キューピッド(自称)始動!




 自分はどちらかというと表情豊かだし喜怒哀楽もはっきりしているほうだという認識が、西野彩香にはある。

 最近は怒ってばかりだけどっ、という自覚も確かにあった。

               

 が、この日の怒りは根が深かった。

 爆発こそしなかったものの、沸き立った陽炎のような怒りは放課後まで、さらには部活動終了後まで続いたのである。


 窓枠にぶつけてしまった手は軽い打撲とはいえ痛い。

 密かに楽しみにしていたロードワークは今日は無し(顧問がルートを決めかねているらしい)という通達は来るわ、とりあえずでアップ・ダウン用に選ばれたランニングコースである校舎外周は思いのほか建物による死角が多く、物陰から昨日の沖田ファンと思しき女子たちによる聞えよがしの陰口やら物騒な視線やらが飛んで来るわ……。


 テンションダウンとイライラアップで忙しいことと言ったらなかった。

 当然その後の専門技術練習で、フェンス向こうからの傍迷惑でしかない奇声にまたもや血管がブチ切れそうになったのは言うまでもなく。


 そのうえ――  

 足の速さだけは負けるもんか! 拳の仇だ! 周回遅れにしてやる!と息巻いて勝手に敵視していた早杉翔ヘンタイを、今日は珍しく終わりのランニング中とうとう最後まで追い抜くことができなかったのだ。

 これで怒らずにいられようか。


(くっ……なぜだ? あんなデカいだけの初心者に! チビとはいえその辺の男には足で負けることはないと思っていたのに!)


 いったん燃え上がった闘争心はなかなか消えてくれず、じゃあどう報復してくれようかとゴール地点でゼーハー息を切らせていると、  


『彩香ちゃん速いねえ。小さいのに凄いじゃーん。あ、そういえば手、大丈夫? 窓枠に見事なチョップかましてたもんねーぇ?』


 と、メラメラを沈静化させるどころか大量の油を持ってわざわざ大炎上させにやって来たのだ、ヤツは。

 あの軽薄な猫なで声とへらへらした笑顔で!


「っとにもおおおおおっ! はっら立つーーーーーーー!!」


 窓枠事件と数分前の屈辱がまざまざと蘇り、つい叩き壊しそうな勢いで用具保管室ドアを開け放っていた。


 ――と。

 中には、一瞬驚いて肩を揺らした男子生徒が一人。


「……びっくりした。西野か。壊れるって。何そんな怒ってんの」


 八畳ほどのスペースで膝をつき、片付けがてらハードルを整頓していたらしい沖田侑希がクスクス笑いながら立ち上がる。


「沖田くん……あ、ごめん」

「それで全部?」


 ついでに寄越せとばかりに伸びてきた手が、彩香のジャージの胸に抱え込まれたハードル二つを軽々と攫っていった。


「こんなの他のヤツに任せとけばいいのに。手、ケガしてるんだろ?」

「あ……でも、あとこれしか残ってなかったから」


 さり気なくいたわってくれながら片付け作業続行する背中に一瞬呆けかけるが、心の中で思わず謎のドヤ顔を変態の残像にかましてやりたくなった。

 見たか変態よ。これが紳士だ。


 競技種目を問わず、片付けは全員で協力してすることになっている。

 しかもケガといっても軽い打撲だし、その原因も何とも間抜けなものなので練習はもとより片付けさえ手を抜きたくはないのだ。心情的に。

 ……まあ、ただの意地ともいうが。 


 それにしてもこの王子ときたら……と彩香はそっと肩をすくめた。


 見目良いばかりではなく本当に優しいのだ、彼は。

 下心やわざとらしさの欠片も感じさせない、純粋な優しさや気遣いといったものが自然に備わっているのだろう。

 どう育ったらこんなスーパージェントルマンなイケメンができあがるのやら。


 ゆえに、そんな爽やか王子がなぜ……と思わずため息も深くなる。


「なんで沖田くん、あんな変態でチャラい女タラシと仲良いんだろう」

「え……っ。誰のこと?」


 並べ終えて立ち上がった侑希がまるで心当たりがないとばかりに振り返った。


「該当者なんて一人しかいないと思うけど。は、早杉……せ、のこと。……くっ」  

 

 ……なぜだろう。

 先輩呼びしただけでイライラアップ。 


 謎の敗北感に苛まれて唸る彩香に、くすりと笑って侑希が困ったように目を細めた。


「すごい言いようだね」

「え? まだまだ本音はこんなもんじゃないよ? 『ちょっとデカくて頭良くてカッコいいからっていい気になってんじゃねーぞ。女がみーんな自分に惚れると思ったら大間違いなんだよバーーーカっ!』って言ってやりたいくらい!」


 一息にぶちまけて満足気に鼻を鳴らしたところで、侑希がさらに目を丸くしていることに気付いた。


(し、しまった。もしかして言いすぎたか?)


 仲の良い友人を悪く言われたら確かに気を悪くするかもしれない。

 自分だって、もし柚葉のことで罵詈雑言を浴びせられたら「もっかい言ってみろやコラァー!」と掴み掛かるくらいはするだろう。


「あーえ……っと、ごめん。嫌……だった、よね? ちょっと言いすぎた……かも」

「あ、いや。翔のことそんなふうに言う子って今まで近くにいなかったから。びっくりした。西野はやっぱり面白いな」


(や、やっぱりって何だろう?)


「でも、ああ見えて軽くはないよ? 翔は」

「えっ!? それって全然説得力なくない? 何かっちゃあ女子にキャーキャー囲まれて嬉しそうに鼻の下伸ばしてるけど!?」


 おっと、でも群がられるのは目の前の爽やか王子もか。

 数でいうと変態の比じゃないし嫌味っぽく聞こえてしまったかな?とまたしても失言を悔いておそるおそる顔を窺うが、侑希のほうはまったく気にしている様子がない。


「確かに寄って来る女の子は多いんだろうけど、上手く躱してるんだろうね。いい加減に付き合ったり中途半端に遊んだりはしてないと思うよ」 


 そりゃあね。つか、それ当然でしょう。瑶子さんがいるんだから。

 けっ、少しも長所に思えんわ、とすかさず心の声が黒いツッコミをあげる。


「基本面倒くさがりだけど、根は真面目なんだよね翔って」 

「ふーん……よくわかり合っちゃってんだね、お互い」


 ふいに、十日前の校舎裏の告白現場ツーショットを思い出す。

 侑希からの告白の可能性だってあると指摘した彩香に、共に居合わせた翔がすかさず「それはない」と断言していたし、昨日の「陸上バカ」発言もある。

 幼少からの彼の周囲環境や性格、何らかの心情をよく知っていたからこそ、そこまできっぱりと言いきれたのだろう。


「伊達に十年近く幼馴染やってない、って?」


 グラウンドで聞いた翔の言葉そのままで、あえて訊ねてみる。


「だね。なんだかんだでよく気が合ったし、同い年の友達より翔と一緒にいることが多かったかな」


 楽しかった記憶でも蘇っているのか、顎に手を添え天井を仰ぐ表情にはわずかに笑みが浮かんでいた。


「――――」


 男同士の友情がどれほどのものかなんて知らない。

 二人が思いのほか気が合って、かなり仲が良いというのはわかった。

 けれど――。


 自分の顔が明らかに曇っていくのを彩香は感じていた。

 せめて見られないよう、とっさにうつむき唇を噛みしめる。


(けどそれって…………引越し後、だよね?)


 幼少期の侑希が一緒に楽しい時間を過ごした相手は先輩だけではないはずで。

 もっと……ずっと大切な思い出や約束を共有した相手がいたことを、彼は本当に忘れてしまっているのだろうか。


 固く唇を引き結んだまま、意を決して彩香は顔を上げる。


「沖田くん、今ってM市から通ってんだよね? その前はI市こっちに住んでたんでしょ?」

「え? うん。あれ? 話したことあったっけ?」

「あたしと――もI市なんだけどさ……」

「? うん」


(うっ……柚葉よ、本当に人違いじゃないのか? 初恋の「侑くん」は確かにか?)


 表情に何の変化もないばかりか、このキョトンとした反応……どう読むべきだろう……。

 いや、だがキューピッドとしては今度こそ糸口を掴まなければ、と挫けかけた決意を叱咤する。

    

「か、帰り、駅降りたらすぐバイバイなんだ。北口と南口に別れちゃうから。あ、が北ね」

「へえ。じゃ小学校は別か。二人ずいぶん仲良いからもっと昔からの関係かと思ってた」


(ほう、学区のことは知ってるんだ? ……って、食い付くポイントはそこじゃなく! ここまで来てもまだ柚葉の名前に反応無しかっ)


「お、沖田くんもさ、こっちで……えと引越し前に仲良くしてた子とか、い……いない、のかなぁ?……なんて」

「?」 

「連絡とったり……あ、会いたいなって思ったり、とかは……その」


 どうも口を開けば開くほど「人違い」説が濃厚になってくる感が否めない。  

 明らかに目は泳ぎ、身ぶり手振りまで総動員してのあわてふためきように、侑希がくすりと笑って顔を覗きこんでくる。


「どしたの? なんか変だよ西野」

「うっ……」


 やはり容姿に自信の欠片もない身としては、異性に不用意に近付かれたくない。特に爽やかさと煌めきの権化であるこんな相手には。

 無駄に近寄らないでくれえぇ!とばかりに一歩後退しながら気を取り直す。     


「いや……き、昨日……ほら、練習中に初恋のこと訊いたじゃん?(結局ヤツに邪魔されたけど)」

「うん?」

「もしかしたら、引越し前の沖田くんのこと知っ――」



「侑ーーーくーーーん、かっえりっましょーーーう」



 妙に間延びした声が、だがしっかりと節を付けて歌うように響いてきた。      

 お約束だがまたしても、まさかの邪魔者到来である。






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