マッチ売りのカトリーヌ

 雪が降りしきる12月のことである。


 貴族同士の交流、いわば舞踏会に参加すべく馬車を走らせていると、街灯の下にたたずむひとりの女性が私の目に入った。

 寒い冬空の下、よれよれのコートを羽織り、手にはかごに入ったマッチを握っている。


 マッチ売りか。


 私は瞬時にそう悟った。

 寒さの厳しいこの時期には、こういったマッチ売りがそこかしこにいる。

 しかし、その売り子の大半は子どもであり、彼女のような成人女性がマッチを売ることは珍しいことであった。

 そのため、私は物珍しさも手伝って馬車を止めさせると、シルクのコートに身をくるませてマッチ売りの彼女の元へと歩み寄った。


「マッチ、どうですか?」


 ひどく小さな声で、だがはっきりと彼女は言った。

 黒く汚れた金色の長い髪に、痩せ細ったあご、白く濁ったような瞳。

 美人とは程遠いその顔に、なぜか私は目が離せなかった。


「一箱もらうよ」


 そう言って懐に手を伸ばすと、彼女は言った。


「ありがとうございます。10クランです」


 その言葉に、私は懐に入れた手を止めた。


「10クラン? 高すぎないか? 相場は1クランだろう」

「そうなのですか? よくわかりません。わたくしは10クランでお売りしたいと思ったものですから」

「我が屋敷の御用達の店で買っても3クランだ。10クランはいくらなんでも高い」

「申し訳ありません。わたくしめにはそういったことはよくわかりません。10クランでお気に召さないのであれば、買わなくてもけっこうでございます」


 ううむ、と私はうなってしまった。

 10クランといえばマッチ一箱に対しては高いものの、はした金ではある。

 ここで払わなければ貴族として面目が立たない。


 私は渋々10クランを取り出してマッチ売りに手渡した。


「ありがとうございます。どうぞまたごひいきに」


 頭を下げる彼女からマッチを受け取ると、私はいくぶんか気分を害しながら馬車へと戻った。

 どうやら余計な時間と金を使ってしまったようだ。

 貴族とみると値をつり上げる、いやしい人間に話しかけてしまったらしい。


 そんなことを思っていると、背後から「マッチ、どうですか?」という声がまた聞こえてきた。

 振り返ると、さきほどのマッチ売りの彼女が見るからに貧しそうな老人に声をかけていた。

 私の10クランで大儲けをしておいて、さらにあんなみすぼらしい老人からも搾取しようというのか。


 少し憤慨しながら眺めていると、老人は寒さで身体を縮ませながら「いくらだい?」とマッチ売りに尋ねた。

 マッチ売りは答える。


「10ラッペンです」


 その言葉に、私は目を丸くした。

 10ラッペンといえば、1クランの10分の1である。破格の値段だ。


 老人は「ありがたい」と言って、震える手で10ラッペンを女性に渡した。


「ありがとうございます。どうぞまたごひいきに」


 何度も頭を下げる老人を見送ると、マッチ売りの女性は私に目を向けた。


「なにかご用でしょうか?」


 その冷たい響きに、背筋がゾクリとする。


「いや、さっき私は10クランでこのマッチを買ったのだが、なぜさきほどのご老人には10ラッペンで売ったのかなと」

「さきほども申し上げた通りでございます。あなた様には10クランでお売りしたいと思ったのです」

「ご老人には10ラッペンで売っておいてか?」

「人には分相応というものがございます。あなた様は身なりも立派ですし、見たところ上流貴族のようでございます。ですので、1クランでお売りするのは逆に失礼に当たるかと思いました」


 ふむ、と私は顎に手を当てた。


「つまり、私には1クランのマッチを10クランで買うだけの器量があるとあなたは見込んだわけか」

「はい、そうです。気に障りましたでしょうか?」

「いや、すまなかった。実は貴族とみると値をつり上げるいやしい人間だと思っていたのだ。心からお詫びしよう」

「お気になさらず」


 マッチ売りは表情ひとつ変えなかった。

 その態度がすごく堂々としており、私は俄然興味がわいてきた。


「面白いな、君は。名はなんと申す?」


 尋ねる私に、マッチ売りの女性はこたえた。


「人に名前を尋ねる時は、先に自分の名前を名乗るのが礼儀ではないでしょうか」

「あ、ああ、そうだな。失礼した」


 そう言って私はかぶっていたシルクハットを取ると、それを胸に当てて深々とお辞儀をした。


「私はルロイ。ルロイ・フォン・クリストファー。クリストファー家の嫡男だ」

「やはり、名門貴族の方でしたか。わたくしはカトリーヌと申します。姓はございません」


 不思議なことに、みすぼらしい姿で頭を下げる彼女の姿がとても眩しくて、私は心臓が高鳴るのを抑えきれなかった。


「カトリーヌ。良い名だ」

「恐れ入ります」

「君はいつもここにいるのかい?」

「はい、この冬の間はずっとここに……」

「そうか。また、買いにきてもよいだろうか?」


 我ながら何を言っているのだと思ったが、このまま別れてしまうには惜しいと私は思った。

 マッチ売りのカトリーヌ。

 彼女に対して、何らかの感情が私には芽生えていた。

 私の問いかけに、カトリーヌは初めて口元に笑みを浮かべた。


「もちろんでございますとも。お待ち申し上げております」


 なんて素敵な笑顔なのだろう。

 私は心が弾むのを抑えきれなかった。



 それからというもの、私は毎晩カトリーヌの元を訪れた。

 マッチ一箱10クランという信じられない値段ながらも、私は彼女会いたさにそれを払い続けた。


「ありがとうございます、またごひいきに」


 そう言って頭を下げる彼女が、たまらなく愛おしく感じていた。

 これが恋というものかと気づいた時、私の想いはとどまることを知らなかった。


 彼女カトリーヌが欲しい。

 彼女カトリーヌの側にいたい。


 しかし、貴族である私にはそれは決して叶わぬ恋とわかっていた。

 姓もない明らかに身分の違う彼女。

 そんな彼女を私はめとるどころか名門クリストファー家で雇うことすらできないと知っていた。

 こうして、夜中にこっそり会いに行くことしか私にはできなかった。


「マッチ一箱くれないか」


 その日も、私は馬車を走らせて彼女に会いに行っていた。

 しかし、いつも無表情だったカトリーヌは、なぜか笑顔だった。


「ルロイ様、いつもありがとうございます」

「どうしたんだい? 今日はなんだか嬉しそうだね」


 ドクン、と胸が高鳴るが、私は平静を装って尋ねた。


「そう見えますか?」

「ああ、そう見える」

「それは……。ルロイ様がお見えになったからです。こう見えて、わたくし、ひどく臆病なんです」

「臆病? ははは」


 思わず私は笑ってしまった。

 あんなに初対面で堂々としていた彼女が臆病だとは思いもよらない。


「笑わないでくださいまし。わたくし、毎日ルロイ様が来て下さるか不安でいっぱいなのです。ですから今日もお会いできて嬉しいのです」


 その言葉に、私は笑うのを止めた。


「それはどういう意味だ……?」

「言葉通りの意味でございます。ルロイ様が会いに来て下さる、それだけでわたくしは……」


 カアッと全身が火照るのを感じた。

 私も、毎晩彼女と会うのが嬉しくてたまらない。

 一分でも一秒でも側にいたい。

 しかし、それは叶わぬ恋。

 そうあきらめていたところに、彼女からそのように言われて私は内心焦ってしまった。


「もしかして君は……」


 問いかけるよりも先に、カトリーヌは頬を赤らめた。

 その表情が、すべてを物語っていた。

 すべてを表していた。

 私は嬉しさよりも、後悔の念を感じてしまった。


 ああ、なんということだ。

 私はなんと愚かしいことをしてしまったのだ。

 彼女会いたさに何度も訪れるなどと。

 取り返しのつかないことをしてしまった。


 私は思った。

 これ以上は……危険だ。

 これ以上踏み込めば、後戻りできなくなる。


「……マッチはいらない。もう会うのはやめにする」

「ルロイ様……?」


 私は踵を返すと、まっすぐに馬車まで戻った。

 困惑して泣きそうな顔をしているカトリーヌの顔を目の端でとらえつつ、私は振り返らなかった。


 マッチ売りのカトリーヌ。

 彼女への想いは、今宵限りで終わりにしよう。

 そう心に誓った。



     ※



 それから、どれくらいたったろう。

 私は、抜け殻のような毎日を送っていた。


 目の前には、カトリーヌから買ったマッチが何段にも積み重なっている。

 初めて会った日から、一箱も使ってはいない。

 冬が終わりを告げ、春がやってこようとしている時期だった。


 もう、彼女はいないだろう。


 冬の間はマッチ売りをしていると言っていたが、春以降は何をしているのか、わからない。

 興味はあるが、知る術はなかった。


 日がな一日、自室の机の前でボーっとしていると執事のカークスがやってきてこう言った。


「ルロイ様、お暇でしたら少しお願いしたいことがあるのですが」

「なんだ、カークス。手伝いなら他の給仕に頼めばよかろう」

「いえ、他の者も手一杯のようでして。旦那様も忙しいようですし、ルロイ様にお願いしたいのでございます」


 カークスは私が生まれる以前からこの屋敷に仕えている執事だ。だから、私もはっきりと嫌とは言えない存在だった。


「仕方ない。何をすればよいのだ?」


 カークスは椅子から立ち上がった私に微笑みかけると、こう言った。


「マッチを、買ってきてほしいのです」

「マッチを?」


 私は机の上に積み重なったマッチに目を向けた。


「明日は我が屋敷でパーティーがございまして、来賓客が大勢集まって来られます。そのような庶民的なものではなく、最高級のマッチが必要なのでございます」

「そのような話、聞いてないぞ」

「急きょ、決まったようでございます。できれば買ってきていただきたいのですが」


 カークスの言葉は、有無を言わさぬ迫力があった。


 私は結局、その迫力に負けて馬車を走らせた。

 王族・貴族御用達の店に向かう途中、私はふと気が付いた。


 この道は、カトリーヌのいたあの場所に続いている。

 数週間、通い続けたあの街灯の下に続いている。


 私は高鳴る鼓動を抑えながら、必死に前を見据えた。

 御者の駆る馬車は、ゆっくりと、だが確実にあの場所を目指していた。


 やがて、カトリーヌのいた街灯が見えてきた。まだ陽は高く、当然街灯はついていない。

 しかし、その下にはいつもと変わらぬ彼女の姿があった。


 よれよれのコートを羽織り、手には籠に入ったマッチを握っている。


「止めろ、止めてくれ!」


 私は御者に命じると、落ちるように馬車から飛び降りた。


「カトリーヌ!」


 気が付けば、私は彼女のもとへと駆け出していた。

 あの汚れた髪が、青白い顔が、痩せこけた頬が、私の目に飛び込んでくる。


「ルロイ様……」


 彼女は目を見開いて私を見つめていた。

 もう会わないと決めていた。

 踏み込めば危険だと感じていた。


 しかし。

 どうにも抑えきれなかった。


 こうして目の前に立つ彼女の姿に、私はもう目が離せなかった。


「お会いしとうございました」

「すまなかった。許してくれ」


 地面に崩れ落ちながら、許しを乞う私にカトリーヌは手を差し伸べてきた。


「何を謝られているのです? 別にルロイ様が謝るようなことなど、何もございませんのに」

「私は怖かったのだ。君と……愛する君と恋に落ちるのが……どうしようもなく怖かったのだ。許してくれ、カトリーヌ」

「ルロイ様、お立ちになってくださいまし。貴族ともあろうお方が、わたくしのような者に膝を折るなどあってはなりませぬ」

「構うものか。愛する君のためならば、貴族の地位など捨ててやろう。カトリーヌ、こうして再び会えてようやく気が付いた。私には君が必要だ。たまらなく愛しい君が、どうしても必要だ。どうか、私と結婚してくれないか」


 膝を曲げて頭を下げる私に、彼女は涙を浮かべながらも、首をふった。


「それはできません。貴族の地位など、簡単に捨てられるものではありません。そんなことをしたら、クリストファー家は潰され、多くの者が路頭に迷ってしまいます。今一度、ご自分の立場をわかってくださいまし」

「しかし……」

「ルロイ様のお気持ち、それだけでじゅうぶんでございます。わたくしのような者にもったいなきお言葉」


 なおも言おうとする私に、カトリーヌは他人行儀な顔つきに戻って言った。


「マッチ、どうですか?」


 それは、初めて会った時と同じ、無表情な彼女の姿だった。

 私は気づいた。

 これが、彼女の精一杯の思いやりなのだと。

 これが、彼女の精一杯の優しさなのだと。


 私は立ち上がると、毅然とした態度で言った。


「一箱くれないか」

「ありがとうございます。10クランになります」


 私は懐から10クランを取り出すと、彼女の手にそっと手渡した。



     ※



 カタン、と私はそこでペンを置いた。

 煌々とランプの明かりに照らされた机の上には、大量のマッチ箱が置いてある。

 すでに湿気ていて使い物にならないが、その質素な造りの四角い箱は当時の面影を今も残している。

 窓の外は、しんしんと雪が降り積もっていた。


「まだ起きてたの?」


 その時、一人の少女が部屋のドアを開けて入ってきた。

 孫のメアリだった。

 亡き妻に似て、とても可愛い可憐な少女だ。

 金色の髪に、白い瞳。三つ編みは息子の嫁が編んでくれたのだろうか。


「ああ、メアリ。君も起きていたのか」

「えへへ、ちょっと寝付けなくて……」


 そう言って、机の前に座る私の椅子の肘掛けに身を乗せて、原稿を覗き見る。

 賢いメアリは、ざっと目を通して私に顔を向けた。


「これ、おばあちゃんのこと書いてるの?」

「どうしてそう思うんだい?」

「なんとなく。だって、おばあちゃんて昔、マッチ売りだったんでしょ?」


 その言葉に、クスリと笑う。


「そうだよ。でも誰から聞いたんだい?」

「ごめんなさい、口止めされてた」


 ペロッと舌を出すメアリに慈愛の眼差しを送りつつ、私は言う。


「いや、いいんだ。本当のことだしね」


 マッチ売りのカトリーヌ。

 どうしても彼女と一緒になりたいと申し出た時、懸命に父に説得してくれたのは執事のカークスだった。


「何も貴族の世界だけがすべてではありますまい」と。


 思えば、カークスの「マッチを買ってきてほしい」という一言は、こうなることを見越してのことだったのかもしれない。

 あれがなければ、再会することもなかっただろう。


 そして、その年にはめでたく私とカトリーヌは結ばれた。



「ねえ、おじいちゃん。おばあちゃんのこと、もっと教えて」

「おばあちゃんのこと?」

「だって、私が生まれる前に死んじゃったから、わからないんだもん。どんな人だったの?」


 私は「よし」と言ってメアリを膝にのせると、机の上のマッチ箱を手に取った。


「おばあちゃんはね、それはそれはとても素敵な女性だったよ」

「私みたいに?」

「おお! あっはっは、よくわかったねえ。そうさ、メアリみたいに素敵なレディだったんだ」


 しんしんと降る雪は、まるで当時の出来事を思い出させるかのようだった。

 窓の外からかすかにカトリーヌの微笑む姿が見えた気がした。

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