陥穽とふたり
扇智史
* * *
ミズキは墜落し続けている。私は彼女を受け止めようとして、何度も失敗していて、言葉だけを交わして幾度も別れている。ミズキは出会うたびに加速していて、出会う頻度もどんどん増していって、だけど交わす言葉の数はどんどん減っていって、いつか私は彼女がどんな顔をしていたかも忘れかけている。
私とミズキは永遠に続く長い縦穴の中にいる。上も下も果てはないけれど、どうやら上と下はつながっているらしくて、ずっとずっと落ち続けているといつしか同じ場所に戻ってくる。
私とミズキはずっとそんな世界に生きている。
私は縦穴の途中に浮遊している石板のような小さな街の上にいて、ここでたった一本だけの大木から落ちるしずくと甘い実だけを頼りに生きている。
ミズキは墜落し続けている。縦穴の端から端までをたどり、その途上途上にある街、たとえば私がいるこの石板であったり、あるいは縦穴の壁に張り付いて虫のように暮らす人々であったり、そういうものとの出会いを求めている。
ゲームのようだ、とミズキは言う。
ゲーム、というのは彼女はどこかの街で出会ったなにからしい。彼女の言うことはいまひとつ要領を得なくて、私にはよくわからなかったのだが、小さなガラスの板の上に小さな世界があるのだそうだ。
そのゲームというのには、この縦穴よりもずっと広い世界を内包しているものもあれば、ほんの一息で端から端まで行き着けるような小さな世界しかないものもあるという。
小さな世界は、しばしば端と端がつながっていて、板の上まで行き着くと下に出てくるとか、そういう事が起こるらしい。
逆に、ゲームの中の広い世界というのはどうなってるの、と聞いてみた。この石板のように端が途切れていてその先に進めないとか、決められた道筋をたどることしかできなくて脇道に進めないとか、いろいろらしい。
どれもこれも不自由だった、とミズキは笑う。彼女にとっての自由は、ずっと墜落し続けて、永遠に加速し続ける自由だからだ。
私もミズキにうなずきながら、だけど心のなかでは、私はとても不自由なのだと思う。
私もミズキのように墜落したいのに、私は石板を出たことがなくて、つま先をほんの少し端からはみ出させただけで、背筋がとても冷たくなってしまうから。
不自由でいいんだ、とも思う。不自由な私だからこそ、ミズキは私のもとに墜落してきてくれるから。私の他に誰もいない、乾いたこの街に、彼女だけが落ちてきてくれるから。
石板の下に消えていくミズキの姿を見送って、名残を惜しむように彼女の姿を見下ろそうとして、それでも永遠に続く闇の先に視線を送ることすら恐ろしくて、私はミズキの落ちていく姿を見られないでいる。
ミズキは加速し続けている。落下し続けるのは、すなわち下に引き寄せる力に従い続けることで、ずっと引っ張り続けられていればそれだけ速く落ちていくことになる。そういうことらしい。
私が物心ついた頃には、ミズキと私の会話はそれこそ永遠に続くかのようで、飽くことなく遠くの世界の信じられない物語を聞き、私は何度もうなずいて感想を述べてばかりだった。
それが、今ではミズキとの会話はせいぜい10往復だ。長い髪を逆立てながら落ちてきた彼女に笑いかけ、あいさつし、様子をうかがい、互いの体を気遣い、そして別れる。空気がごうっと音を立てるのに眉をひそめながら、私はミズキを追いかけようとして、立ちすくむ。
ミズキの速度が恐ろしくなる。心がざわつき、体の中でひどく大きな音がして、頭の中がぼんやりとしてしまう。
ミズキがいない間の無聊をかこつ時間はどんどん短くなっているはずなのに、待ち望む日々はますます耐え難くなっていく。
大木からしたたる冷たいしずくを口に含み、顔を上げると、葉の間から闇が見える。下と同じように上も暗黒に塞がれていて、石板からうっすらと放射されるあわい光だけが私に世界を見せてくれる。
闇は、ひんやりとしてる。ミズキの言葉を思い出す。
私はミズキをこの世界にどうにかとどめたいと思う。この柔らかな光の世界で、ミズキをずっと抱きしめていたいと思う。
いつしか、私は闇へと声を発するようになる。闇に、ではなく、闇から落ちてくるはずのミズキを呼ばわる。最初はとても小さくて細い声で、少しだけ。だんだんと大きく、いつか喉が張り裂け、胸が痛くなるくらいに何度も何度も。
ここにいて、と。
ずっと私と一緒にいて、と。
ミズキが落ちてくる。
私の声を聞いたミズキは、最初ふしぎそうな顔をして、それから今まで見たこともないような変に捻じくれた笑いをして、それは無理、という。
理由を聞くより先に、ミズキは凄まじい速さで落ちていく。空気は爆発するような音を発し、私は取り残される。自分の言葉が届かなかった理由がわからないままに立ちつくす。縦穴の壁が、闇の奥にうっすらと浮かび上がるひどく滑らかで平らな壁が、私の視線を冷酷に跳ね返す。
ミズキを突き刺したいと思う。
彼女と突き刺して、縦穴の壁か、石板の床か、大木のてっぺんに吊るしてしまいたいと思う。そうやって彼女を私の手の届くところにとどめてしまいたいと思う。
ミズキがそばにいるときだけが私の生きている時間だから。
こうしてひとりでいるあいだは、私は死んでいるのと同じだから。
私は大木に登る。大木の樹皮は固く、枝はもっと固い。その恐ろしく固く鋭い枝であれば、ミズキを突き刺してその凄まじい速度を殺してくれると思うから。
私は大木に登る。慣れない私は何度も手と足を滑らし、地面に落下する。背中が痛み、指先に傷ができ、爪が剥がれて、血が流れる。血を流すのは初めてで、私はめまいを感じながら、それでも大木に登ることをやめない。
大木はとてつもなく高く、最初の枝さえも気が遠くなるほど上のほうにある。最初の枝に届くまで、私は心が折れそうになりながら、登り続け、時に落ちて、それでも登る。
それがずっと続く。ミズキが何度か落ちてきたかもしれなかったが、気づかない。
いつか、落ちてから地面に達するより先に、幹に爪を立てられるようになる。落ちて、食らいついて、それでも登る。汗と血がこぼれ、肉と骨がきしみ、それでも登る。
最初の枝にたどり着く。
枝はあまりに固く、疲れ果てた私の腕では傷ひとつつけられない。私は息を切らせて、すこしでも細い場所を求めて、枝の先端の方に向かう。
枝の果ては、あまりにも細くて、だけどとても固くて、私はその細い枝の上に立つことができる。大木からの景色は、石板からとは違う色をしている。地面から届く光はひどく弱くておぼろげで、逆に、彼方まで続く縦穴の壁は明るく見える。縦穴がこんなに強い光を発していたのだ、ということを、私は初めて知る。ミズキも教えてくれなかった。
縦穴の壁は無限に上まで通じている。光の柱がまっすぐ建っているように見える。
ミズキと別れる瞬間の思いが蘇る。心がざわつき、体の中でひどく大きな音がして、頭の中がぼんやりとしてくる。
恐れとは違う、と私は知る。限りなく続く空は、限りなく続く奈落と同じに、私の感情を激しく揺さぶる。
そうだ、私は、その先に行きたかったのだ。
ミズキに会いに行きたかったのだ。
落ちたかったのだ。
あるいは飛びたかったのだ。
私は枝の端から歩みだす。からっぽの虚空を踏む。
私は墜落しない。
なにもないはずの空間に、私は立つ。
つかのま、私は私を持ち上げる力を感じる。服が、肌が、ゆるやかに空気を受ける。
私は自分が空に向かっているのだとわかる。
無限に私を加速する力は、限りない空へと私を導いてくれている。
大木の枝がかすかに揺れて、私に別れを告げるように葉擦れの音を発する。
私は振り向かない。落下する先を見下ろしたりしない。
ただ、空を見上げる。
両腕を広げ、いつか落ちてくるはずのミズキをかならずつかまえる。
どんな速さで落下してこようとも、必ずつかまえてみせる。
私は飛ぶ。
空へ誘う力は私にとてつもない勢いを与える。またたく間に私は永遠に暮らしていた場所を離れて、加速する。
ミズキが落ちてくる。
私の方を見て、驚いた顔をする。私は笑う。
砕け散るような速度でぶつかり合って、私とミズキは、初めて抱きしめ合う。
陥穽とふたり 扇智史 @ohgi_
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