恋に身を焦がす、夏
「好きです」
その一言が言えなくてずっとヤキモキしていた。
それが言えたらどんなに素敵だろう。
それが言えたらどんなに素晴らしいだろう。
けれども、僕には言えなかった。
なぜなら、彼女は僕にとって高嶺の花だったから。
高すぎて高すぎて手が届かない、崖の上に咲く一輪の花だったから。
教室のかたすみでひっそりと本を読む彼女の姿は、僕には眩しすぎた。
しなやかな黒髪、雪のような白い肌、少し青みがかった丸い瞳。
ひかえめでおとなしい彼女に、僕の心は奪われていた。
きっかけは、体育の授業だった。
二人一組で行う組体操。
男女ともに奇数のうちのクラスは、僕と彼女だけがあぶれてしまった。
仕方なくあぶれ者同士でペアを組んだのだけれど、当然まわりからは冷やかされた。
「ごめんね」
謝る僕に、彼女は顔を真っ赤に染めながらプルプルと首をふった。
恥ずかしそうにうつむく彼女が、なんだかとても可愛く見えた。
組体操の内容は倒立だった。
基本中の基本。
逆立ちをする相手の足を持って倒れないように支える、ただそれだけだ。
ただ、ジャージの上とはいえ女の子の足首を持つという行為が僕にはたまらなくいやらしく思えた。
男の僕でさえそう思うのだから、彼女の方はもっと抵抗があっただろう。
「やめようか?」
そう尋ねる僕に、彼女は言った。
「がんばる」
そう言って両手をマットにつけて抱え込むと、ピッという笛の音に合わせて床を蹴った。
グワッと彼女の両足が僕の目の前に迫る。
慌ててその足首をつかむと、僕らは見事に倒立の組体操を成功させていた。
ピッという笛の合図とともに、彼女が床に降り立つ。
「やったね」
僕が言うと、彼女は嬉しそうに「うん」と笑った。
交代して今度は僕が倒立し、彼女が足を持つことになった。
正直、体育は得意ではなかったけれど倒立くらいならできるはず。そう思い、足に力を込める。
ピッという笛の合図とともに、僕は床を蹴った。
視界が反転する。
宙に浮く足に、彼女の手が触れた。
その手は力強く僕の足首を握った。
僕らは見事、2度目の倒立も成功させていた。
顔を下に向けている僕の視線の先に、彼女の体育シューズが見える。あまり履いていないようで新品のようだった。
その瞬間、僕は鼓動が高くなっていくのを感じていた。
女の子の足を見て、興奮している自分がいる。
この気持ちはなんだろう。
この胸の高鳴りはなんだろう。
そう思った矢先、ピッという笛の音が聞こえた。
彼女の手が離れ、床に足がつく。
けれども、僕はしばらく立ち上がることができなかった。
片膝をついた状態で、彼女の前にうずくまっていた。
ドキドキしていると、「ふふ」という笑い声が聞こえてきた。
顔を上げる僕の目に、笑顔を見せる彼女の姿が飛び込んでくる。
「なんだか、片膝をついた騎士みたい」
言われて確かにそうだと思った。
まるで、マンガや小説などで見る姫君に忠誠の誓いを立てる騎士のような格好だ。
僕もおかしくなって「ふふ」と笑った。
逆に、僕を見下ろす彼女はなんだかおとぎ話に出てくるお姫様のようだった。
それ以来、なぜか僕は彼女が好きになった。
※
僕が彼女と口を交わしたのはその一度きりだった。
あの組体操のとき以来、一度も口をきいていない。
もともと僕が女の子としゃべるのが苦手だったというのもある。誰かと積極的に話しをするような性格でもなかった。
それに、彼女は誰ともしゃべらない大人しい子だった。
それが余計に僕の恋心に拍車をかけた。
「好きです」と伝えたい。
「好きです」と伝えたらどんなに楽になれるだろう。
けれども言えなかった。
教室の片隅で本を読む姿を、黙って見つめることしかできなかった。
ある日、ついに我慢ができなくなった僕は手紙をしたためた。
愛の告白の手紙。いわゆるラブレターというやつだ。
小さな便箋を1冊買い、そこに「好きです」とただ一言書き添えた。
同時に浮かぶ彼女の笑顔。
それを思い浮かべると、どうしても恥ずかしくなって便箋をくしゃくしゃに丸めてしまった。
こんなものあげてどうするつもりだ。
こんなものあげても嫌われるだけだ。
「気持ち悪い」と言われるかもしれない。
「私は嫌い」と言われるかもしれない。
好きな子に「嫌い」と言われたら、きっと僕は立ち直れない。
だったら、今のまま何も言わないでいたほうがいい。
そう思った。
そうこうするうちに、季節は春から夏へと変わっていった。
この中学へ入学してから四か月が過ぎようとしている。
僕の気持ちは収まるどころか、日々募っていった。
彼女のことがあまりに好きすぎて、どうしようもない。
告白したい。
好きだと言いたい。
好きだと言って抱きしめたい。
そんな悶々とした中で中学校は夏休みを迎えた。
しばらく彼女の姿を見ることができなくなることに、寂しいという気持ちと同時に安堵していた。
これで心がかき乱されなくて済む。
これでいつも通りの生活に戻れる。
この気持ちの高鳴りは彼女を毎日見ていたからで、しばらく見なければクールダウンするだろう。そんなふうに思っていた。
けれども、それは逆効果だった。
彼女の姿が見れない日が続けば続くほど、僕の恋慕の想いは募っていった。
彼女の姿が見れないからこそ、胸が張り裂けんばかりに切なくなっていった。
会いたい。
なんでもいいから会いたい。
一目でいいから彼女と会いたい―――………。
世の中のカップルは一分でも一秒でもそばにいたいと言うけれど、その気持ちがわかる気がした。
彼女と会えない日々は、地獄だった。
僕はいてもたってもいられなくなり、近くの本屋へと自転車を走らせた。
空は青く、灼熱の太陽がアスファルトをじりじりと照りつけている。
夏の代名詞とも言われる蝉の大合唱が、耳をつんざいた。
僕は汗だくになりながら全速力で自転車をこぎ、10分かけて本屋へとたどりついた。
クーラーをがんがんにきかせた本屋の扉を開ける。
ホーッとため息をついて中を見渡すと、最初に目に飛び込んできたのは彼女の姿だった。
「あ……」
僕は思わず固まってしまった。
なぜだ。
なぜここにいるんだ。
「なぜ」という単語がまず飛び出してきた。
いや、いても不思議ではない。彼女は本が大好きだ。本屋にいるのは珍しいことではない。むしろ、僕の方が似つかわしくない。
でも僕にとっては今この状況で彼女が本屋にいるというのが不思議でならなかった。
彼女は、新刊コーナーで山積みされた本を目を輝かせながら見つめていた。
いつもの制服ではなく、青いワンピース姿で。
その姿を見ただけで、僕の心ははち切れんばかりに高鳴った。
「あ」
彼女は僕を見るなり小さな声をあげた。
ドキン、と僕の小さな心臓が悲鳴をあげる。
「こ、こんにちは」
「こんにちは」
ニコッと微笑む彼女。手には難しそうな本が握られている。
「奇遇だね」
彼女はそう言った。
「うん」
僕は答える。
しかしそれ以上会話は続かなかった。
恋焦がれて会いたいと思っていた彼女が目の前にいる。
会えなくて、切なくて、僕の胸を締め付ていた彼女が目の前にいる。
そのことが僕の思考を一切停止させていた。
しばらく固まっていると、彼女の口が開いた。
「本、買いにきたの?」
「う、うん……」
マンガ本だけど。
そう言おうとして口をつぐむ。
「私も。今日発売の本が欲しくて」
そう言って見せてくれたのは、タイトルすら読めない分厚い本だった。
きっと、中にはさらに僕には読めない漢字がびっしりと詰まっていることだろう。
「すごいね」
何を言っていいかわからず、ただそれだけを伝えた。
「ありがと」
彼女は答える。
「じゃあね」
そう言って彼女はレジへと向かっていった。
たった数言、言葉を交わしただけなのに僕には世界が花開いたように感じられた。
幸せって、こんなに身近にあったんだと初めて気が付く。
本屋から出て行く彼女の姿を目で追いながら、僕は目的のマンガ本を手に取るとすぐに会計を済ませた。
なかば転がり出るように本屋を飛び出した僕は、自転車にまたいで一心不乱に彼女を追いかけた。
「待って!」
自転車をこぎながら、歩いていく彼女の後ろ姿に声をかける。
ふっと振り向く彼女の姿は、まるで天使のようだった。
「なあに?」
「えっと……その……」
僕はしどろもどろになりながら、なんで呼び止めたんだろうと後悔した。
勢い余って呼び止めたものの、呼び止めた理由なんてなかった。
「えっと……」
言葉につまる。
口下手な僕は、何も言えなかった。
なんて言おう。
なにを言おう。
どんなことを言おう。
呼び止められた彼女は僕の言葉を待っていた。
そのつぶらな大きな瞳が、僕を見つめている。
それが余計に僕の声を詰まらせた。
「つ、伝えたいことがあるんだけど……」
「………」
「えっと、その……」
「………」
「ぼ、僕は君のことが……」
「………」
「す……」
「す……?」
好きです。
その一言が出てこない。
「……途中まで一緒に行っていい?」
「……うん」
彼女はうなずいた。
僕は自転車から降りると彼女の横に並んで歩き出した。
歩きながらも、少しホッとする。
思わず勢いに任せて告白するところだった。
心の中で自制心を保った自分を褒めてやりたい。
いきなり「好きです」なんて言ったらどうなるか、想像もつかない。
言わなくてよかった。
けれども少しガッカリもしていた。
こんなチャンス、滅多にないのに。
今、告白しなかったらいつするんだよと。
「暑いね」
彼女は歩きながら僕に言った。
汗ばんだ首筋が、僕の目にはたまらなく映る。
「暑いね」
僕もそれに応えた。
確かに今日はものすごく暑かった。
アスファルトから漂う蜃気楼がその暑さに拍車をかけている。
「本当に、暑い……」
それ以上の会話は続かず、お互い黙り込んだ。
静寂が二人の間を包み込む。
蝉の大合唱が、今ではありがたい。
「そういえばさ」
沈黙をやぶって彼女が明るい声を発した。
「春に体育の授業で組体操を一緒にやったの、覚えてる?」
「う、うん」
忘れるものか。
僕はあれ以来、彼女が好きなんだ。
「私ね、その時初めてドキドキしたの」
「……ドキドキした?」
「うん、すごくドキドキした。男の子の足首って、こんなに太くてカッコいいんだって」
そのセリフに、僕の心臓もドキドキと高鳴る。
「あんなに間近で見たことなかったし」
「僕だって……」
「え?」
「僕だって、ドキドキしたよ。女の子の足があんなにも小さくて柔らかいんだって……」
暑さでもなんでもなく、彼女の顔が真っ赤に染まっていくのがすぐにわかった。
きっと、僕も同じような顔をしてるんだろう。
顔を真っ赤に染めながら彼女は言った。
「なんだか、恥ずかしいね」
「そ、そうだね」
「それでね、倒立が終わったあと、しばらく片膝ついてたでしょ? あの姿、今でも覚えてる。なんかもう、おとぎ話に出てくるナイトみたいで……素敵だった」
思わず腰が抜けて倒れそうになった。
大好きな子から「素敵だった」なんて言われた日には、もう何をしても許されるのではないかと思えてしまう。
「僕には、君がお姫様みたいに見えたよ」
ついその言葉が口から滑り出た。
ポンッとまた彼女の顔が赤くなった。
僕は慌てて付け加える。
「おとぎ話に出てくるような、ね」
誤解されてしまったかと冷や冷やしたが、彼女は「ありがと」と笑ってスタスタと足早に歩き出した。
慌てて僕も追いかける。
心なしか、彼女の歩く足取りが弾んでるように見えた。
と、彼女はふいにその足を止めて僕に言った。
「……今度もまた一緒にやれたらいいね。組体操」
「う、うん。そうだね」
「その時は、また私の足を支えてね」
「僕の足もね」
「うん」
彼女は満足げにうなずくと、いきなり全速力で駆け出した。
思いもかけない全力疾走に僕はポカンとなる。
青いスカートをはためかせながら、彼女は目一杯駆けていた。
そして少し離れた場所まで行くと、振り返って満面の笑みで叫んだ。
「じゃあ、またね! ナイト様!」
「けほっ」
恥ずかしいセリフに、僕は思わずむせた。
彼女はそれだけを言い残し、その姿が見えなくなるまで駆けていった。
僕はただただそれを黙って見送るしかなかった。
またねなんて、初めて言われた。
ナイト様なんて、初めて言われた。
けれどもその言葉が妙に嬉しくて、心が弾んで、僕は駆けていって見えなくなった彼女につぶやいた。
「またね、お姫様」
耳をつんざく蝉の大合唱が、その時だけは僕を祝福してくれているように感じた。
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