新生・弥勒門華 8
そんなわけで俺は華を再び催眠したわけだが、興味の矛先を少しばかりずらす程度に留めた。だというのにいきなり趣味が変わった。具体的には、美食と丁寧な暮らしに目覚めた。
インテリアショップで調理器具や雑貨を買い、デパ地下で素晴らしい牛肉や野菜を買い、帰宅後すぐにビーフシチューを作り始めたのだ。
料理の教本や料理動画を一度見ただけで、今までろくに使ったことのない台所を手際よく使いこなす。俺も一応料理はできるので手伝いを申し出たが「ペースが乱れるから邪魔」と台所から追い出された。
本気になった華であれば、料理だろうがなんだろうが心配ないだろう。俺はそう思い、手持ち無沙汰を慰めるためにパソコン部屋の掃除を始めた。そんなときのことだった。
「うわ」
料理を始めた華が苦々しい声を漏らした。
異変を感じて台所に行く。
「どうした? 何か失敗したか?」
「別に失敗はしないわよ。ちゃんとレシピとか動画見れば普通に作るくらい誰でもできるわ」
「いやそこは苦手な人もいるけどな。じゃあ何かあったのか?」
「ビーフシチュー選んだのが失敗ってこと」
「うん? 何か他に食べたい物でもあったのか?」
「……ママの得意料理だった」
……ああ、そうか。
無意識に作っちゃったのか。
「兄さんが好きだったのよ。誕生日とかお祝い事があるといつも作ってもらってた」
「……響一さんか」
俺も彼には小学生の頃、二、三回ほど会った。
線の細い、優しそうな人だった。
少し前に事故死した上に、死を伏せられた。
そのことが切っ掛けで華の母が壊れ、そして華もまた大きく影響を受けた。
最終的に俺が催眠で無理矢理解決してしまった。
「兄さん、良い人だったわ。あんまりにも私が邪険にされてると、ママをなだめてくれた。まあ、中学校くらいからは庇うようなことはしなくなったけど」
「それは……」
実の兄にも裏切られたのか、と思ったが、華は首を横に振る。
「違うわ。下手に庇うとママが更に不機嫌になってもっと空気が悪くなるのよ。だからあえて兄さんは距離を取ってた。……最初はちょっと誤解して、兄さんとママが組んで私のこと邪険にしてるのかと思った」
火を掛けた鍋の中で、ぐつぐつとシチューが煮立っている。
食欲をそそる香りが立ちこめながらも、キッチンはどこか寒々とした気配が満ちている。
「兄さん、もうママのこと諦めてたかもしれない。留学するときに『お前も高校卒業したら家を出て、ママから離れた方が良い』って言ってくれてた。高校出る前に離れちゃったわね」
「……そうだな」
「兄さんと、もっと話をすれば良かった。兄さんはママと違って優しくて大人だった。でもビーフシチュー食べるときだけは子供みたいに嬉しそうだった。だからビーフシチュー食べる兄さんが嫌いだった。ビーフシチューも大嫌い」
だん! と音を立てて、まな板に包丁を突き立てた。
真っ二つになるのではないかと思うほどの強さ。
「兄さんのお祝いのときにしかママは作ってくれなかった! 私の誕生日も! 将棋クラブで昇級したときも! 高校に受かったときも! 全国模試で一位取ったときも! 何にも! 何にもしてくれなかった! いつだって私が邪魔者扱い! なんで自分の家で初めて作った料理がこれなのよ! ひどすぎでしょ!」
「華、落ち着け」
「あんたも止めなさいよ! なんで私のことぼーっと見てんのよ!」
無茶苦茶な話だ。
そんなこと俺は知らない。
だがそれでも、華がそんな無茶苦茶な気持ちをぶつけられるのは、俺だけだ。
「うっ……! 頭、痛い……」
「暗示があるのに無理に怒ったからだ。暗示、解くぞ」
華に頭痛をもたらしているのは、俺が最初に華に仕込んだ暗示だ。
攻撃的な衝動を抑えられているのに、無理に激昂したことが悪影響を及ぼしている。
「ん……ご、ごめん。それはいらない」
「いや、でもな」
「大丈夫……深呼吸する」
すう、はぁ、と華が深く息を吸って吐いた。
震えながら呼吸を整え、五分ほどしたあたりで震えが止まった。
「ごめん、そんなつもりじゃなかったの。ごめん」
「良いんだ。それより華。そのビーフシチュー、俺に食べさせてくれよ」
「……私は、大嫌いなのよ。彦一も嫌いでいて」
静かな怒りの込められた呟き。
「お前のママのビーフシチューは大嫌いになるよ。目の前に出されたらちゃぶ台をひっくり返す。でもそれはそれとしてお前のビーフシチューは食べたいんだよ。お前が作ったものかそうじゃないかは、俺にとっては天と地の差があるんだ」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ……全部食べなさいよ。残さずに。今すぐ」
華は、鍋を指さした。
うん、軽く十人前はあるんじゃないかな。
そうかそうか、華さんそういうこと言いますか。
「わかった、食うぞ」
お姫さまたってのお願いだ。
最近はお願い事がヌルくて体が鈍っていたところだ。華はパン派でバケットを食べるつもりだったが、俺のために白米も炊いていてくれた。炊飯器のフタを開けて皿に白米を盛り、その上にシチューをカレーのように掛けた。
華はそれを、珍しいものを見るかのように眺めている。
「……そうやって食べるんだ」
「お前はどうだったんだ?」
「バゲット。シチューに浸して食べてた」
「ご飯も美味いぞ」
「ちょっと意地汚いからイヤ」
「家庭料理ってのはちょっとくらい意地汚い方が美味いんだよ」
「なにそれ」
一匙すくい、口に入れる。
牛のモモ肉がほろりと口の中でほどける。
「なんだこれ美味いな」
「そ、そう」
「肉が柔らかい。野菜はほどほどに噛み応えがある」
とろけるような肉。
ほどよい酸味の利いたルゥ。
柔らかくも適度に歯ごたえのある、甘い人参。
ほのかなセロリの苦み。
すべてが調和している。
「圧力鍋使ったわ」
「料理ほぼ初心者でなんで圧力鍋とか持ち出すんだ」
「キッチン用品って素敵なの多いのよね。買いたくなるし買うと使いたくなる」
「それはよくわかる」
俺も母親が忙しいから料理はたまにやる。
だが俺はレシピ本通りに忠実に料理したとしてもこんな風に完璧なものを作れはしないだろう。悔しいが美味しい。どんどん胃の中へと入っていく。
「じゃあ、次行くか」
二皿目行ってみよう。
全然行ける。
あと三皿くらいなら余裕で大丈夫だ。
それ以上はわからない。
「あ……」
華が、何やら物欲しそうな目で俺を見ている。
「安心しろ、全部食べる」
「う、うん」
うん、美味しい。
最初の一口目の感動こそないが、十分に飽きさせない味だ。
セロリの苦みが適度に舌を刺激してくれるからだろう。
そんなとき、ぐぅと音が鳴った。
「……」
「何か言いなさいよ」
「いや別に。しかし美味いな。美味すぎる」
「……ちょっと!」
「なんだ。俺今飯食ってるんだけど」
「なんで一人で食べてんのよ!」
「全部食べろって言ったのお前じゃないか。一口だって渡さないぞ」
「……なさい」
蚊の鳴くような声が聞こえた。
「もう一回、ちゃんと」
「……………………ごめんなさい」
華が、顔を真っ赤にして呟く。
「じゃ、一緒に食うか」
「うん」
もう一つ皿を取り出す。
華の分は大盛りにしてよそった。
「こんなに食べさせるつもり?」
「お前が言うなよ……あ、パンの方が良かったか?」
「これで良い」
「意地汚いんじゃなかったのか?」
「よく考えたら、それもクソババアの言い分だったわ。あいつほんと頭おかしい。シチューをご飯にかけない人ってヒステリックで気が狂ってるんだわ。私は正常だから御飯にシチューをかけるの」
結局、俺は六皿食べて、華は三皿大盛りで食べた。
食べ過ぎてしばらく動けなかった。
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