かくして、激動の新年度は幕をあける(2)




「………………………………え」


 別問題に占拠されていた脳に突然あまりにもありえない内容を浴びせられた形になり、変態の発した言葉の意味を掴むまでに不覚にも九秒も費やしてしまった。


「へ……っ、ち、ちち違……っ」


 あわてて否定を試みるが、時すでに遅しという言葉がなぜか脳裏にちらつく。

 外しまくったタイミングでの返答と突然のあわてように、変態は目を細め、勝ち誇ったように鼻で笑った。


「俺から言っといてやろうか?」

「ち、ちちちちちがうがうっ! だ……っ、ホ、ホントに……っ!」


 冗談でもやめてくれ!

 あの爽やかマンとくっつくべきは親友の柚葉なんだよっ!という、表には出せない心の叫びが危うく喉まで出かかる。


「ち、違くて! あ、あたしじゃなくっ、だ、だから……っ」


 噛みまくり声も裏返りまくりでますます泥沼化しているような気はするが、ここは何としてもコイツの大ハズレな思い込みを正さねば!と、変態の両腕にがっちり取りすがっていた。

 このままではキューピッド計画プランにだってどんな支障が出るか……。

 いや、それどころかもし……と、ある一つの可能性に思い至り彩香はぞっとした。


(もし、万が一こんなとんでもない誤報が柚葉や沖田くんの耳に入ってしまったら……?)


 大げさではなく一斉に身体中の血の気が引くような感覚に襲われる。

 友情に水を差されるばかりか、誰よりも願っているはずの柚葉の幸せを自分の手で(いや、変態コイツの勘違いのせいだが!)潰してしまいかねない。


(くっ! せっかく快調な新年度の幕開けだと思ったのに、ここにきてこんな余計な邪魔が入るとは!)


 腕を掴んだ両手にぐっと力を込め、下から睨み上げるような懇願するような目で変態に訴えかけながら、回らない頭で次につなげるべき言葉を探す。

 ……が。

 どうしたことか何も出てこない。

 焦りで鼻息だけがどんどん荒くなっていく。


「焦りすぎ……っ。も……バレバレだっての」


 昨日と同様、赤くなり青くなりを繰り返し目まで白黒させてあわてふためく彩香に、もう我慢の限界とばかりに変態がぷくくくと笑いをもらした。


「ホンっっっトに違うんだって!!」


 怒りのあまり声を潜めることも忘れ、詰め寄る表情もすっかり涙目である。


「わかったわかった。言わねーから。やっぱ自分でちゃんと告白したいよねえ、彩香ちゃんだって」


 大きな手のひらがポンポンっとショートボブの上で弾んだ。


「ヒトの話を聞けーーーーーーっ!! っていうか名前で呼ばないでって……!」


 完全に完璧にまったく見当違いな納得をしてるヤツの思考を正すには、こんなときどうしたらいいのだろう!?

 もう二、三発見舞ってやるべきだろうか?


 物騒なことを考えながら、笑いを堪らえきれないでいる変態を揺さぶり、その背中を勢い余って校舎に突き当てたところで。

 ふいにコンクリート上の細かな砂利を踏みしめるような足音が耳に届いた。



「翔? 西野? 何やってんの、こんな所で」


 見つかってはいけないはずの相手――沖田侑希が、壁に擦らないよう荷物を庇いながら狭い隙間を抜けてこちらへ歩み寄ってきていた。

 渡り廊下からそのまま校舎内に入ったのか別方向の隙間を抜けて立ち去ったのか、泣いていた女子生徒の姿もいつの間にか消えていた。


(そりゃこんな大騒ぎしてたら逃げたくもなるか……)


 誰だかわからないけどゴメンね、と心の中で小さく反省。


「何、って――これってやっぱ『壁ドン』? ……なんか変だけど」


 やべー俺初めてされちゃったーとケラケラ笑う変態の声が頭上から響き、ようやく我に返った彩香がパッと手を離した。


(た、確かに変だ。チビ女が睨みながらヘラヘラ笑うデカ男を壁ドン……。何だコレ……何やってんだ、あたし)


「ていうか、二人、知り合いだったんだ?」


 少し驚いたように侑希が言う。


「ちょっとな。今も偶然通りかかったらおまえがコクられてっからさ。気になって見てた」


 ズボンの両ポケットに手を突っ込んだまま、にまにまと意味ありげな笑みで変態が振り返ってみせる。


「ねー? 彩香ちゃん?」

「ちっ……違うし! っていうかアンタ誰っ!?」

「うーん、いいなあ。その先輩を先輩とも思わない態度」


 笑い呆れながらも感心したように見下ろしてくるこの長身を、「変態」「女タラシ」としてしか認識していなかったことに、今さらながら気付く。

 それだけでじゅうぶんな気がしないでもないが。

 職員室で関口顧問にナンタラと呼ばれてたような気もするが、それどころではなかったし。


 ハッと先ほどの羽交い締め状態を思い出し、またしてもギロリとあからさまに睨み上げてくる彩香から、顔を逸しつつなおも笑いをこらえている変態。


 この愉快で不穏な空気を知ってか知らずか、常と変わらぬ爽やかさで侑希は長身の変態を指し示してみせた。


「コレね、早杉はやすぎしょうって言って、幼馴染。家が近所なんだ」

「どーもー。んでもって今日から同じ陸上部員でーす。よろしくーぅ」


 形の良い眉と口の端をくいと上げた、例の不敵な笑み。


「…………」


 ちゃっかり敬礼ポーズまでとっている早杉翔とやらを、あんぐりと口を開けたまま見上げてしまう。


「ってことは、とうとうグッチ先生に落ちたんだ?」

「やめれ、その言い方」


 おえ、と舌を出す翔に、事情や経緯を知っていたらしい侑希がくすくす笑いながら続ける。


「モテモテだね」

「おまえが言うな」


(え……ええええええええ!? 変態が陸上部に!?)


 心の雄叫びとともにズザザッと壁にへばり付く彩香をよそに、とりま部活行くべ、と男二人が肩を並べて歩きだした。


(え…………何考えてんの? わざわざ三年になってから? 運動部に?)


 それで関口Tの所にいたのかと頭の片隅で納得する反面、つい眉根が寄ってしまう。


(舐めくさってませんか? いくら沖田くん以外パッとしない弱小部とはいえ――)


 しかも話を聞く限りでは、どうも顧問から熱心なアプローチを受けた末での決断らしく……。

 半ば呆然と彼らの背中を見送りかけ、そうだ自分も行かなければ、と彩香も後に続いて歩きだす。


「でも普通に考えて今からじゃ受験に差し支えるんじゃ?」


 大丈夫?と至極もっともな心配を口にする侑希に、微かに笑って翔は吐息した。


「瑶子と同じこと言うなあ」


(ん? ヨウコって……もしや陸上部三年、美人マネージャーの瑶子さん?)


 またも聞き捨てならないセリフに、二人の後ろを歩きながら思わずぴくりと反応してしまう。


 柚葉といい瑶子といい、採用基準はまず顔か?といろいろな方面から問われるほど陸上部ウチのマネージャーたちはレベルが高い。(大変な倍率をくぐり抜けて仕事を認められた本人たちにしてみれば、かなり失礼で大激怒必至な質問であるのだが)


 一部ではミス洸陵とも噂され、部内でも皆に慕われているあの篠原瑶子を、親しげに呼び捨てにするとは……。

 この変態、いったいどんな関係なのだろう。


「こんなの俺様の頭脳に何ら影響ねーわ。むしろ『ずっと帰宅部でーす。何にもアピールすることありませーん』ってほうが心証悪くね?」


 胡散臭げに藪睨みしてしまっていた彩香を、満面の笑みを宿したまま振り返って翔がさらに続ける。


「彩香ちゃん、どう思う?」

「っどーーーでもいいっ!」


 きっぱりはっきり即答する彩香に、まだ怒ってんよ、とまたもや噴き出した。


(だからって――――普通、予備校とかにかじりついて勉強しだす時期なんじゃないの? 逆に部活始めるって……どんだけ余裕なのよ)


 主要教科が軒並み低空飛行の身にとっては、舌打ちしたくなる選択に思えてしょうがない。


(グッチ先生に何を見込まれたか知んないけど、そんな中途半端な考えでウチの厳しい練習についてこれんのか、っつーの。確かに体格はいいけどさァ――)


 鼻息荒くそこまで考えて、ふと目を瞠る。

 まさか。


「まっ、まさかアンタ! ハイジャンに!?」


 気付いた時には叫びながら歩調を速めていた。






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