忘れないよ(1)




 ――彩香に会う何年も何年も前。物心ついたころには、もうとんでもない泣き虫だったんだよね……。



 そう言って柚葉は少しだけ懐かしそうに笑った。







 ◇ ◇ ◇







 すみれ、タンポポ、チューリップ。

 菖蒲、紫陽花、向日葵に秋桜。

 他にも名前を知らないものがいくつかあったけれど、そこはいつも花であふれていた。


 近所の子どもたちの遊び場となっていた小さな公園内の、ブランコやジャングルジムといった遊具から少しだけ離れた所に据えられた花壇。

 あまり大きくはないけれど季節毎に色とりどりの花が咲き誇るその花壇が大好きだった。

 よく同年代の男の子たちにいじめられ、駆け込んで泣いていたのもその場所で――。


 そう、その日も――。



『うっ……ひっく……』


 背中まで伸ばした癖のない黒髪が肩からどんどん流れ落ちてくるのもかまわず、気付いたらしゃがみ込んで泣きだしていた。



『まーた泣きだしたぜ、こいつ』

『すぐ泣くんだもんなー』

『おもしれぇー。ほーら、こっちはどうだあ』


 そう言って同じ年中組の男の子たちは、各々手にした雑草やら甲虫やらをすぐ目の前にちらつかせて振り回してみせた。


『いやー! ママー! ゆうくーん!』


 泣き声が悲鳴に近いものになっても、彼らはやめてくれない。

 笑いながら平気で意地悪をしてくる男の子たちが信じられなかった。

 それに対してただ泣くことしかできない自分も、嫌で嫌でしょうがなくて。


 そんなとき、いつも助けに駆けつけて来てくれたのが彼――同い年で二軒先に住んでいた「侑くん」だった。


『こらー! やめろぉー!』


『げげ、ユウキだ』

『あいつにはかなわねー』

『逃げるぞっ』



『大丈夫? 柚』

『侑くん……』

『もう大丈夫だよ。泣かないで』


 園服や髪の毛についた汚れや草をパタパタ払いのけ、心配そうに頭を撫でてくれる。

 幼いころから彼は、他の意地悪な男の子たちとはまったく違っていた。

 強くて優しくていつも守ってくれて――。


 そんな「侑くん」が自分は大好きで。


『いつだってボクがこうやって助けにくるから』

『……ほんと?』


 しゃくりあげながらの問いかけに、少年は満面の笑みでうなずいた。


『侑くん……ママみたい』

『ええぇぇえ?』


 よほど驚いたのか珍しく変な声が上がるが、すぐにまた優しい笑顔が戻る。


『いいよ。じゃあボクが柚のお母さんだから、柚はボクのお嫁さんになってね?』

『およめさん?』


 長い髪をさらりと揺らして小首を傾げる。


『お嫁さんになったらずっと一緒にいられるんだよ。父さんが言ってた』


 ずっと一緒に――――大好きな侑くんとずっと一緒に?

 涙に濡れたままの瞳と頬に、とたんに輝きが広がった。


『じゃあ、なる。およめさん、なる!』

『約束だよ?』


 嬉しそうに目を細め、少年は目の前に小指をかざしてくる。


『うん』


 クスクス笑いながら何度も交わされた「ゆびきりげんまん」。

 季節が廻り、歳を重ね、小学校に上がっても、変わらず繰り広げられた光景。







『――柚? どうしたの?』


 小学校からの帰り道、ひとり花壇の側で泣いていたところに、またもや駆けてくる侑希。

 背中で真新しい紺色のランドセルがカチャカチャと鳴った。


『ケンタくんが……』

『またあいつ、いじめてきたのか』


 何かにつけてはちょっかいを出してくる三人組の一人だ。


『ううん、ちがうの……あのね』


 ひかえめに首を振ると、人気のない公園内を怒ったような顔で見回していた侑希の動きがぴたりと止まった。


『なにか、困ってたみたいだったの。お顔も赤くて……。だから「どうしたの?」って聞いたら……「おまえなんかキライだ」って急に……』


 走って行ってしまった背中を思い出せば、再びじわりと涙はこみ上げてくる。


『――』


 驚いて目を瞠る侑希。


『……ケンタにキライって言われたから、悲しいの?』

『うん』


 あいつ柚をいじめてたんだよ?

 そう続けられた言葉にも、素直にコクンとうなずく。

 いじめっ子であろうと、キライと言われるのは……誰かに否定されるのは……小さな、弱い自分には悲しすぎて。


 少し考えて、侑希は静かに口を開いた。


『……じゃあ、ボクが「キライ」って言ったらどうするの?』

『――』


 一瞬だけ黒目がちの瞳を見開いた後、泣き顔はもっとくしゃくしゃなものになった。


『……死んじゃう……っ』


 死んでしまうくらい悲しいのだと言いたかった。

 けれど次々あふれ出る大粒の涙と喉の奥の苦しさがそれを途中で止めてしまい、何も言葉にならない。


『ごめんね柚。ごめん、言わないよ。言わないから……』


 あわてたように、顔を覗き込むようにして侑希。


『柚が、ケンタのほうを好きなのかな、って思ったんだ』

『!?』


 なぜ? いつだって侑くんが一番なのに。大好きなのに。

 嗚咽でうまく喋ることができず、ならばせめてと精一杯首を横に振る。


『ごめんね、柚。大好きだよ』


 侑希にもいつもどおり満面の笑みが戻っていた。

 そして、目の前にそっと差し出される小指。


『お嫁さんになるんだもんね?』


 未だ泣き止めないけれど、できる限りの笑顔をつくり、自らもそっと小指を絡める。




 ずっと一緒だよ

 ずっとずっと一緒にいようね




 「ゆびきり」は幸せな気持ちにしてくれる魔法。

 「ずっと一緒」と呪文を唱えながら、温かい未来を思い描いた。

 今もこの先も決して変わらないのだと。安心していいのだと。

 いつでもどこにいても必ずボクが助けに行くよ、という言葉も何よりも信じられた。



 そう…………信じていた。


 小学二年のあの夏までは。







『お引っ越し?』


 乾いた音を立てて、プラスチックの黄色いミニジョウロが花壇のへりに取り落とされた。

 わずかに残っていた水が、乾いた土と薄茶のブロックの色をじわじわと変えていく。

 

『侑くん……いなくなっちゃうの……?』


 枯れ始めた紫陽花に視線を落としたままの侑希を、信じられない思いで見つめる。

 

『新しいお家に……行くんだって』


 絞り出すようにそれだけ告げて、固く引き結ばれた唇。

 いつも真っ直ぐ優しく見つめてくれていた目は、どこか途方に暮れたような弱々しさで。


『……侑くん……』


 名前を呼ぶことしかできなかった。


 隣の……そのまた隣の市ってどこ?

 どのくらい遠いの?

 もう……会えない?


 突然、永遠の別れを言い渡されたも同然だった。

 大人は笑うかもしれない。けれど、小さくて幸せな世界で駆けずり回っていた幼い自分たちにとっては、それはもう……途方もない距離に思えた。

 毎日顔を合わせ、一緒に笑い、ゆびきりすることもできなくなるのだ。どんなに泣いても、どこにいても、もう助けに来てくれることもなくなって……。


 どうしてか、涙が出ない。

 あんなにいつも泣いてばかりいたのに。不思議だとさえ思った。


 代わりに……どんな幸せな未来も思い描けなくなっていた。

 心にぽっかり穴があいて、未来そのものも無くなってしまったような――。

 そうか、自分にとって侑くんがいなくなるというのは、そういうことなんだ。……暗に悟った。



 見ると彼は、悔しそうな怒ったような顔で、じっと足元の紫陽花を見つめたまま。


 ……彼もきっと同じように悲しんだのだ。泣いてしまったのかもしれない。

 それで、赤くなった目を自分には見せたくなくて――。

 だからきっと、紫陽花だけをずっと見下ろしていて……だから……。


 だから――


 彼の気持ちを思ったとたん、みるみる涙がこみ上げてきて、幾筋も頬を伝い落ちた。 



 魔法は解けてしまった。

 幸せの呪文も、もう使えない。


 もう……



 

 けれど。



『――帰ってくるよ』



 やはり彼は違った。


『決めた』


 ポツリと侑希がつぶやいた。

 小さな拳にぎゅっと力が込められる。


『大きくなったら絶対帰ってくる。柚を迎えに来るからね』


 差し出される小指。

 今度は自信に満ちた真っ直ぐな瞳で――。

 弱々しさはもうどこにもなかった。

 


 繋がった小指。


 

 ――帰ってくるよ

  変わらないよ

  迎えに来るからね――



 小さな二人だけの

 幸せな未来の約束


 いつ叶うともしれない、遠くて儚すぎる……



 小指がほどかれた後、胸いっぱいに広がった悲しみをあの時の自分はどうやって乗り越えたのだったか……。今となってはもう思い出せない。

 時が経ち、もう遠い記憶となってしまったはずの――けれども今でも鮮やかに蘇ってくる幸せの魔法と呪文の言葉は、自身にしっかりと刻み込まれているのに。

 まぶしいくらいの、優しい少年の笑顔とともに。







 そして一年前。高校の入学式で。


 変わらず優しい笑顔をした、成長したに思いがけず会えた。

 嬉しさよりもまず目を疑った。

 壇上でスピーチする彼の姿に涙がこみ上げた。

 何でもない、と彩香にはごまかしたけれど。


 「侑くん」は憶えているだろうか。

 自分のことを。

 遠い日の、あの幸せの魔法ゆびきりを。


 嬉しかった。

 もし憶えていてくれてなかったとしても、それでも……と心底思った。

 あのやわらかい優しい笑顔が向けられるのはもう自分だけではないと、わかっていたけれど。


 それでも嬉しかった。

 泣きたくなるほど……嬉しかった。


 そして、気付いた。

 今でもこんなに、彼を好きな自分に――





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