先生、ずっとずっと好きでした

「たーくん?」

 と街中で声をかけられた時、僕は目を疑った。


 そこにいたのは15年も前に通っていた幼稚園の先生だったからだ。

 長い黒髪に、茶色いダッフルコート。手には菊の花束を持っている。


「せ、先生?」


 思わず喉を鳴らす。

 小ぶりな唇、くりくりっとした瞳、太い眉。

 外出スタイルではあるものの、僕の記憶の中の先生がそこにいた。


 きれいで優しくて面白くて。

 僕の大好きだった先生。

 僕の初恋の先生。


 結城ゆうきさとみ先生は、15年経った今でも美しかった。


「やだ、久しぶり! 元気?」

「は、はい」


 先生は嬉しそうに笑うと、そそそと近づいてきて自分の手で僕の身長と見比べた。


「わっ、全然違ーう! 何センチあるの?」

「ひ、178……」

「がーん! 20センチも高いー」


 そう言いながら、成長した僕を恨めしそうに眺めた。


「それに、こんなにカッコよくなっちゃって。モデルさんみたい」

「ど、どうも……」


 はにかみながら応える。

 カッコいいと言ってくれたのが嬉しかった。

 僕のことを覚えてくれてたのが嬉しかった。

 卒園して15年。

 とうに40近いだろうに、先生の美しさはさらに磨きがかかっていた。


「今、何してるの?」


 先生に聞かれて僕は答えた。


「大学行ってる。今、その帰り」

「そっか。たーくんもう大学生なのね。早いなあ」

「先生は?」

「まだ幼稚園の先生続けてるよ。たーくんみたいな子がたくさんいて可愛いわ」


 その“たーくん”という呼び名はやめてほしい、僕の名前は高俊たかとしなのに。と思ったけれど口には出さなかった。


「そっか。よかったですね」


 他に言いようがあるだろうに、それしか言えない自分が歯がゆい。

 でも先生は「うふふ、ありがと」と笑ってくれた。


「その花は……?」

「ああ、これ?」


 手に持っている菊の花束を指差すと、先生はちょっと寂しそうな顔をした。


「亡くなった主人のよ。今日、月命日だから」

「あ……」


 僕は聞いてはならないことを聞いてしまったと思い、口に手を当てる。

 すると先生はすぐに微笑んだ。


「そんなに気にしないで。もう10年以上も前のことなんだから」

「そ、そう……」


 そう言ってくれたものの、僕は動揺が隠せなかった。

 まさか先生が結婚していたなんて。

 しかもその相手が10年以上前に亡くなっていたなんて。

 まったく知らなかった。


 でも思えば先生が結婚していないはずはなかった。

 こんなにもきれいで美しいんだから。

 まわりに先生のような女性がいたら、男はほっとかないだろう。

 誰だって恋人にしたいはずだ。


 現に、今の僕だって……。


「じゃあね、たーくん」


 先生の言葉にハッと我にかえった。

 先生は手を振りながら行こうとしている。

 それを見て僕は思わず「先生」と呼びとめてしまった。


「なに?」


 振り返りながら優しく微笑む先生。

 ああ、やっぱり。

 やっぱり素敵だ。


「僕も、行っていいですか?」


 その言葉に先生はきょとんとした。

 その表情がまた可愛い。


「え、あ、いや、その……。先生のご主人なら挨拶したほうがいいかなって……。ダメならいいですけど……」


 しどろもどろに言う僕に、先生はパアッと顔を輝かせた。


「ええ、いいわ! ぜひ来てちょうだい。主人も喜ぶと思うから」


 そう言ってグイっと僕の腕を引っ張る。

 その強引さにドキドキしながらも、僕は早くも不安にかられた。


 僕が一緒に行っても大丈夫だろうか。

 僕が一緒に行っても問題ないだろうか。


 世間一般的に、愛する妻が他の男と一緒にいたら、絶対怒るだろう。

 僕だったらキレるかもしれない。


 そんな僕の思いを知ってか知らずか、先生は嬉しそうに笑いながら言った。


「うふふ。主人の墓参りに誰かを連れて行くのなんて、初めて」


 自分で言っておいてなんだけど、僕はそれを聞いてご主人に呪い殺されるかもしれないと思った。




 先生に連れていってもらった所は、そこから歩いて10分くらいのところにある小さなお寺の墓所だった。

 静かで手入れがよく行き届いているきれいな場所だ。

 わきにあるイチョウの木がとても鮮やかできれいだった。


 先生はそこでご主人の墓をきれいに掃除して、花立てに菊をお供えし線香に火を灯すとゆっくりと手を合わせた。

 僕も見よう見まねで手を合わせる。

 見たことも会ったこともない、先生の旦那さん。

 どんな人だったかなんてわからない。

 けれども、真剣に手を合わせてお参りする先生の後ろ姿を眺めていると、今でも深く愛しているんだなというのが痛いほど伝わった。


 やっぱり、来るべきじゃなかった。

 僕には場違いなところだった。


 そう思っていると、先生はふと顔を上げて静かにお墓に語りかけた。


「あなた。今日は珍しいお客さんを連れてきたわ。誰だと思う? たーくんよ」

「せ、先生?」


 先生はゆっくりと僕に振り返るとニッコリと微笑んだ。


「うふふ、主人はね、実はあなたのこと知ってるの」

「は?」

「といっても、面識はなかったけどね。私が教えただけ」


 その言葉にギョッとする。

 先生は僕の事を旦那さんに話してた?

 僕、何かしたっけ?


 頭をフル回転させながら思い出そうとしていると、先生はクスクスと笑いだした。


「知らないのも無理ないわ。私が一方的に話しただけだもの」

「……なんの話?」

「たーくん、幼稚園で私がみんなに『将来何になりたいですか?』って聞いたの、覚えてる?」


 覚えてるような、覚えてないような……。

 第一、その手の質問は小学校でも中学校でもどこでもされている。幼稚園の頃になんて答えたかなんて覚えてない。


「うふふ、あの時ね、たーくんはこう答えたのよ。『大きくなったら先生の旦那さんになる!』って」


 ……は?


「『だから先生、僕が大きくなったら結婚してください』って言ったの」


 ち、ちょっと待て。

 言ったのか?

 マジでそんなことを言ったのか?


「その当時、私たちはまだ結婚してなかったけれど、私の初めてのプロポーズの相手がたーくんだったわ」

「………」


 ヤバい。

 恥ずかしすぎて先生の顔をまともに見ることができない。

 何をやらかしてるんだ、自分。


 僕は両手で顔を覆いながらその場に立ち尽くした。


「冗談のつもりでその話をしたら、あの人急にそわそわし出しちゃってね。そしていきなり『結婚してくれ』って即プロポーズ。ふふ、おかしいわね。まだ幼稚園児だったあなたにライバル心を燃やしたみたい」


 僕も僕で幼稚だったが、旦那さんもけっこうアレだったんだな。

 先生のことになると一生懸命になるというか空回りするというか。


「だからね、私たちたーくんには感謝してる」

「え?」

「たーくんの言葉がなかったら、あの人、ずっと言わなかったと思うの。奥手だったし。あの人が交通事故で亡くなる前に一緒になれて、本当によかった。短い間だったけど、本当に幸せだった」


 僕は複雑な思いでそれを聞いていた。

 先生は今でも死別した旦那さんのことを愛している。妻であったことに幸せを感じている。


 ちくしょう。

 こんなんじゃ……。

 こんなんじゃ、僕の入り込む余地なんてないじゃないか。


「先生」


 僕はそっとつぶやくように声をかけた。


「先生は……その……もう結婚しようとは思わないんですか? 恋をしようとは思わないんですか?」

「そうね。たぶん、しないでしょうね。私の心はあの人でいっぱいだから。そもそも、相手もいないし」

「僕じゃダメですか?」


 言ってから「しまった」と思った。

 いきなり何を言ってるんだ、僕は。

 たった今、入り込む余地なんてないと悟ったばかりじゃないか。


 けれども、後悔先に立たず。

 先生は一瞬目を大きく見開いたあと、優しく微笑んだ。


「ふふ、たーくん、そんな冗談言うようになったんだね」


 先生のきれいな瞳に見つめられながらそう言われて、僕はもう「どうにでもなれ」と思った。


「本気です! 本気で好きなんです! ずっと……ずっと好きでした」

「困ったわ、主人の墓の前なのに」

「……あ」


 思わず冷静になる。

 そうだ、確かにここはご主人の墓前だ。

 そんな場所で、何を言ってるんだ僕は。


「ふふ、でも嬉しい」


 先生はそう言って僕の手をそっと握ってきた。

 先生の手は外気温でひんやりと冷たかった。

 でも柔らかくてすべすべしていて、とても懐かしかった。

 ああ、この手だ。

 この手で僕の頭をなでなでしてくれたんだ。


 先生は僕の手を握ったまま、お墓に視線をうつした。


「どう、あなた? 私もまだまだモテるでしょう?」


 それには激しく同意だった。

 僕はいまだに先生にトキメキを感じている。


「たーくん」


 先生は僕の顔を見つめながら言った。

 いつになく真剣な表情に、ドキドキする。


「あなたにはあなたの人生があり、価値観があるわ。そこをとやかく言うつもりはない。けれど、あなたはまだまだ若い。私なんかより、ずっとふさわしい相手がきっと見つかるはずよ」


 僕もそれを信じて生きてきた。

 中学にあがったら、高校生になったら、きっと好きになる子が現れると。

 けれども僕はいまだに先生以上の子に巡り合ったことがない。


「僕じゃ……ダメですか……?」


 震える声で尋ねる。

 先生の答えは、いわゆるNOだ。

 あなたにはもっとふさわしい子がいる。

 相手を傷つけず、やんわりと断るド定番の答えだ。

 実際言われてみると、ものすごく傷つくが。


 先生は落ち込んだ僕の姿を見て、そっと顔を寄せた。


「ごめんね、たーくん。でも、ありがと」


 そう言って僕の頬に優しく口づけをしてくれた。

 それがなんだかすごく嬉しくて。

 すごく切なくて。


 僕は思わず先生を胸の中に引き寄せた。

 そしてギュッと抱きしめる。

 ダッフルコートの隙間から、先生の甘い香りが漂った。


 そこには、幼稚園の頃の先生ではなく、“一人の女性”がいた。

 僕の愛する一人の女性が、そこにいた。


「先生、愛してます」


 僕は先生を抱きしめながらそう言った。


「僕には先生しかいないんです。先生以上の女性ひとなんて、いない。だから先生、僕と結婚してください」


 その瞬間、僕はかつての記憶がよみがえった。


『たーくんは大きくなったら何になりたい?』


 先生は確かに僕にこれを聞いた。

 そして僕はこう答えた。


『大きくなったら、先生の旦那さんになる!』

『私の? どうして?』

『だって先生と結婚したら、ずーっと一緒にいられるもん!』

『うふふ、そうね。ずーっと一緒にいられるね』

『だから先生、僕が大きくなったら結婚してください』


 その時、先生はなんて答えたか。

 そうだ、覚えてる。

 すべてを思い出した。


 先生はあの時、こう言ったんだ。


『うん。たーくんとだったら、結婚してもいいよ』と。


「先生、あの時の約束、果たしてください」


 僕の言葉に、先生は腕の中でクスクスと笑った。


「やっぱり覚えてた」

「思い出したんです。さっき」

「参ったな、もう」


 先生はスッと身体を離すと、今度は頬ではなく僕の唇にキスをした。

 とろけるような、濃厚な大人のキス。

 僕の初めてのキス……。


「絶対、忘れると思ったのに」


 先生は顔を離すとそう言った。


「思い出せてよかったです」

「今のキスでなかったことに出来ない?」

「出来ないですよ、そんなの」


 僕はそう言って、先生に顔を近づけた。


「もう一度、キスするまでは」


 そう言って、今度は僕が先生の唇を奪った。

 ぷるんとした柔らかな唇は、想像以上に僕の心を刺激した。


 旦那さんの墓前だというのに、大胆な行動をしている自分がいる。

 呪い殺されるかもしれないという思いはどこかへ飛んでいた。


 耳まで真っ赤に染めた先生が目を瞑ったのに気付き、僕もそっと目を瞑る。



 秋の風が、優しく僕らを包み込んだ。

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