第3話「鼓動の加速」

 非常にまずいことになった。

 というのも、授業後、いつも通り部活仲間から一緒に帰る提案をされたのだが、約束を守るために拒否した。委員会以外でその提案を断ったことはないので、委員会の仕事がまだ残ってると嘘をつきなんとか奇妙には思われずにすんだのだが。


「まじなのかな……」


 誰もいない体育館裏で僕はつぶやく。夕方の冬風は肌との相性が最悪で、震えが止まらない。

 授業後ほどなくして茅野は僕のクラスまできてくれたのだが、クラスの用事がまだ少しあるらしく、体育館裏で待っててほしいと言われた。

「寒いのにごめんね」と労わるように言われてしまえば僕だって頷くしかない。


 僕のクラス、というより一年生のクラスのうち半分は軽音部。もう半分は吹奏楽部が使用することとなっており、あそこで話をすることはできないのだから、移動を余儀なくされることは当然だ。


 だからといってこの場所を選ぶのかとも思う。

 この場所は通学路からは少し離れてるし、人通りも少ないので告白するにはもってこいだ。実際すでに交際を始めたやつらの中にもこの場所で告白したという例は多々ある。自然と、僕の心音のボリュームが上がっていくのを感じる。体育館内で練習しているバレー部の活気ある声よりも、僕の心音のほうがうるさいんじゃないだろうか。


「あ、八代君! ごめんね、寒かったよね」


 風通りの悪いところで寒さをしのいでいた僕の後ろから、そんな柔らかな声が聞こえる。

 振り返り、声の主を確認し、僕は硬直した。一度も染めたことないのであろうその黒髪が凍える風に靡き流れ、それを抑える細長い指は、それこそ雪と遜色ないほどに綺麗だ。

 その指が少し震えているというのに、彼女の表情だけはその様子をみせない。その姿は先ほど僕を労わった様子と同じように、僕のためであるというのはひしひしと感じられた。


「い、いや。そんなに待ってないから大丈夫!」


 上ずった声で僕はそう言う。健斗と話したせいか、どうしても意識をしてしまうのだが、悟られてないだろうか。頬の色が、冬の雪景色に似つかわしくない程に紅潮しているのを感じ取り、慌てて顔を隠す。

 僕だけが、意識している恥ずかしい奴なんじゃないか。そう思えたらいいのに、変な期待をしなくてもいいのに。


「そう? よかった」


 どうしてだろう、彼女も同じ仕草をしている。ありえないと思いながらも、期待してしまう。


「雪も少し降ってるのにこんな寒いところで待たせちゃってごめんね」


「いやいや、部活の外周とかで慣れてるから! 安心して」


「そう……」


 沈黙が続く。白い息だけが、真冬の空に浮かび上がり、やがて消える。茅野はどちらかといえばお喋りなのに、今日に限って静かだ。時間がたてばたつほど気持ちだけが昂る。


「クラスの仕事は?」


「終わらせてきたよ。途中からは、友達がやってくれたけど」


「そっか」


「……」


「……」


 会話が続かない。何か別のことでも、


「部活は?」


「あるけど、ちょっと準備時間抜け出してきて……」


「そっか、なら急いだほうがいいかな?」


「――――」


 言って気づく。本来用があるのは茅野なのに、何を考えて勝手に催促するような発言をしてしまったのか。三秒前の自分をこれほど殴りたいと思ったことはない。


「そう、そうだよね。急がないと迷惑になるよね……」


「いや、僕は全く迷惑なんて思ってないから! 茅野のタイミングで話して!」


「うん……」


 不味い雰囲気だ。完全に失言した。部員に対しての言葉なのに、僕は問題ないとかお門違いにもほどがある。

 僕は後悔の念でいっぱいになる。もし本当に告白なら。僕はそのチャンスを無碍にしてしまってるのではないだろうか。


 彼女の方を見る。

 憂う瞳は後悔に包まれているようで、僕の心臓がなにかにぎゅっと掴まれるのを感じとった。


「あのさ!」


「は、はい!」


 不意に、本当に僕は反射のように発言してしまう。脳に十分な考える暇なんて与えられず、無意識のままだ。

 驚く表情の茅野だが、僕は気づかない。いや、正確には気づけない。僕だって何が起きてるのかわからないのだから。言葉は続く。僕の意識だけを置き去りにして。


「好き、なんだけど」


「……え」


「……ぁ」


 やってしまった。

 発言して、酸素が脳に巡って、彼女の表情を見て、我に返る。


「え、え?」


「い、いや、その、さ」


 しどろもどろに、声が裏返る。見惚れてしまったのか。そうだとしても、考えなしすぎる。直球ドストレートだ。どう思われているのだろうか。気持ち悪いと思われているのではないか。


「……本当に?」


 つぶやくように、茅野の声がかすれる。瞳は揺れ、震える姿は寒さによるものか、それとも――

 観念して、僕は正直に話す。


「……本当じゃなかったらこんなこと言わないよ。そりゃ信用ないとは思うけど」


「いや、違うの! びっくりしただけで……違うの。そうじゃなくて」


「うん……」


 僕の焦りが伝わったのか茅野も慌てた様子だ。告白したからか、そんな仕草も愛おしく見える。恋は盲目というがその通りなのだろう。寒さも火照りも感じられなくなり、彼女を主軸としてすべてが流れる。あんなに聞こえていたバレー部の声も、今は聞こえない。

 僕の視線を気にしていない様子で、顔を隠すようにしていた茅野は一度呼吸をおき、何か決心したように僕の目を正面からとらえた。


「嬉しいからなの。同じ気持ちだったんだって知れて」


「え」


「ああ、いろいろ考えてたんだけどな……うん。私ね、八代君を早くから知れてよかった。委員会で八代君と同じ班になって、いっぱい失敗して迷惑かけたでしょ?」


「いや、そんなことは」


「あるの」


 否定に入ろうとする僕を、茅野が真っ向から否定する。


「なのに八代君は嫌な顔しないで、むしろ助けてくれて、仕事も積極的で、文化祭のバンドも見に来てくれて、褒めてくれて、いつも笑顔を見せてくれて、そんな小さなことがとっても嬉しかったの。今日、あなたを呼んだのは、このためなんだよ」


 言葉が続く。意味は理解できている。言ってる言葉はわかる。なのに、意識だけが空の上で浮かんでいるように、呼吸も、反応もできない。聴覚以外の全てをどこかに落としたらしい。そんな僕に彼女は、


「今日言おうって決めたの。好きです。八代康幸君。私と付き合ってください」


「え」


 雪模様の雲空から、夕日が一瞬だけ顔を出し、僕らを照らす。


 好きです。その言葉で何かが弾けた。落としたものすべてが戻ってくる。茅野しか見えなかった視界が開き、肌に刺さる冬風を感じる。バレー部の声が、心なしか昂ってるように聞こえた。


「え、うそ。え、本当に?」


「本当じゃなかったらこんなこと言わないよ。八代君だって言ってるじゃん」


 まっすぐな視線をそらし、指先で茅野は髪をいじる。


「気づいてよ。結構、アプローチはしたつもりなんだよ?」


「え、そんなときあったの?」


「あったよ。だけど無反応で、今日だって告白されるとは思ってなかったんだから。緊張して、フラれるかもって怖かったんだから。」


 頬は僕と同じくらい、ひょっとすると僕以上に赤くなっている。本当なんだ、とは直感で分かった。からかわれてるとは思えない。エスパーになったわけではないけど、どうしてかそう思った。だから、


「……ごめん。先に言って。なんか、口から勝手に出ちゃった感じなんだけど。本気だよ。健斗に言われてから、やっぱりそうなんだって自覚して。委員会で頑張ってたり、バンドで楽しそうな姿を見たりして綺麗だなって思ったよ。茅野の力にもなりたいって思った。きっと、茅野よりももっともっと前に、ひょっとすると一目ぼれだったかも知れないくらい、ずっと前から好きだったよ」


 時間差で羞恥に顔が赤らむ。駅前のポストといい勝負をするだろう。恥ずかしさを紛らわすように、頬をかく。


「なんか、恥ずかしいこと言ってるかな」


「うん。だけど、私だって同じくらい恥ずかしいこと言ってるよ」


 そう言われて、笑みを交換する。恥ずかしいのに、それ以上に嬉しい。こうして茅野と笑いあうことが、特別なものに思えてくる。


 そうして、ひとしきり笑って、


「八代君、答えは?」


 茅野が、そう言う。


「何が?」


「告白のだよ。私はもちろんよろしくお願いします、だよ。八代君も返事を返してよ。けっこう恥ずかしいんだから」


 風が、吹いた気がした。冷たい寒風じゃなく、冬に似つかわしくない、春のような暖かな風が。

 顔を赤らめる茅野は、もう一度僕の目を見つめてくる。


 ああ、こういう気持ちなのか。


 僕は実感する。

 この感情を、どう名付ければいいのかは分からない。花にたとえるなら桜で、色にたとえるなら橙色だと思う。けれど、肝心の言葉は、どうやら僕の語彙力では形容しがたいみたいで。

 大袈裟に聞こえるかもしれないが、本当なのだ。この恋は、たぶん自発的なものじゃなく受動的なもので、ひょっとすると批判されちゃうような、そんな恋なのかもしれないけれど、確かにここに生まれたのだ。


 僕の初恋は、彼女のためになりたいという感情から生まれた、ちっぽけだけどダイヤモンドよりも硬い感情。

 その感情を大事にして、僕はこう言う。


「僕のほうこそ、よろしくお願いします」


 僕に、彼女ができた。

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