月桂樹の笑顔

柚月ゆうむ

第1話

「桔梗さん、おはようございます」

 カーテンの向こうから声が聞こえた。あの人の声だったので、俺はすぐさま答える。

「おはようございます。入ってもらって大丈夫ですよ」

 するとすかさず桂樹さんはカーテンを開けて、中に入ってきた。

「体調はどうですか?」

「いつも通りです」

「そうですか。それはよかったです」

 そう言って彼女は微笑んだ。思わず俺の頬も緩んでしまう。

「花瓶の水替えてきますね」

「ああ、ありがとうございます」

 桂樹さんは花瓶を手に取りカーテンを閉めた。パステルカラーのロングスカートがよく似合っている。俺は目線を無機質な白が広がる天井へと移した。


 彼女と出会ったのは二ヶ月程前のことだった。金曜日の夜なんとなく酒を飲みたくなり、買いに行こうと部屋を出た。マンションを出て、コンビニ前の信号を渡ろうとした瞬間、けたたましい音と強い衝撃を最後に俺の意識は途切れた。

 気がついた時は、俺は白い空間の中にいて、俺の意識が回復したことに気づいた看護師さんが状況を説明してくれた。

 どうやら俺は交通事故にあったらしく、両足のなんたら骨が骨折しているのだそうだ。幸い大きな怪我はそこだけだったらしいが、手術、リハビリの伴う入院が必要らしい。明日からの仕事どうしよう、なんて思っていた時、彼女、桂樹皐月(さつき)が現れた。

「ほっ、本当に、申し訳ありませんでした」

 俺の顔を見るなり、彼女はものすごい勢いで頭を下げた。

 どうやら彼女がこの事故を起こした張本人らしい。

「顔を上げてください」

 俺は出来るだけ優しくそう言った。車をぶつけられたことに、まったく怒りが湧かない、なんて言うと嘘になるが、こうして自ら非を認め、泣きそうになりながら謝ってくる女性に対して責める気は起きなかった。そして、その後の話し合いで彼女には医療費を負担してもらうことになった。

 見舞いに来てくれた同僚からは、弁護士に相談すればもっと取れるのではないか、と提案されたが、道を渡るときに左右をよく確認しなかった俺にも責任があるわけだし、そこまでしようとは思わなかった。

 話し合いが行われた次の日、なぜか病室に彼女が現れた。話し合いは終わったはずだが、どうしたのかと聞くと、身の回りの世話をしに来たというのだ。

 体が不自由で未婚の俺にとって、綺麗な女性に世話してもらうと言うのはありがたい話なのかもしれないが、事故を起こした本人にされるのは気が引けるし、気まずい。

 だから俺は申し出を断ったのだが、彼女は首を縦に振らなかった。事故を起こしてしまった罪悪感からか、終始弱々しくしていたのだが、なぜかそこだけは頑なだった。彼女いわく、医療費だけでは償いが足りない。せめてお世話くらいさせてくれ、とのこと。意外と頑固な人なのかもしれない。

 どれだけ拒んでも引き下がろうとしなかったので、俺は甘んじて受け入れることにした。それが彼女との関係の始まりだった。


「取り替えて来ました」

 桂樹さんが戻ってきて、花瓶をテレビの横に置いた。

「ありがとうございます」

「いえ、これくらいのことは」

 ベッド横の丸い椅子を取り出し、座った。窓から光が差し込み桂樹さんの長く艶やかな髪をかきあげる仕草が神秘的に映った。

「今日の予定はリハビリですよね」

「ええ、そうですね。……またお見苦しいところを見せてしまいますね、はは」

「いえ、そんなことは……。元はといえば私のせいですから……」と、彼女はうつむく。

 やってしまった。ちょっと重苦しい空気が俺たちの間に流れる。最近やっと彼女から弱々しい雰囲気がなくなってきたのに。こういうところがモテない理由なのかな。

「もうそんなことは気にしていません。むしろ桂樹さんみたいな綺麗な人にお世話されてラッキーですよ」

「そっ、そんな綺麗だなんて」俺の言葉に照れたのか視線を逸らし、長い髪をかきあげた。なんていうんだろう、かわいいな。

 そう思っていると、照れた顔からさっきの暗い表情に戻ってしまった。

「気まずい雰囲気を和ませようとしてくれたんですよね。お世辞でもありがたく受け取っておきます」

彼女は自嘲気味に笑った。

「気まずい雰囲気を壊したかったのは事実ですが、その、お世辞ではありませんよ」

「えっ?」

 その問いには答えず、というか気恥ずかしくて答えられなかった。今度は俺が彼女の顔を見ることが出来なくなってしまった。

 あれ、俺たち一体何してるんだ?

 別の意味での気まずさが病室を包んでいるように感じた。


 リハビリの時間になった。看護師さんに連れられ、桂樹さんは車椅子をリハビリ室まで押してくれた。

 リハビリ室に着くと、いつものスタッフさんが笑顔で迎えてくれた。

 室内には平行棒のようなものがあり、患者はその間に立ち、その棒を掴みながら歩く練習をするのだ。

 平行棒につかまるため、車椅子から立とうとしたとき、スタッフのおばさんと一緒に桂樹さんが手を取ってくれた。温かくて柔らかい手だ。残った片手で平行棒を掴みゆっくりと立ち上がる。

 立ち上がったのを確認すると、スタッフさんは手を離した。

「大丈夫ですか? 痛くないですか?」

 桂樹さんが心配そうに見つめてくる。

「ええ、大丈夫です。……あの、もう手を離してもらって大丈夫ですよ」

「えっ、あっ、ああ、ご、ごめんなさい。つい」

 勢いよく手が離される。

「いえ、謝ることはありません」

 本当はもっと握っていて欲しかったのだから。

 名残惜しみながらも、冷たく無機質な平行棒を掴み、一歩一歩ゆっくりと進んでいく。

「いい調子ですね」

「そうですね。前の時よりもスムーズになってきた気がします」

 そして、彼女に応援されながら、ゴールまで行きかけたその時。

「痛っ」

 バランスを崩し、崩れ落ちてしまった。

「だっ、大丈夫ですか」

「ええ、だい……じょうぶです……」

 思わず息をのんでしまった。彼女の顔がものすごく近くにあったからだ。くりっと丸い瞳に長いまつ毛、通った鼻筋に柔らかそうな唇。やっぱり綺麗な人だな、と俺は魅了されてしまった。心臓の鼓動が早まり、少し呼吸が乱れているのが分かった。

 見つめ合ったまま、俺も彼女も言葉を発さない。現実には一瞬のことなのだろうけれど、俺にはスローモーションになっているかのように感じた。

「桔梗さん……」

 彼女の柔らかそうな唇が動いた。

「桂樹さん……」

 俺はその呼びかけに答える。

 そしてゆっくりと俺たちの顔は近づいていく。

「今日はこの辺にしておきましょう」

 俺たちの様子を見ていたスタッフさんが少し大きめの声で言った。

「くっ、車椅子取ってきますね」

 彼女は勢いよく立ち上がった。

「あっ、ありがとうございます」

 俺もつい大きめの声が出てしまう。さっきとは別の意味で心臓の鼓動は大きく、そして早くなってしまっていた。

 スタッフのおばさんの顔を見ると、何やらにやにやしている。その顔をやめろ、と心の中で毒づいた。

 彼女は車椅子を運んできて、さっきと同じように俺に手を差し出してくれた。車椅子に座ってやっと心臓が落ち着きを取り戻してきた。

 リハビリ室を後にしながら俺は思った。

 さっき俺たちは一体何をしようとしていたのだろう。

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