六、祈り
静まり返った夜のとある住宅街。暖色の外灯に照らされた玄関の片袖のガラス窓に、小さな雨蛙が張りついている。「細井」と書かれた表札が見える。家の前にはそれほど深くはないが林が広がっていた。これはまだ、夜子が八歳のときのことだ。
十六帖のリビングに突然、重たい音が響く。ブラウン管テレビが木製のボードからずり落ちた。
ガンガンガン、とさらに音が鳴り響く。そして、ブラウン管が割れる音が鳴る。無言の重たい空気の中に人が三人いる。離れたところにいる一人が唸るように言った。
「ごめん」
表情もなく、気配も息づかいも閉ざしたような声が出された。そばには台所から持ってきた鉄瓶がガラス片に混ざって転がっていた。
壊れたテレビの前の、この男の名は細井祐二。夜子の父親だ。
夜子の父はアルコール依存症だった。医師にそう診断されていた。他の全員もそういう認識だった。でも夜子と母は違っていた。
無残に壊されたブラウン管テレビに、二人は今日の分の惨禍を味わった。父のその様子をただ黙って見ていることしかできなかった。母の方は涙目だ。
このとき夜子はまだ小学校二年生で、九九よりも早く「押し殺す」ということを覚えていた。
以来、中学校に上がり陰湿ないじめを受けても、自分の維持に支障をきたすほどのストレスをどんなに受けても、
私はここにいる
そう言って発現可能実数を跳ね返し続けてきた。
光も色も消えたような父の表情に、夜子は思った。
何もできない
とある精神科病院の入院病棟。四床室の窓際のベッドのそばに夜子はいた。
「お父さん」
今日は父の面会にやってきた。ちょうど手元に林檎が一個だけあった。傷ついているけれど、それでも父は嬉しそうだ。
「学校は終わったのか」
「うん」
入院治療を受けている。病室の隅には盛り塩が置かれていた。この部屋だけ何か空気が違う、と夜子はこのとき思った。
何かがおかしい
そう思うようになったのはいつ頃からだろう。違和感のようなものは感じることもあったけれど、ずっと「気のせい」とか「まあいいや」で掻き消してきた。
どうしてとらわれるようになったのかは今の夜子にはわからない。もしかしたら、昔の穏やかだった頃の父が変わり果ててしまったことに対する抵抗なのかもしれない。
いつか戻ってほしいと願う仲のいい家族。何でも話せる家族。夜子は祈った。
どうか、お父さんお母さんがいつまでも無事でいてくれますように
病室を出ると夜子は廊下で点滴をぶら下げて歩く、おそらく自分より年下と思われる少女に出くわし、思わず道を譲った。
振り向きもせず無関心な表情で通り過ぎて行く少女に、夜子は先ほどの祈りを少しだけ取り消してしまいそうになった。
祈りなんてものにその余裕も発想も感じられないそんな少女の表情に、自分の世界は狭いんだと、少しだけ感じた。
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