華の覚醒




 ポン酢がない。


 正確には、ポン酢しょうゆがない。


 もっと言えば、調味料やドレッシング全般が足りていない。


 冷蔵庫には余った牛肉や野菜類が入っている。余り物で何か気軽な料理やサラダでも作って明日の朝ごはんにしようと思い、華はスーパーに出かけた。華は、こうした日用品を買うことにちょっとした喜びを感じていた。これもまた催眠の効果であり、華はそうした気分を快く受け入れていた。


「なんか主婦になったみたい」


 時刻は20時。


 これまでの華はスーパーにはあまり行かないため、店員も華の顔や悪名を知るものは少ない。そのため驚かれたり騒がれることもなく、華は静かに買い物を楽しむことができた。そして目当ての調味料とその他雑多なお菓子や食材を買って、賃貸マンションに帰る。そのときのことだった。


 ちょうど、街灯が故障して真っ暗闇が訪れるポイントがある。


 痴漢出没注意の看板が出ているが、華は気にせず歩いた。仮に痴漢がいたとしても、その腕を取って関節を極めるくらいのことはできる。


「うるぁ!」


 だが、流石に金属バットで遠慮もない殴打を受けるまでは華は想定していなかった。


「あっ……ぐ……え……?」

「久しぶりだな……いや、俺のことなんて覚えちゃいねえと思うけどよ」


 肩と背中の間あたりを思い切りを強打されて華は倒れた。

 そのまま体が地面にしたたかに打ち付けられる。

 殴りかかった方の男は、雨も降っていないのにフード付きのレインコートを着ている。

 そして華に見せつけるようにフードを脱いだ。


「へ……へへっ……お前のせいで、俺は恥さらしだ……もう部活もできやしねえ!」


 華は、怒りと恐怖の混ざった声を聞きながら倒れていた。

 びくん、びくんと自分の腕や足が震えるのを華は感じている。

 勝手に動いている。そして自分の意志ではまるで動かすことができない。

 華は自分の受けた致命的な外傷を、新鮮な気持ちで感じていた。


「あ……ああ……覚えてるわ。横山、だったわね。もう……退院したの?」


 華の息は絶え絶えでありながら、声色には錯乱や恐怖が皆無だった。

 名前を呼ばれた男は、びくりと震えた。


「お……覚えていやがったか……」

「忘れるわけないじゃない……あのとき、校舎から飛び降りるあなたの顔……目に焼き付いてるわ」

「忘れろ!」


 横山の顔が羞恥と興奮で真っ赤に染まった。

 自分の彼女を脅していたところを華に見とがめられ、恐怖のあまり校舎から飛び降りた男。それが流布されている噂と寸分違わぬ事実だった。


「殺すつもり? それとも、乱暴するつもり?」

「お、お前……怖くないのか……?」


 華は、茫洋とした顔のまま空を見つめながら呟いた。

 横山がそれを見て冷や汗を流す。


「……あと二、三回くらいなら殴って良いわよ。私も……まあ、それなりに悪いことをしたって思ってるから。謝る。ごめんなさい」

「お前……最近性格が変わったって話……本当だったんだな」

「でも乱暴は止めなさい。あなたを殺してあなたの燃やすわ」

「うっ……」


 横山が、金属バットを落としそうになる。

 華の言葉は真実だ。

 その声を聞けば誰もが「本気でやる」と恐れるだろう。

 これまでの華が振りまく烈火のような怒りとは違う、底冷えするような殺意。

 横山は、再び恐怖に囚われた。

 ここから逃げなければならない。

 だが、以前学校で脅されていたときとは決定的に違うものがあった。

 それは、手にした凶器だ。


「うっ……うわああああああー!」


 凶器が、横山を凶行へと走らせた。

 横山は金属バットを高々と掲げ、華へと振り下ろす。

 それは華の頭蓋に振り下ろされ、鈍い音が響く。

 どろりとした血がしたたる。

 華の目からは生気が失われた。

 もう少し横山に知識があれば、呼吸が止まり、瞳孔が開いていることがわかっただろう。

 だが知識がなくとも、誰もが今の華を見て「死体だ」と結論付ける。

 事実、華は今現在、死んでいた。


 横山はただただ華と自分の行為に怯え、まるで自分が被害者であるかのような泣き顔で、その場に立ち尽くしていた。


 再び、華が声を放つまでは。


「……やるじゃない。私だって一撃で殺すなんて早々できないわよ。横山先輩、殺し屋の才能があるんじゃないの?」


 口が動き、目がぎょろりと動いた。

 ぎこちない動きで腕が動き、自分の傷口を撫でた。


 すると、こめかみから流れ出したどろりとした血や体液が、まるで動画を巻き戻すかのようにこめかみの中へと戻っていく。傷口も、まるで何も無かったかのように綺麗さっぱりとした姿に戻った。


「……え?」


 バッドで強く打ち付けられたはずの背中も、まるで痛む様子もなく華は立ち上がった。


「ああ……瓶が割れちゃったのがあるじゃない。ここまでして良いなんて言ってないんだけど?」


 足下に転がっている割れたガラス瓶を見て、華がいらついた様子で呟いた。


「うっ……」

「ああ、それに……殴られて彦一が掛けてくれた暗示が解けちゃったわ。私のために掛けてくれた魔法が解けちゃったのよ。それどういうことかわかる? 私、怒るの我慢してるのよ。今までは怒ると心の中で自動的にブレーキが掛かってた。でも今は自分の意志で堪えなきゃいけない。つらいのよね。わかる? あなたのせいで今すごくつらいの。ブッ殺したいって気持ちを自分で抑えなきゃいけないの。わかるでしょ? わかるわよね? あなたの方が人殺しの先輩なんだから。ねえ!」


 ゆっくりとした声が、次第に速さと鋭さを増していく。

 横山は恐怖で身を竦ませていた。

 いたぶるような遊び心ではない、華の本物の敵意を浴びせられて。


「あーもう……自分でやるか」


 そこで、横山は自分の見ているものが現実なのか幻覚なのか、区別がつかなくなった。


 華が、ずぶっと、自分のこめかみに自分の手を突っ込んだのだ。


 まるで底なし沼のようにずぶずぶと手が中へ中へと突っ込まれていき、手首から先が完全にこめかみの中に仕舞われた。


「こうかな……違うわね……ここをひねる……いたっ、これも違う……はぁ、自分でやっても全然つまんない。彦一の手じゃないと気持ち良くなれない。ああもう、ほんといらいらする……。あのさぁ、いらいらするんだけど。私がいらいらしてるのになんであんた私の視界の中にいるわけ? そんな権利あると思ってんの?」

「うっ……うわあああああああああああああ!!!」


 がらん、ころんと金属バットが地面に転がった。

 目の前のものから逃げるように、一心不乱に逃げた。


「ちょっと忘れ物よ……はぁ、まったく」


 華が気まぐれに金属バットを拾い、横山に声を掛ける。

 だがすぐに横山の姿は見えなくなり、華も興味をなくした。


「ま、いいや。彦一のところに行こ」




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