第二章 2
病院から帰ってくると、時間は既に正午を過ぎていた。ぼくたちはお昼ご飯を食べた後、一直線におじさんの家へ向かった。その間遥はいつもより口数が少なかった。病院での出来事がショックだったのだろう。
インターホンを鳴らすと、おじさんはいつものように快く出迎えてくれた。リビングへと案内してくれて、いつものようにお菓子を出してくれた。しかし普段と違いすぐに食べようとしない遥を見ておじさんは何かを察したようで、これまで見たことがないほどの真剣な表情になる。
「何かあったのかい?」
「おじさん、あのね。女の子が誘拐されたって言ったら、信じてくれる?」
「……詳しく聞くよ」
それからぼくたちは全てを話した。この前の夜、少女が男に誘拐されたこと。母さんや警官は全く信じてくれなかったこと。少女はクラスメートの伏見沙紀で、記憶喪失になっていること。全てを聞き終わると、おじさんは腕を組んで黙り込んだ。考えをまとめているようだ。
緊張する。果たしておじさんは信じてくれるだろうか。母さんやあの警官の時のように信じてもらえず、よく考えたねぇ、とか言って笑い飛ばされるんじゃないか。はたまた、嘘をつくなと叱られるんじゃないか。最悪の場合、もう二度と来るなとか言われて追い出されるんじゃないだろうか。心臓が握られているような感覚が気持ち悪い。
遥を見る。いつもの明るさはなく、無表情におじさんを見つめている。
「ありがとう、二人とも。ぼくに話してくれて。もちろん信じるさ」
おじさんの優しい言葉と表情に、身体から一気に緊張が抜けた。ため息をついた後筆記する。
おじさんが信じてくれて良かった。ただどうしても分からないところがあるんだけど、力を貸してくれない?
「分からないこと?」
三つあるんだけど、まず一つ。沙紀は何故男に抵抗しなかったのか。
おじさんはしばらく考え込んだ後、
「ごめん。僕にもわからない。それは誘拐されたその子本人しかわからないことじゃないかな。あっくん達には抵抗していないように見えたかもしれないけど、本人は必死にしていたかもしれないし。それにこの場合、抵抗云々の理由は必要ないと思う」
必要がない?
「そう。事実として、その女の子は誘拐されて、被害を受けている。警察が動くには十分じゃないかな」
なるほど。言われてみればそうだ。さすがはおじさんだ。続けて筆記する。
二つ目。沙紀は肝心なところだけ記憶喪失だった。犯人が消したんじゃないかと思っている。でもその方法がわからない。
「あっくん。それはいくらなんでも考えすぎだよ。人が自由に記憶を操作することなんて、できるわけないじゃないか。ショックで混乱しているだけだと思うよ」
確かにそれはそうなのだが。やはりおかしな考えなのだろうか。どうも頭の隅に引っかかって不快だ。でもおじさんがこれまでにない真剣な顔で言うのだから、ぼくの予想は的外れなんだろう。おじさんの考えに頷いてから、最後の疑問点を筆記する。
三つ目。沙紀の母親が話しているのが聞こえたんだけど、暴力を受けたらしい。でも沙紀にはそのあざや打撲のようなものはなかった。
「ああ、それは――」
「ちょっとまって。何その話。記憶喪失だけじゃなくて、何か暴力を受けてたの?」
そうみたいだ。ごめん、病室の一件でショックを受けているかと思って、なかなか言い出せなかった。
「あ、うん……気を遣ってくれたんだね。ありがと。記憶喪失に加えて暴力か。あの男、許せない……!」
遥は拳を強く握り、怒りをあらわにする。
「――話を戻すよ。あっくんは『暴力』と聞いて、殴る蹴るといったことをイメージしたんだね」
頷く。
「たぶんね、この場合での意味はもっと違うものだと思うよ。あっくんが思った『暴力』よりももっと酷い」
おじさんは険しい表情になって沈黙する。
もっと酷い意味? どういうことだ。殴る蹴るでも十分酷いと思うが、それよりも上があるのか。改めて沙紀の例で考えてみよう。暴力とは、相手に危害を加えるもの。これは変わらないはずだ。でも沙紀には痛がる様子はなかったし、見える範囲であざとかもなかった。うーん?
じゃあ沙紀の言動から考えるとどうだ。記憶がない、と言って泣いた。その後急に震え出し、パニックになった。遥が沙紀に触れた時、拒絶反応を示した……触れられることを嫌がる理由があった? ちょっと待てよ。そもそもパニックになったのは、ぼくが質問した直後だった。そう、暴力という言葉を言った後だ。そうしたら沙紀は悲鳴をあげて、気持ち悪いと連呼した。暴力。気持ち悪い。触るな……まさか。まさかまさかまさかまさか! そんなことがあっていいのか。
「気付いたみたいだね。恐らく、今あっくんが至った結論で間違い無いと思うよ」
そんなの、あんまりじゃないか。沙紀はまだ小学生だぞ。本当に、気持ち悪い。
「私全然わかんないや」
「あっくんは小学生とは思えないほど考えがしっかりしてるからね。わからないのが普通だよ」
「私だけ除け者じゃん。教えてよ」
勘弁してくれ。こんなこと、伝えられない。伝えたくない。
「遥ちゃん。本当の意味を理解すれば、大きなショックを受けるかもしれない。それでも聞く覚悟はあるかい?」
おいおい、待て。おじさん、だめだ。
「うん、あるよ」
やめろ! 遥には――
「レイプだよ」
なんで遥に伝えたんだ! そんなこと知ってしまったら、また遥は自分を責めてしまう! おじさんだってわかってるはずだ! なんで……! くそ、声が出ないことが本当に忌々しい!
遥を見る。愕然とした表情だったが、すぐに俯き見えなくなった。俯く瞬間に見えたあの目……あれはあの時と同じだ。記憶が戻って、全てを信用できなくなっていた時と。
筆記ボードに書き殴る。
なんで遥に話したんだ!
「遥ちゃんは聞く覚悟があると言った。だから言っただけだよ」
筆記ボードに続けて書く。しかし書き終わるよりも前におじさんが立ち上がり、テーブルに両手をついてぼくたちに迫ってきた。
「それにね。僕は君たちが心配なんだ。心配で心配でたまらないんだよ。もしこのまま調査を続けるとか言い出したら……その結果君たちに被害が出たら、って思うんだよ!」
おじさんは苦しそうに言葉を紡ぐ。おじさんはそこまでぼくたちのことを心配して……。
「分かるだろう。犯人はすごく危険な人物だ。だから、一つだけ約束してくれないかな。僕が警察に通報して、必ず動いてもらえるようにする。だから君たちはこれでお終い。こんな僕を友達と言って遊びにきてくれる、いつもの君たちに戻ってくれ」
これまで黙っていた遥が顔を上げる。一瞬悔しそうな表情が見えたような気がしたが、おじさんに顔を向けた時にはいつもの遥だった。
「私はただ信じてくれて、ちゃんと警察が動いてくれたら良い。今回は沙紀ちゃん戻ってきたけど、戻らず誘拐されたまま、ということもあるかもしれない。そうならないように、今後二度とこんなことが起きないように。私たちの集めた情報が、犯人を捕まえる役に立ってくれたら、それだけでいい」
「あっくんも、いいかい?」
おじさんは遥を想って、あえて本当の意味を伝えた。きっとおじさんも伝えることは嫌だっただろうに。ただそれでも納得できないところはあるが、遥が良いと言うならぼくが拒否する理由もない。遥を危険から遠ざけられることには間違いないし。
はっきりと、頷いた。するとおじさんは糸が切れたように椅子にへたり込み、大きくため息をついた。
「良かった……。犯人を捕まえるんだー、とか言い出したら、どうしようかと思ったよ」
「おじさん。私たちが犯人を捕まえるなんて、できるわけないじゃん! やっぱりおじさんはおじさんだねー!」
遥はいつの間にか普段のような意地悪い表情に戻っていた。切り替え早いな。いつものことだけど。
「ど、どういう意味だよ! 僕は君たちを心配してだね――」
「その言い方がもうおじさん臭い」
ド直球だな……まぁ確かにさっきのは本当のおじさんぽかったけど……。
「ああもう! わかった! 僕はおじさんですよ!」
いや、認めていいのか……?
そのままおじさんは話を戻して続ける。
「――ま、安心してよ。僕がしっかり警察に届け出るからさ。だから君たちはこれでお終い。いいね?」
「わかった!」
頷く。………………。なんだ、今胸がちくりと痛んだような……気のせいか? 気のせいだな。
「でも、問題は情報がまだ少ないんだよな。例えば、犯人はどんな感じの人だった?」
筆記ボードを取り出して、そこに人物像を書いていく。黒い服。帽子……っと。こんな感じか。遥とおじさんに見せる。
「なっははははははは! あっくん、絵、下手すぎ! ひひひひひ! あーもう、おなか痛い!」
うるさい! そんなに笑うことないじゃないか……。だいたい、笑い方が気持ち悪いぞ……。あとそんなじたばたするな!
「うーん、これは……ぷっ! くく……これじゃちょっとわからないかなぁ……くくく」
おじさんまで……二人とも、酷すぎないか……。あぁ、顔が熱い。こんなことなら描かなければ良かった……。
ひとしきり笑われた後、おじさんは「どれ」と言ってリビングから退室した。ほどなくして、スケッチブックと色鉛筆を持って戻ってきた。
「今度は僕が書くよ。その男の特徴を教えてくれないかい?」
悔しかったので、特徴はこれだと伝えるつもりで、もう一回筆記ボードを見せた。また思いっきり笑われたけど、気になんてしない。しない……。
「――ひひひひ! ひー。もう、あっくん面白すぎ! それでえっと、犯人の特徴はーっと……」
遥は思い出そうと吹き抜け方を仰ぐ。
「黒いロングコートに、黒い帽子。帽子は普通のキャップね。髪は帽子から出てなかったかなぁ。顔は全然わからなかった」
おじさんは遥の言葉を受けて、すらすらと描いていく。
「身長はどうだい?」
「んー、どうだったかなぁ。たぶん、おじさんとおんなじくらいだと思う。離れてたから正確にはわかんない」
「僕がちょうど一七五だから、一七〇~一八〇くらいにしておこうか」
あ! と遥は声を上げる。
「そういえば、マスクと手袋をしてたよ! 真っ白いの!」
よくそんなところまで覚えているな……全然気付かなかった。
「ふむふむ……聞いた話をまとめると、こんな感じかな?」
おじさんは出来上がった犯人像をぼくたちに見せた。
「おじさん、上手すぎ! ……ひひ! あっくんの絵とは比べ物にならないよ。私たちが見た男、まさしくこんな感じだよー!」
ふん、悪かったな……はぁ。これは当分いじられるんだろうな……。でもおじさん、本当に絵がうまいな。
筆記ボードに描いた犯人の人物像を仕方なく消して、書く。
おじさん、絵も描けるんだね。
「あぁ、普段よく描いたりしているからね。まぁ描くといっても風景画が多いけどね」
それからぼくたちは、おじさんの描いた風景画を見せてもらうことにした。描き始めの頃は下手で——と言っても、ぼくの絵よりかは断然うまいと遥に言われたけど——回数を重ねるごとに上手くなっていく。密かに心に決めた。
今日から絵の練習しよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます