見知らぬ女性から今日一日恋人になってほしいと頼まれた件
「あの……、ちょっとよろしいでしょうか?」
そう声をかけられたのは、木の葉が色づき始めた10月の終わりだった。
何気なく朝の公園を散歩していると、ふいに見知らぬ女性から呼び止められた。
20代後半くらいだろうか。
肩までかかるセミロングの黒髪に、小ぶりな顔。
白いロングスカートとブラウンのカーディガンを羽織った綺麗な人だった。
一瞬、「僕のことか?」と思い、辺りをうかがう。
しかし日曜日の早朝にこの公園を散歩している人は誰もおらず、必然的に僕に声をかけているのだとわかった。
それでも、その女性の透き通った肌と輝くような瞳が眩しくて、聞かずにはいられなかった。
「……僕に聞いてます?」
「はい。あなたです」
どうやら間違いないようだ。僕に声をかけている。
「なんですか?」
「え、と……。変なことを伺いますけど、このあと何か予定とか入ってらっしゃいますか?」
「予定? いや、別に……」
幸い、といってもいいのかどうなのか。今日はなんの予定も入ってない。
いや、そもそも彼女いない歴30年=実年齢の僕に日曜日の予定が埋まってるなんてことはほとんどない。
今だって単純に毎日のデスクワークで偏りがちな運動不足を解消しようと歩いていただけであって、この後の事はなんにも考えてなかった。
僕の言葉に安心したのか、彼女はさらに問いかけてきた。
「あの。
「なんですか?」
尋ねながらも「これはまずい」と思った。
日曜日の早朝に休日の予定も入ってない冴えない男にするお願いなんて、きっとろくな内容ではない。
おそらく表立って宣伝できないような怪しげな商品を売ろうとしてるか、もしくは胡散臭い宗教か何かの勧誘だろう。
僕はいつでも断れる体勢をとりながら、彼女の言葉を待った。
彼女はしどろもどろになりながら「あの、その」を繰り返している。
なんだろう、よほど怪しげな商品なのだろうか。
切り出すのを非常にためらっている。
と、意を決したのか彼女は身を乗り出して僕に言ってきた。
「あの! 今日一日、私の恋人になってくれませんか!?」
…………は?
聞き間違いだろうか。
恋人になってくれ、と言ったのか?
「も、もう一度お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい。できれば今日一日、あなたに私の恋人になっていただきたいんです!」
うん、間違いない。
恋人になってほしいと言われている。
不躾なお願いどころか意味不明だ。
これはあれか?
男でいうところの「へーい、彼女ー。オレと付き合わなーい?」ってやつか?
だいぶニュアンスは違うが……。
あまりにもわけがわからず、しばらく固まっていると彼女はさらにしどろもどろになりながら言ってきた。
「こここ、困りますよね!? 変ですよね!? いきなり知らない女から今日一日恋人になってほしいなんて言われても! ごめんなさい!」
顔を真っ赤に染めながら、恥ずかしそうに前髪をかき分ける目の前の女性。
ぶっちゃけちょっと可愛い。
「何か訳ありなんですか?」
そう尋ねると、彼女は「はい、そうなんです」と頷いた。
「実はですね、私来週お見合いがありまして……」
「はあ」
「親同士の決めた縁談話なんですけど……」
「はあ」
「どうやら写真だけで先方が私のことを気に入ったらしくて……」
「はあ」
「それで親も乗り気になってしまって……」
「はあ」
「このままだと私の意志関係なしで決まりそうなんです」
「はあ」
はあ、しか言えない。
そんな知らない家庭の事情を聞かされても他に答えようがない。
「それで私、ウソを言ったんです。もう私には結婚前提で付き合っている人がいるって。だからお見合いなんてできませんって。でも、家族は誰も信じてくれなくて……。まあ、ずっと家族の監視のもとで育ってきたので当たり前と言えば当たり前なんですけど」
「なるほど、そこで僕を恋人役にしてご両親を諦めさせようっていうわけですね」
「……ダメ、でしょうか?」
ダメなわけはない。
仮とはいえ、僕に初めて彼女ができるんだ。
……ダメなわけない。
ちょっと理由は悲しいが。
でも、僕でいいのだろうか。
結婚前提で付き合っている恋人が僕のような冴えない男だったら、ものすごく怪しまれそうな気がするんだけど。
「あの、聞いてもいいですか?」
「はい、なんでしょう」
「僕で大丈夫ですか? その……なんていうか、見た通り僕あまりパッとしてませんし、冴えないし、オシャレでもないし。逆に疑われそうなんですけど……」
「そんなことありません! あなただから声をかけたんです! まあ、他に誰もいなかったっていうのもありますけど……それを抜きにしてもあなたは素敵です。地味な感じがすごくいいです!」
褒められてるのか、けなされてるのかわからない。
まあ、僕でいいなら断る理由もない。
「わかりました、僕でよろしければ恋人役つとめさせていただきます」
「わああ、ありがとうございます! ありがとうございます! ありがとうございます!」
彼女は何度も何度も頭を下げてお礼を言ってくれた。
こんなにも喜んでくれるのなら、別に悪い気はしない。
「本当に嬉しいです」
目に涙を浮かべながら微笑む彼女の姿に、不覚にもドキッとしてしまった。
※
とりあえずその場はお互い家に帰ることにして、またあとで別の場所で落ち合うこととなった。
なにせ、僕はただ散歩に出ただけなのだ。
財布も持ってないし、トレーナー&ジャージというちょっとそこまでスタイルだ。とてもデートに行くような格好ではない。まあ、普段の外出もこんな感じだけれども。
とにもかくにも、僕はいったん帰って着替えることにした。
とはいえ、人生初デート。
何を着て行けばいいかわからない。
ひとまずクローゼットの奥にあったパーカーとデニムのパンツを取り出す。
鏡の前で着替えると、パッとしない僕の姿がほんの少しパッとした。
……うん、まあこんなもんだ。
頭の寝グセはクシでとかし(というか寝グセがついていたのを鏡を見て知った)財布を持って待ち合わせ場所の駅前に向かった。
駅前に着くとすでに彼女が待ち合わせ場所にいた。
駅前のロータリーでポツンとひとりたたずんでいる。
遠目から見てもかなりの美人だった。
きれいな黒髪がキラキラと太陽を反射させて眩しく光っている。
今からあの人が一日だけとはいえ恋人になるのだ。
そう思うだけで僕は浮足だった。
「お、お待たせしました……」
ぎこちなく挨拶をすると、彼女は「あっ」と声を弾ませてタタタタッと駆け寄ってきた。
「もう、おそーい! ずーっと待ってたんだから!」
そう言って、腕を絡ませてくる。
「ふおおおおおおおおっ!!!!??」
思わず変な声をあげてしまった。
ちょ、マジ?
いきなり難易度の高い絡み方をしてきたんですけど!?
思わず腕を離そうとするも、彼女はガッチリつかんで離さない。
なにこの人、めっちゃ力強え!
そして離さないどころか、顔を近づけて耳元でささやいてきた。
「ごめんなさい、驚かせて。でもやっぱりデートに出かけると言ったら家族がものすごく怪しんでまして。尾行してきてるんです」
「え、どこ!?」
「見ないでください。すぐ横のビルの影から様子をうかがってます」
デートに尾行……想像以上にすごい家族だな。
ていうか、尾行バレとるやんけ。
「おそらく集音マイクも使ってるはずです。小声でならいいんですけど普通の会話は聞こえてしまいます」
「し、集音マイク?」
どこのスパイ映画だよ。
それもう普通じゃないぞ。
「ですので、なるべく自然に恋人として接してくださると嬉しいです」
「自然にっていわれても……」
「すいません、私もデートなんて初めてなのでどういう感じに接していいかわからなくて……」
どうやら本気で困っているようだ。
だからいきなりこんな絡み方をしてきたのか。
今にも泣き出しそうな顔をする彼女の姿に僕はたまらなくなり、絡みついてきた彼女の腕をしっかり抱き寄せた。
「ご、ごめんよ、ハニー。ち、ちょっと髪型が決まらなくてさ」
はっはっは、と引きつった笑い声をあげる。
すると彼女は一瞬きょとんとするも、すぐにプッと吹き出して笑った。
「も、もうダーリンたら! どんな髪型でもいいっていつも言ってるじゃない」
「そ、そうだったね、ハニー。はっはっは」
「そうよダーリン、うふふふ」
……なんだ、この茶番。
しかもセリフが棒読みだ。
でも仕方ない。
とりあえず今日はこれで乗り切るしかない。
それよりも、僕はこの時点で重大なことに気が付いた。
「あの……」
小声で彼女に話しかける。
「はい?」
「……名前」
「え?」
「名前、教えてください」
「あ、申し遅れました。私は
「ク、クーちゃん? クーちゃんって呼ばれてるんですか?」
「い、いえ、一度も……。ちょっと言ってみただけです」
てへ、と照れたように笑う彼女。
か、可愛いじゃないか、コンチクショー!
「じ、じゃあ、クーちゃんって呼ばせてもらいますね」
「はい、ありがとうございます。それであなたは?」
「あ、僕は
……一度も言われたことないけど。
「ハル……。おかしいですね。私が秋の名前であなたが春の名前だなんて」
「はは、そうですね」
「じゃあ、ハル。今日は一日お願いします」
「こちらこそ、クーちゃん」
こうして僕らは腕を組みながら偽りのデートを開始した。
最初に行ったのは駅近くの喫茶店だった。
お互いに朝食をとってないということで立ち寄ったのだ。
「ここのブレックファストセットがおいしいって評判なんだって、ハル」
「へえ、そうなんだー。楽しみだねー、クーちゃん」
思いっ切り棒読みのセリフのまま、店内に入る。
「いらっしゃいませ」
すると、すぐに爽やかな店員がやってきた。
「二名様ですか?」
お一人ですか? と言われない優越感に浸りつつ、二人ですと告げる。
店員に窓際の席に案内され、椅子に座った僕らはすぐにメニュー表で顔を隠した。
「……どう? ついてきてます?」
メニューで顔を隠しながら尋ねると、彼女も顔を隠しながらヒソヒソとささやいた。
「はい、ついてきてます。ほら、今入った人。あれ、兄です」
チラリと横目で見ると、なるほど。
長いトレンチコートとテンガロンハットをかぶった怪しげな男が来店している。
僕が言うのもなんだけど、どこからどう見ても不審者だ。
男は店員に一言二言声をかけて、僕らのテーブルの2つ隣に座った。
僕らが気づいてないとでも思ってるのだろうか。
しかし、紅葉さんはそれを逆手にとって行動してるわけだし、気づいてることを悟られてはいけない。
僕にとっては生まれて初めてのデートなのに、それとは別の妙な緊張感が漂っていた。
「はあ。私、もうお腹ぺっこぺこ」
紅葉さんは、ここぞとばかりに口調を恋人バージョンへと切り替えた。
ていうか、上手いなこの人。
「僕もだよ。お腹ペコペコだー。クーちゃん何食べる?」
「んー、迷うなあ。ねえ、ハルが選んで。私、ハルと一緒のだったらなんでもいい」
きたー!!!!
難易度の高い注文きたー!!!!
それはデート慣れしてる人に使う言葉であって、断じて僕ではない。
……断じて僕ではない。
どうしよう、めっちゃ悩む。
こういう時、気の利いた男は何を頼むんだろう。
んー、と悩みつつ僕はメニュー表を見つめながら、気になるものを見つけた。
『激辛ビビンバチャーハンハンバーガーセット』
なんだ、これは。
ビビンバにチャーハンにハンバーガーの異色な組み合わせ。
しかもサイドメニューには味噌汁がついている。
見事に和洋中が勢揃いしている逸品だ。
これはいいかもしれない。
ところが、僕がじーっとそのメニューを見つめていることに気が付いたのか、彼女はすぐさま店員を呼んで「ブレックファストセット2つ」と注文してしまった。
「あ、あれ?」
きょとんとする僕に、紅葉さんはおかしそうにクスクス笑った。
「今、変なの頼もうとしてたでしょ」
「変なの?」
「これ。目がすごかったもの。食い入るように見つめてたから」
「あれ? 変だった? ご、ごめん……」
「こっちこそごめんね。勝手に決めちゃって」
そう言って身を乗り出し、ヒソヒソと小声で伝えてくる。
「でも私、辛いの苦手なんです」
「あ、そうだったんですか。すいません、気が付かなくて……」
グッと近づいてきた彼女の顔を真正面から見て、僕はちょっと腰が引けてしまった。
こうして近くから見ると、やっぱりめちゃくちゃ綺麗な人だった。
長い睫(まつげ)に大きな瞳。
透き通るような白い肌とプルンとした赤い唇。
本当に同じ人間かと思える容姿に、心臓が高鳴る。
僕がジッと見つめていることに気づいたのか、彼女も頬を紅潮させた。
そして何事もなかったかのように「ここに睫(まつげ)がついてる」と言ってそっと僕の頬に手を差し伸べて顔を離した。
んんん~、これは危険だ。
僕の心臓、持つだろうか。
「お待たせしました」
そう言って差し出されたブレックファストセットの味はよくわからなかった。
次に向かった先は映画館だった。
これなら会話もなく時間が稼げる。
カラオケという手もあったが、きっと隣の部屋で聴診器を当てられて聞き耳をたてられてしまうだろうということで却下された。
そんな盗聴されてる中で歌いたくはない、ということだそうだ。
まあ、それ以前に歌が苦手とも言っていたが。
僕も音痴だし、それには賛成だった。
ということで、時間が稼げる映画に決まったというわけなんだけど。
そこでまた悩んでしまった。
すぐに観られそうなのが、ひたすら動物の映像を流すアニマル系か、チンピラがドンパチやる極道もののどちらかしかなかったのだ。
大丈夫だろうか、この映画館。
「えーと。クーちゃん、どっち観る?」
「アニマル系」
「やっぱり血肉踊るアクションが観たいよね」
「アニマル系」
「銃でバンバン。血しぶきが画面いっぱいに広がって……」
「アニマル系」
「きっと迫力満点で面白いと思うよ」
「アニマル系」
「……うん、アニマル系にしよう」
そういうことになった。
チケットを買って椅子に座って待っていると、やっぱりトレンチコートの男がついてきた。
キョロキョロと辺りを伺っている。
そして僕らの存在を確認するとスタスタと斜め前に座った。
にしても、本気で気づいてないと思っているのだろうか。
ここまであからさまに不審な行動をとってたら気づけと言ってるようなものだ。
気づかないフリをするのが逆に難しい。
それでも男は僕らが気づいてるということに気づいてないのか、座席の隙間から集音マイクを向けていた。
いやいやいや、ここでそれ使います?
案の定、映画が始まる前の予告が始まった瞬間、男は「ぎゃっ」と小さく悲鳴を上げて集音マイクを取り下げた。映画館の音量、でかいんだから無理しなさんな。
結局、僕らは何の気兼ねもすることなく純粋に映画を楽しんだ。
映画は100%の出来で、モフモフの動物たちの自然な姿が画面いっぱいに映しだされていた。
可愛いだけの映画かと思ったら、子育てや一人立ちの困難さ、食料の確保や死別などの過酷さも丁寧に描かれていて、とても泣ける映像に仕上がっていた。
エンドロールではそこらじゅうですすり泣く声が聞こえてきていた。
「ううう、よかったよおおぉ。熊さんが……熊さんが……」
紅葉さんもそう言って、ハンカチで目を拭きながら泣いていた。
僕も「うん、熊さん立派だったね」と言いつつ少し目頭が熱い。
気になるトレンチ男にいたっては、「うおおおおおん」と大号泣していた。
……もはや笑うしかない。
映画を観終わった僕らは、そのままいろんな場所を練り歩いた。
衣料品店、文具店、雑貨店、本屋さん、ゲームセンターなどなど。
そのどれもにトレンチ男がついてきて、僕は逆に騙しながら恋人役を演じることが楽しくなっていた。
それはどうやら紅葉さんも同様らしく徐々に接し方が可愛らしくそして大胆になっていた。
「ねえねえ、ハルー。この下着、どうかなー?」
「うん、クーちゃんにすっごく似合うと思う。でもこの前見せてくれたような黒っぽい下着も好きだな」
「んもう、ハルのエッチー」
そんなやりとりを恥ずかしげもなく繰り返す。
その度にチラリと振り向くと、トレンチ男は気まずそうに「ゴホン」と咳払いをしてそっぽを向くのがとても可笑しかった。
そうこうするうちに、あっという間に夕方になってしまった。
楽しいと時間があっという間に過ぎるって本当だったんだな。
途中、楽しすぎて時間の感覚を忘れていた。
寂しいけれど仕方ない。
僕は彼女と今朝会った公園に向かうと、噴水前のベンチに腰かけた。
当然、トレンチ男もついてきており、物陰から集音マイクを向けていた。
この人も一日大変だったろうな。
「今日はありがとね、ハル」
紅葉さんが僕に笑顔を向けながらお礼を言った。
夕日がキラキラと彼女の顔を輝かせている。
「こちらこそ、クーちゃん」
「とっても楽しかった」
その“楽しかった”はクーちゃんとしてなのか、それとも紅葉さんとしてなのか。
両方の意味を込めて僕も「うん、楽しかった」と伝えた。
「それでね、ハル。最後にお願いがあるんだけど」
「うん、なに?」
「別れのキス……してくれる?」
ぶほっ。
思わず声に出してむせるところだった。
な、な、な、何を言い出すんだ、突然。
あたふたしてると、紅葉さんはそっとささやく声で言った。
「だって、結婚前提で付き合ってる人と別れのキスがないなんて、怪しまれそうじゃない」
そ、そうかなあ?
大抵の人は別れのキスなんてしないと思うけどなあ。
「ダメ?」
「いや、ダメじゃないけど……」
僕でよろしければ喜んで。
と言いたい所だけれど、さすがにキスはまずいだろうと思った。
なんせ、僕らは偽物のカップルなのだ。キスまで行ってしまっては偽物じゃなくなる。
すると彼女はガッカリした表情で言ってきた。
「ごめんね、キスまでなんて、図々しいよね」
「い、いやいやいや! 全然、全然!」
「あのね、本当のこと言うとね、さっきのは建て前なの。本当はね、私がして欲しいの、キス」
「私がって……紅葉さんが?」
「……うん」
顔を赤らめて頷く紅葉さんに、僕の心臓がドクンと跳ね上がる。
「私ね。途中からすっごく楽しくなっちゃったの。本当にハルが恋人だったらいいなーって。でも、今日一日という約束だったから……。だから最後の記念に、欲しいの。紅葉として」
バクンバクンと自分の心臓が脈打つのがわかった。
集音マイクに拾われるのではないか、と思えるほど大きい。
「ぼ、僕もね、途中からすっごく楽しかった。ハルとしてではなく、清春として」
「ほんと?」
「うん。このまま恋人になれたらいいなーって……そう思った」
「うふふ、嬉しい」
「ほ、本当にいいの……?」
「うん」
そう言いながら、紅葉さんは顔を上げ、そっと目を閉じた。
その名前の通り、紅葉さんの頬が真っ赤な色に染まっていく。
僕はそっと顔を近づけると、少しためらいながらも赤く染まった紅葉さんの唇に自分の唇を重ねた。
僕の初めてのデート、そして初めてのキスは、ちょっぴり切なかった。
紅葉さんは「ありがとう」と言って口元を抑えると、涙を浮かべながら足早に去って行ってしまった。
その後ろを、トレンチ男が「げほん、げほん」とむせながら追いかけていく。
僕はそんな彼女の後ろ姿を見送ると空を見上げた。
夕暮れの空が、ちょっと涙でにじんだ。
※
後日。
僕はいつものように仕事に向かう途中の電車の中で新聞を広げて絶句した。
なんと、あの紅葉さんの顔写真が新聞に掲載されていたのだ。
そこには『西園寺グループ総裁の孫娘、突然の破談』という見出しがついている。
西園寺グループ?
総裁の孫娘?
一瞬、何が書いてあるのかわからなかった。
西園寺グループってあれか?
日本企業の多くを傘下に持つ、あの超大金持ち財閥のことか?
いや、間違いない。
この写真の顔は間違いなく彼女だ。
ということは、1日疑似デートした相手って、あの西園寺グループの……血筋?
僕は全身の力が抜けていくのが感じられた。
なんてことだ。
まさか国内有数の超大金持ちの娘とデートしてたなんて。
確かに思い当たる節はあった。
家族の監視、望まない結婚話、さらにはデートの尾行。
とても一般家庭ではありえないような内容ばかりだった。それもこれも、彼女自身が特別な人間だったからなのか。
僕は電車の座席シートにもたれかかりながら「マジか」と頭の中でつぶやいた。
いや、それよりもだ。
破談ってことは彼女の画策がうまくいったということだ。
それはそれで喜ばしい。
あれほど必死になっていた彼女の姿を思うと余計に嬉しく思った。
破談させたのがグループにとってよかったのかどうかはあるけれど、それでも僕はなんだか清々しい気持ちになった。
やがて、電車は会社近くの駅に到着した。
多くの乗客が降りていく。
僕も新聞を折りたたんで脇にさすと、ビジネスバックを持って電車を降りた。
そこでピキッと固まった。
目の前に、彼女がいた。
疑似デートをしたあの紅葉さんが、目の前に立っていた。
前とは違う、白くてふわふわしたセーターを着込んでいる。
そして両脇には以前いなかったいかつい男たちがいる。
新聞を見たからだろうか、まるで住む世界が違う人種のように映った。
降車していく乗客たちもギョッとなりながら、怪訝そうな顔を向けて去っていく。
そして、電車が出発すると、駅構内には僕と彼女といかつい男だけが残った。
「く……紅葉さん?」
「前みたいにクーちゃんとおっしゃってください」
「ク、クーちゃん?」
「ハル、会いたかった……!」
そう言って、人目もはばからず抱きついてきた。
なんだ。
何が起こってるんだ?
困惑する僕の耳に、彼女は優しく語りかけてきた。
「一言あなたにお礼を言いたくて、ずいぶん探しました。ここが勤めてる会社の最寄駅だと知って、待ってたんです」
「待ってた? 僕を?」
「はい。お見合いは無事なくなりました。本当にありがとうございます。あなたのおかげです」
「い、いや、僕は別にたいしたことは……」
してない、と言おうとしてはたと止まった。
「あ、あの……このボディーガードみたいな二人……。この人たちは知ってるんですか? 僕らの関係」
「ああ、そのことについてもお知らせしようと思って来たんです」
「……?」
「実はですね、家族があなたとの仲を認めてくださったんです」
「へ……?」
「どうも兄が父と母を熱心に説得したようでして……。あんなにラブラブなんだから早いとこ結婚させてやれって。デート監視中、こっちの身がもたなかったって」
クスクス笑う紅葉さんの言葉にポカンとなる。
「ちょ、それって……」
僕は慌てて身体を引き離すと、マジマジと彼女の顔を見た。
あの時と同じく、ほんのり顔が赤い。
「はい。あなたとの婚姻が正式に決まりました」
「ぶほおおおっ!」
おいおいおいおい。ちょっと待て。
何を言ってるんだ。
僕はただ、彼女が一日恋人になってほしいと頼まれたから付き合っただけで、それがなんで婚姻に結びつくんだ。
いや、嬉しいけども。
めっちゃ嬉しいけども。
「ダメ……でしょうか?」
あの時と同じく上目づかいで聞いてくる紅葉さん。
ああ、もう。
これ、絶対確信犯だろう。
「ぜ、ぜんぜん。僕でよろしければ、ぜんぜん。ていうか、もう、なにがなんだかさっぱりで……」
混乱する僕に彼女は「嬉しい!」と言って再度抱きついてくる。
放心している僕の目に、秋のさわやかな空が映った。
澄んだきれいな青空。
そこに二枚の真っ赤な
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