだ。
それから数時間、特に何かするわけでもない、ただ一緒にいるだけの時間が流れた。普通だったら気まずさを感じてしまうような状況だけれど、不思議とそんなことはなくむしろ心地よささえ感じた。
「そろそろ失礼しますね。面会終了時間になりますし」
「そうですね。送りますよ」
俺は車椅子に手を伸ばし、ベッドの横に引きつける。
「いえ、それは」
「送らせてください」
桂樹さんの言葉を手で制し、車椅子へと移動した。
「では行きましょうか」
「ええ」
病室を出て、エレベーターホールへ向かう。ちらっと桂樹さんの顔を覗くと、やはり暗い表情だ。何があったんだろう。気になるし、出来ることなら力になりたい。
下へ行くボタンを押し、エレベーターを待つ間思い切って聞いてみることにした。
「あの、桂樹さん」
「はい、なんでしょう?」
俺が急に声を発したからか、桂樹さんを少し驚かせてしまったようだ。
「やっぱり、その、お節介かもしれないんですけど、その、何があったのか教えてもらえませんか?」
「……」
「俺なんかじゃ、役に立たないかもしれないけど、でも、俺、桂樹さんの笑顔にたくさん元気もらいました。だからあなたには、その、笑っていてほしいんです。……そんな顔をしてほしくない……」
「……桔梗さん……」
エレベーターが到着し、扉が開いた。中には誰も乗っていない。桂樹さんは迷っているような顔をしながら、エレベーターの中へと移動した。
「桔梗さん」
「はい」
「明日また来ます。その時お教えしようと思います」
桂樹さんは俺の目を真っ直ぐ見据えた。俺は力強く頷く。
「分かりました。明日また」
「ええ、また」
エレベーターのドアが閉まった。チン、という音がエレベーターホールに響き渡る。
俺はゆっくりと自分の病室へと引き返した。そして急に頭が冷静になる。
「あなたには笑っていてほしいって、告白かよ」
今になって恥ずかしくなってきた、さっさと戻ろう。俺は車椅子のスピードを上げた。
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