わかっちゃいたけどモブ凄し(1)
その場で軽く弾んで深呼吸は二回。
目は閉じ、余計な雑念はすべて振り払う。
隣の第一グラウンドから野球部員たちの掛け声やら何やらは聞こえてくるが、大丈夫。集中はできている。
(トントントトトン)
バーを越えている自分をイメージしながら、彩香は踏切直前のリズムを幾度となく心中で唱えた。
開かれた眼前の景色。
見慣れた白いバーを目指してスタートを切る。
(今日こそ、もし跳べたら……)
トントントト――
「きゃああああああああああああっ!!」
(!?)
突然誰かの悲鳴によって乱されたステップ。
タイミングを逸して踏み切ることができずに、彩香の身体がズザーッとバーの下をくぐった。
「……………………」
「きゃああああ沖田先輩ー!」
「やーもーっカッコ良すぎ!!」
「頑張ってくださあぁぁぁいっ!」
力なくマットに突っ伏したままの頭上を、軽薄な黄色い悲鳴がひっきりなしに飛び交っていく。
腹の底から込み上げてくる怒りにふるふると拳が震えた。
早いもので、入学式からすでに十日あまりが経過していた私立藤川洸陵高校。
意外にも今年陸上部に入ってきた新入生はそれほど多くなかった。
いや、女子だけ見ると男子の六人に対して二十七人とじゅうぶん多いと言えば多いのだが、昨年の鬼畜戦法とそれにまつわる噂話がうまい具合に広がってくれたおかげか、顧問を含め陸上部全員の予想を遥かに下回ったのは確かだ。
やる気で入ってくる新入生ばかりのほうがこちらとしても助かる。
鬼畜呼ばわりされてまでわざわざ篩にかける必要がないなら、それに越したことはないのだ。
有望な新人が入ってきたらクビと言われていたハイジャン枠にも(喜んではいけないのだろうが)希望者はなく、彩香は個人的にもほっと胸を撫で下ろしていたのだった。
……とはいうものの。
これからバンバンこぼれ落ちるに違いない不純な動機の女子部員はまだ潜んでいそうだし(ハートになった目を見ればわかる)、今現在、部外――グラウンドの外――に別な大問題が発生していたりもするのだ。
再度鳴り響いた警報のような歓声に、幅跳びメンバーの足がもつれ、砲丸投げ選手が明後日の方角に球体を取り落としそうになっていた。
視界の端でそれら人災と呼んで差し支えない被害を捉え、どこかで何かがブチリと切れたのを自覚する。
つり上がる眉目。
わななく血管。
「うるっっっっっさいっっっっ!!」
猛ダッシュの末にガシャンと金網に張り付いて、彩香は騒音の発生源である少女たちに力いっぱい怒鳴りつけた。
未熟と言われればそれまでだが、某爽やか王子が何かする度に黄色い騒音でこうも何度も何度も何度も喚かれては、各々練習メニューをこなしている他の部員たちにも当然支障が出て迷惑この上ない。
ただ動いていればいいというわけではない。メンタル面での影響だって大きいんだぞわかってんのかゴラアァァァ!と教えてやりたいくらいだ。
「こっちは気が散ってしょうがないの! やめてくれる!?」
フェンス越しに噛みつかんばかりにがなり立てる彩香に、第二グラウンドを取り囲んで騒ぎ立てる
制服姿で鞄を抱え、あとは帰るだけのはずの騒音発生集団は、ほぼ全員がダークグリーンのリボンタイを着けた一年生だ。
クチコミ効果なのか、そのモブ規模は日増しに大きくなっている気がする。
今日は三十人強といったところか。
突然怒鳴りつけられ初めこそ驚いて静まっていたものの、自分たちを叱り飛ばしている相手が小柄な女子生徒ひとりだと判るや否や、モブたちはフンと勝ち誇ったように笑って口を開き始めた。
「え、なに? 感じ悪ぅー」
「自分のほうがよっぽど声デカイじゃんねえ?」
「ナニサマー?」
「ちょ、なんで一人だけハチマキしてんの? ウケるんだけど」
「気合い入りまくりなんじゃない?」
「え、二年の先輩? うっそ、ちっちゃくない!?」
「あーいうこと言っちゃう? あのサイズで」
おーおー可愛い顔して出るわ出るわ悪口が、と呆れ顔で聞き流そうとしたが……やはり無理だった。
低身長をつつかれて黙っていられる彩香ではない。
踵を返しかけた体を反転させ、
「ちょっと待て! 今何っつったー!? 背が関係あるかこらあぁぁぁあああぁ!」
「まあまあ、ホレ落ち着い……」
「つーか何だその先輩を先輩とも思わない態度はーーーーーーっ!?」
後ろから誰かに引き止められてるのに気付かずモブたちに食って掛かる彩香のジャージの襟首が、次の瞬間、くいっとつまみ上げられた。
「その口でよく言えたな」
呆れたように、だが妙に感心したように、遅れてきた早杉翔が見下ろして笑っていた。
辛うじて爪先は地に付いてはいるが、首の後ろをぷらーんとつままれたあの動物状態である。
「ちょ……っ、ネコじゃないんだけどっ!?」
「あーはいはい、腹へったかー。やかましくて図々しい外野は放っといて、ちゃんと練習したら餌だぞー」
「放してよ変態っ! 襟伸びるっっ」
真新しい陸部バッグを担いでちょうどグラウンドに入ってきた長身男子部員と、首根っこを掴まれたまま無駄な威嚇をしてる小動物にしか見えない小柄でにぎやかな女子。
妙なコンビの攻防をポカンと眺める後輩女子たちの前に、グラウンド内から新たな人影が近づいた。
「聞いたでしょ? 自覚がないみたいだから言うけど、邪魔になってるのは本当」
三年生マネージャー、篠原瑶子である。
肩下までの栗色のウェーブヘアを左で緩やかに束ね、首から提げたストップウォッチを片手に何らかの種目の計測をしていたらしい。
(うあー……
結局自分こそが騒ぎを大きくしてマネージャー仕事の邪魔をしてしまったのではないか、と彩香は密かに反省した。
「だからそんなに興味があるなら正式に入部しなさい。どうせすぐに出てってもらうことになると思うけど」
静かだがはっきりとした口調で淡々と告げ、瑶子はモブたちの端から端へ涼しげな視線を巡らせた。
どこかのキレ気味なチビッ子とは違って超絶美人に冷静に凄まれて、あっという間にその場は水を打ったように静まり返る。
全員目に見えて口を閉ざしたのを見届けたところで、瑶子は颯爽と踵を返した。
そして呆然とその勇姿を眺めていた、未だ長身に首根っこを掴まれたままの彩香へと向かってくる。
一転して人懐こい、キレイな笑顔で。
「ごめんね西野さん、みんなのために。でも一人で悪者にならなくていいのよ?」
「いっいえ、そ……そーいうワケでは! あ、あたしこそすみません!」
「ええ? なんで謝るかな?」
くすくすと笑いながら目を細める瑶子が綺麗すぎてヤバイ。
同性でありながらも思わず見とれてしまいそうになる。
「……びっくりしたあ。近くで見ると本当に美人だね、あの三年の先輩……。マネージャーさん?」
見目良い男女プラス一匹(襟首ぷらーんなまま)がフェンスから離れてグラウンド中央に向かい始めたところで、後方から発されたヒソヒソ話が彩香の地獄耳に届いた。無駄に声が大きいだけでなく耳もいいのである。
小声なうえにヤジでも黄色い歓声でもないので、とりあえず放っておいて聞き耳を立てることにする。
「ほら、今の背高い先輩と付き合ってるんでしょ?」
「えーーーうそ! ちょっとカッコいいと思ってたのに!」
「校内でもたまに一緒にいるの見かけるよ」
「いやー! うそおおお! でもお似合いー!」
「これはやっぱアレよ。沖田先輩一筋で行きなさいってコトなんだよ!」
「そ、そだねっ。うんっ」
横道に逸れたりせずやはり爽やか王子ひとりをロックオーンしようと、モブ同士さらに一致団結したようである。
恋する若い娘さんは元気だなー、変わり身早いというか適応力すごいなー、とすっかりジジババの境地で彩香はそっとため息をついた。
練習の邪魔をせず控えめにキャッキャウフフしててくれるだけなら、こちらだって何も怒鳴りこむようなことはしない。
いくら恋愛分野のはみ出し者とはいえ、ああいったパワーはむしろ微笑ましいとさえ思ってしまう。
まあ、中の一人が沖田侑希の特別な相手に――柚葉を差し置いて彼と相思相愛なんかに――なってしまわない限りにおいて、であるが。
(特別な相手、か)
笑顔のまま、並んで歩く翔と何やら言葉を交わしている瑶子をちろりと窺う。
中身が女の子好きーなアレじゃなければ、確かにお似合いな二人だ。
彩香やモブたちだけの勝手な思い込みではなく、おそらくはこのツーショットを見た誰もが同じ考えを抱くに違いない。
二分するか単純に倍になるかと思われた黄色い歓声が、これまでとほとんど変わらず沖田王子のみに注がれていたという状況も少しだけ意外といえば意外だったのだが、これを見れば納得がいくというものだ。
始業式の日、早杉翔が陸上部に来たあの初日も――――。
練習後のミーティングも終わり、片付けや帰り支度に向かう部員たちがパラパラとグラウンドを後にし始めていたなか。
『あ、そうだ。翔』
何かを思い出したらしい瑶子が、手を止めて長身の元へ歩み寄っていた。
『帰り、うちに寄れる? お母さんが何か渡したいものがあるって』
『ん。わぁーった』
『ついでに夕飯食べてけば?』
『んー……いつも甘えすぎだ、って親父に叱られんだよなー』
三年(しかも特進クラス生!)になってから入部してくるという物珍しさと長身と見てくれの良さに、ただでさえチラチラ部員たちの意識と興味が向けられていたところに、美人マネージャーに親しげに呼び捨てにされたあげく仲睦まじそうなお誘いが掛かったのである。
トロトロ片付けるふりをしながら耳をそば立てていたみんなの、ギョッとした表情と言ったらなかった。
密かに想いを寄せていたのか、男女ともに数人がガックリ項垂れ、それぞれ友人たちに慰められていた。
そんな光景を眺めながら、彩香自身またもや変態を睨んでしまったのをおぼえている。
(ほぉーう? 背丈も脳ミソもあって人気もあるうえに、こんな美人の彼女がいるのか。幸せな人生だなあオイ)
そして親も公認の仲らしい、いやだがしかし変態さ加減はさすがに隠しているかもしれんな、などと半ばどうでもいい情報もついでにインプットしたのであった。
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