第二章 1

 病院は嫌いだ。なるべく行きたくないが、毎月通院することを義務付けられていてうんざりだ。だいたい、待ち時間が長すぎる。なのに診察時間は短いなんて、そもそも受診する必要はあるのだろうか。少なくともぼくにとっては全く要らない。カウンセリングと称してはいるが実際のところただの聞き取りと、発声の確認をするだけ。全く効果なし。こんなことが約四年も続けば、どんなに強靭な精神力を持っていたとしても、気が滅入ってしまうことこの上ない。今後確実に声を取り戻せるという確証があるのならば比較的耐えられるだろうが、そんなものはもちろんない。ゴールのないマラソンを延々と走らされているようなものだ。


 そんな全く意味のない発声の確認が終わり、精神科の先生と対面で座る。


「先生、いつになったら声が出るようになるんでしょうか」


 母さんが言う。少しの沈黙の後、先生が言いづらそうな様子で口を開く。


「わかりません。ある日突然声が出るようになる方もいれば、しばらく出ない方もいます」

「しばらくって、もう四年になるんですよ! なのに、一向に良くならないなんて……」

「焦らず、じっくりと治療していきましょう。大丈夫です。きっと声が出るようになります」

「……はい」


 母さんのか細くなった声。できることなら、声が戻って母さんを喜ばせてあげたい。でも戻ってくるのことはないだろう。自己満足の為の代償なのだから。ぼくはぼく自身の感情を吐き出すために、決して許されないことをした。それを知らない母さんには本当に申し訳ないと思う。先生の言う言葉は全て気休めで、何の根拠もない嘘だ。そんな言葉やそれにすがるしかない母さんの悲痛な返答なんて聞きたくない。罪悪感で押しつぶされそうだ。嫌だ。早くここから出たい。毎回うんざりだ。


「とにかく日頃の鍛錬が必要です。普段の生活で発声練習は続けてください。何か心配事があったら、いつでも言ってください」

「わかりました。先生、次はいつ伺えば——あっくん。先に遥ちゃんのところに戻ってなさい」


 母さんの方を向いて、頷いて席を立つ。どうやら次回の予定を決める話の前に、ぼくを解放してくれるようだ。ありがたい。ついでに次回の予定も決めず、この病院通いからも解放してくれないだろうか。


 愛用のショルダーバッグを肩にかけ、扉の前で一度お辞儀をしてから診察室を後にする。そのまま待合室に戻ると、長椅子に座った遥が足を交互に揺らしながら、暇そうに天井を見つめていた。その隣には沙紀のお見舞い用の花束。近づく途中、遥はぼくに気付いて立ち上がった。


「おかえりー。どうだった?」

ただいま。悪いな、待たせて。どうも何も、いつも通りだよ。

「全然良いんだよー。いつも大変だね」

仕方ないさ。声を取り戻すためには、ね。そのためにも頑張らないと。


 心にもないことを、ぼくはよく言えたものだ。この呪いが解けるなんて、少しも思っていないくせに。


「ふーん……声が戻るためには仕方ないんだねー。ま、戻らなくてもそんなに困ることは無さそうだし、ゆっくりまったりいこうよ! それに、今に慣れちゃってるし!」


 遥は満面の笑みを浮かべる。


 本当にこいつは……。ぼくの気持ちに気付いてか気付かずかはわからないけど、緩くそんなことを言う。胸のつかえが取れる、とはまさに今感じているこの気持ちのことを言うんだろう。先程までの嫌な気持ちが嘘みたいだ。遥のその持ち前の明るさがぼくを救ってくれた。本当にありがたい。これからちゃんと返していかないとな。この決意は間違っても口にしないように気をつけよう。遥のことだから、即物的な要求されそうだし。


 自然と感情が表情に出ていたのだろう。遥は首をかしげる。


「どしたの?」

いや、なんでもないよ。気にしないで。

「えー、なになに気になるじゃん! 言ってよー!」

言わない。

「えー! ケチ! 悪魔! すっとこどっこいのこんこんちき!」


 ん? すっとこどっこいのこんこんちき?


……最後のってなんだ?

「言わない」


 遥が意地悪く笑みを浮かべる。気にはなるけどあまり良さそうな意味じゃないし、別にいいか。


じゃあこれでおあいこ、ということで。

「えー、気になるでしょ? 教えるから、あっくんも教えてよー!」

ああもう、うっさい! 気にするなって!

「ぶー」


 遥は思いっきり頬を膨らませて、少しいじけた。いつの間にか診察室から出てきていた母さんが、診察室の時に見せた顔とは別人のように明るくクスクスと笑い出す。きっと無理をして笑っているんだろう。ぼくや遥を心配させないようにするために。


「あなたたち、本当に仲が良いのねぇ」

「おばさん! いつからそこにいたのー!?」

「ケチ! 悪魔! すっとこどっこいのこんこんちき! くらいからかな」


 途端に遥の顔が赤くなる。


「聞いてたなら言ってよー! 全くもう!」

「ふふふ。ごめんごめん。でも遥ちゃん、『すっとこどっこいのこんこんちき』なんてよく知ってたわね」

「前見た時代劇で言ってたんだー。意味はママに聞いた!」


 遥は母さんに向かってピースサイン。どうやら母さんも意味を知っているみたいだ。今夜聞こう。


「遥ちゃんは賢いわねー。あっくんも負けずに、ちゃあんと勉強しないとね?」


 若干、母さんの視線が怖い。こりゃ次のテストは絶対に良い得点を取らないとやばそうだ……。


わかりました……。と、とりあえず診察は終わったから、沙紀の病室に向かおう!


 手話で半ば強引に話題を変えて、足早に歩き始める。


 エレベータに乗って、五階で降りた。エレベータ待ちのちょっとした人だかりができていたので、避けて脇の通路に入ると、ナースステーションが見えた。


「すみません。伏見沙紀さんのお見舞いに伺ったのですが」


 母さんがナースステーションの看護師さんに話しかける。差し出された用紙になにやら書いている。おそらくお見舞いの受付か何かだろう。


「伏見さんですね——501号室ですので、このまま直進してください」


 看護師さんの案内に従って、引き続き通路を歩く。504、503、502——あった、ここだ! 501と書かれたプレートの下には、「伏見沙紀」と書かれている。


「母さんはここで待ってるからね」

ありがとう。ちょっと待ってて。

「おばさん、ありがと!」


 遥と顔を見合わせて頷いた後、引き戸をノックしてから入る。


 ベッドから起き上がり、窓の外に目を向ける沙紀。途端に心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。いつか見た光景だ。汗が止まらない。この先に待つ展開がなんとなくわかってしまう。


「沙紀ちゃん!」


 遥も違和感を感じたのか、沙紀のベッドの端へ駆け寄った。その勢いで抱きつくも、沙紀は全く反応を見せない。遥の後ろに移動して、沙紀の様子を伺う。沙紀はぼくたちが傍にいることに気付いていないようだ。一心に外を見つめるその瞳は虚ろで、一筋の光も宿していない。心ここに在らず、という言葉を聞いたことがあるけど、この言葉はまさに今の彼女の状態を指すのではないだろうか。


 遥はそれでも諦めず、声をかけながら彼女の肩を揺らす。何度かそれをすると、沙紀は顔をゆっくりと遥に向け、


「遥……?」


 ようやく反応を示した。


「沙紀ちゃん! 良かったー! 学校で入院したって聞いて、びっくりしたよー! 怪我はないの? 一体なにがあったの?」


 矢継ぎ早に話す遥を落ち着かせる。


「あ、ごめん」


 ショルダーバッグから筆記ボードとペンを取り出し、書き始める。


無事でよかった。何があったのか教えてくれないか?


 沙紀は記憶を探るように視線を落とす。遥が何か言いたそうにうずうずしているが、流石に空気を読んで我慢しているようだ。


 しばらくの沈黙が流れた後、沙紀はおもむろに口を開き始めた。


「あの日は、学校が終わってから塾に行って……その後塾の友達としばらく話してから、帰った」


 沙紀の声が震え始める。


「でも帰る途中、男の人に話しかけられて。気付いたら遥ちゃんたちがここにいて、私はベッドの上――ああ! わからない! わからないよぉ……」


 泣き出す沙紀を、遥が再び抱きしめる。


 絶句した。やっぱりか。あの時と――遥が川に落とされた時と、まるで同じじゃないか。なぜこうも被るんだ。人ってそんな簡単に記憶を失うものなのか。なんだこの違和感は? 変だと直感で感じるのに、その原因がわからない。あー、もやもやする。


 とにかく考えを整理しよう。ぼくたちは帰る途中、男が少女を連れ去る現場に遭遇した。沙紀も男の人に声をかけられたと言っている。沙紀の家は確か、あの公園から近かったと思う。ともすれば、塾の帰りにあの公園を通っても不思議じゃない。やはり沙紀はぼくたちの見た少女で、あの黒ずくめの男に誘拐されたんだ。そこはほぼ確定だろう。だがどうしてもわからないことが一つ。なぜ沙紀は抵抗しなかったのか。昨日考えた可能性のように、沙紀は何か弱みを握られていたのか? いや、あの少女が沙紀である以上、それは考えにくい。沙紀はぼくが見た限りだと人一倍まじめで、誰とでも分け隔てなく接するやつだ。そんなお人好しが、実は人に言えない何かをしていました、なんてことはありえない。うーん。理由を聞こうにも、沙紀は記憶がないと言っているし。どうしようもないな……あぁもう! まったく。誘拐前の記憶は鮮明にあるのに、肝心なところだけ都合よく記憶がないなんて……ん? 待てよ。記憶がない? そんなピンポイントで記憶がなくなることってあるのか。もしかすると、記憶を消されたのかもしれない。犯人は自分の犯行が漏れることを恐れて、沙紀の記憶を消した。どうやって? 頭を強打させて? いや、見たところ沙紀にそんな怪我は見当たらないし、違う。じゃあ薬か。薬を飲ませて、犯行の記憶だけをピンポイントに消去させた——馬鹿馬鹿しい! それこそありえない! そんな薬があったら、世の中犯罪のオンパレードじゃないか。全く。訳が分からない。わからないことは考えても仕方ない。この件はとりあず保留にしておこう。


 どうやら考えている間に、沙紀は落ち着いたようだった。遥が沙紀を優しく見つめ、口を開く。


「記憶は無くなっちゃってるけど、沙紀ちゃんが私たちを忘れてなくて、本当に良かった。心配しないで。きっと大丈夫だよ! 私も一度記憶を無くしたことがあるけど、今はちゃんと戻ってるんだ。きっと沙紀ちゃんも時が経つにつれて思い出すよ!」

「うん……ありがと」


 遥の言葉に、沙紀は弱々しい笑顔を見せた。しかし記憶が戻ることは本当に良いことなのだろうか。誘拐されて、怖い思いをしたかもしれない。トラウマになるかもしれない。そんな記憶なんて、むしろ思い出さないほうが沙紀のためになるんじゃないか。


 遥がぼくの方を振り向いて、力強く頷いた。


 まったく、遥はすごいな。ぼくの考えてることもお見通し、ってわけか。どれ。彼女みたいに考えると、んー……こうか。苛められた記憶が戻った時、苦しんだ。けど、それがあるからこそ、今の遥がある。過去の嫌なことを乗り越えることで、人は強くなれる。だから記憶は取り戻さないといけないんだ――未だに過去から逃げ続けているぼくにとっては耳が痛くなる考え方だ。


「あ、そうだ! 沙紀ちゃん、花束持ってきたよ! 早く良くなって、また学校で遊ぼうね! ちょっと花瓶借りるよー!」


 思い出したかのように遥は花束を沙紀に見せた後、せかせかと花瓶に挿す準備を始める。壁にもたれ掛かってその様子を見ていると、不意に外から話し声が聞こえてきた。


「――お見舞いに――いてありがとうございます」

「いえいえそんな――無事で――です」


 どうやら沙紀の母親がどこかから戻って来たようだ。話が聞こえるところまで引き戸に近寄って、様子を伺う。


「沙紀ちゃんに何があったんですか?」

「それがあの子、よく覚えてないみたいなんです。その日あまりにも帰りが遅かったので、警察に電話しようかと思っていたら、ふらっと帰ってきまして。なんだかぼーっとしていたので病院に連れてきたら、記憶喪失だというんです。もうなにがなにやら……」

「そうですか……記憶は戻りそうなんですか?」

「先生が言うには、はっきりとはまだわからないそうです。それに、記憶喪失とはまた別に、もう一つあって……」

「もう一つ、ですか?」

「ええ。ここでいうのもあれなのですが——」


 どうやら声を潜めたようだ。だがどうにか聞こえる。


「暴行を受けた、みたいなんです」

「そんな……そんなことって……」


 よっぽどの衝撃だったらしい。そこからは声が聞こえなくなって、沙紀の母親のものと思えるすすり泣く声が聞こえた。


 暴行? 沙紀には暴行を受けたような痕跡なんて見当たらないぞ? 人目につかないようなところを殴られたのか?


 筆記ボードを綺麗に消して、書き直す。


沙紀。記憶喪失の他には身体に何も変化はないか?

「変化……」

そうだ。例えば暴力を受けて、身体にあざができたとか。

「暴力を、受け、て……?」


 沙紀は目を見開いて、頭を抱え始める。身体はわなわなと震えて、異常なくらい汗が吹き出していた。


「ああああああああ!!」


 突如沙紀は声にならない悲鳴をあげた。


「あああぁぁぁ! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!」

「ど、どうしたの!? 沙紀ちゃん落ち着いて!」


 ちょうど花瓶を机の上に置いた遥が駆け寄り、背中に優しく触れると、


「いや! 触らないで!」


 沙紀は力の限り遥を突き飛ばした。その衝撃で机にぶつかり、置いてあった花瓶が落ちで割れた。床に倒れ込んだ遥はそのまま放心している。


 「沙紀! どうしたの!?」


 沙紀の母親が驚いた様子で病室に駆け込んできた。母さんも動揺しつつ、入ってくる。沙紀の母親はすぐにベッドの横のナースコールを押した。看護師たちがすぐに駆けつけ沙紀を落ち着かせようとする姿を、ぼくたちはただ見守ることしかできなかった。

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