忘れないよ(2)




「本当に、嬉しかったの……」


 そう言って伏し目がちに柚葉は微笑んだ。

 遠慮がちに、けれどとても幸せそうに――。

 開け放した教室の窓から心地よい春風が吹き込んで、彼女の長い黒髪をつややかに舞い上げていく。





「………………信じらんない」



 幸せの余韻をすべてかき消すかのような、彩香の低く重々しいつぶやきがその場に響いた。


 結局朝のあの五分間ですべてを聞き出すことは叶わず。

 ようやく柚葉の言わんとする思い出の全貌が見えてきたのは、余計な始業式やロングホームルームを忍耐で乗り切り、いくつかの休憩時間を費やし、昼食もそこそこに切り上げてほぼフルに活用した昼休みも終盤に近付いたころだった。


 教室後方窓際に移動してのこのコソコソ話は、初めこそクラスメイトたちの興味を引いたようだが、多少声を張って急かそうが顔を赤らめようが、ランチタイムのざわめきに埋もれてそれほど周囲の気には留められなくなっていったらしい。


 学食の混雑を嫌い、また新クラス初日で互いに親睦を深めたいということもあってか、2-Fの生徒はほとんどが教室でにぎやかに昼食をとっていた。(廊下に面した窓や出入口付近に鈴なりになっている他クラス女子の塊を見ると、理由はそれだけではない気もするが……)


 誰にも聞かれなかったことにとりあえず安堵しつつ、そして、だからというワケではないが。


「信っっっっじらんない!」


 クドいのは承知で、あえて再度、ドスを利かせた声で彩香は吐き捨てた。

 親友を見る目は白々としたうえにすでに逆三角である。


「ご……ごめん」


 真っ赤になって柚葉はうつむいてしまっているが、そう簡単に許してなるものか、と彩香は鼻息を荒くする。


 いったい何年の付き合いになると思っているのか。

 自分と中学で知り合うよりもさらに昔に、当の沖田侑希と出会っていたとは。しかも今の今までそれを内緒にしていたとは!


 今回のことは後々まで引っ張れるぞ、よし何かあった際には容赦なくネタに使ってやろう、という悪巧みが密かに心の中で成立していた。


 が、しかし。

 それだけで気が収まることは――――とうていなかった。


「そういうイイ話をさあっ! なんでもっと早く言わないかなあぁぁっ!?」


 知っていたらもっといろいろキューピッド対策できたかもしれないのに、と何よりもこの一年が悔やまれてならないのだ。

 しかも「小さいころを知ってる」どころか、それほどまでに盛り上がっていたとは。

 幼いながらも大恋愛ではないか。


(どーりで、彼氏作らない歴イコール歳の数なワケだ……)


 あんなスーパーイケメン(幼少期は知らんが)とラブロマンスを繰り広げてたんじゃ、どんな男にもなびかないわな、うん、と思わず胸中でうなずく。

 一年前の入学式でのあの表情も、気持ちいいくらい納得できてしまった。

 じゃあせめてその感動の再会を果たした時に教えてくれよ!と思うのもまた事実なのだが。


 納得と怒りとはまた別問題なのである。


「ごめん……だ、だって本当にバカみたいでしょ? 引いたでしょ? そんな小さいころの思い出に浸ってる、なんて……」


 赤面したまま上目遣いになり、ぼそぼそと柚葉は続ける。


「そんなのにしがみついてるなんて……バカみたいって、気持ち悪いって……思われたくなくて……ずっと、言えなくて――」


 徐々に伏せられていった真っ赤な顔が、ついに両手で覆われた。


「あーのーさー……引くわけないじゃん……。全然気持ち悪くないし」


 呆れた眼差しで、あえて大きくため息をついてみせる。

 「親友」をどんだけ舐めてんだ!と言ってやりたいのは山々なのだが、まあ柚葉だからな……とわかるような気もしたのでやめておく。

 こんな奥ゆかしさ、というか、そんな必要もないのに怖がって変に空気を読んでしまう彼女の性格からしても、自分にさえ内緒にしていたというのはうなずけないこともないのだ。


 ――だが、自分は言わねばならない。キューピッドとして。


「全然そんなんじゃないからさ。むしろもっと堂々としがみつけ」

「え……」


 ポカンとする柚葉の側までさらににじり寄って、これでもかというほど顔を寄せてやる。


「『思い出』じゃない。『約束』っていうんだそれは。しがみついて良し……っていうか食らい付いて食い下がるんだよそこはっ! っていうかっ! そういえば『婚約』までしてんじゃんよ、あんたたち、『婚約』! 『お嫁さん』!」

「しーーーっ! あ、彩香……っ」


 はたと思い出し、そうだよ何回『お嫁さんゆびきり』したんだよ!うっひょーぅ、とひとり興奮してボリュームアップする彩香を、アワワワとあわてて周囲確認しながら柚葉がとり押さえにかかる。


「こ、婚約って……そんな……子どものころの口約束を盾に迫ったら、あたしただの痛いヒトでしょ……?」

「えーーーっ!?」

「当たり前でしょ……。普通に時効でしょ……」


 不満そのものの表情の彩香に頭痛がしたのか、がっくりと頭を垂れ、お願いよ……と言わんばかりに両肩に優しく手を弾ませてきた。


(子どもの口約束は時効? そんなあ……)


 ううぅ……そうかなあ? そんだけ盛り上がっておきながら?


 と――

 心中で唸りつつ、ふと彩香はあることに思い至る。 


「でもさ。じゃ婚約は置いとくとしても、それでなんで『一歩踏み出せない』? キッカケがある分、むしろ飛び込みやすくない?」


 というか、余計な行程は全部すっ飛ばしていきなりラブロマンス再開してほしいくらいなのだ、こちらとしては。本当は。

 何にしてもやはり、いや、今まで以上にその他大勢の女子に比べたら圧倒的に有利な立場にあるではないか。我が親友は。

 自称キューピッドが要らぬ対策を練る必要もないくらい。


 それなのに――――なにゆえ渋っている? この大和撫子。

 使える手段は残らず使おうよ、と声を大にして言いたい。


 そんな怪訝な面持ちで睨み続ける彩香に少しだけ困ったようなバツの悪そうな笑顔を返し、柚葉はそっとため息をついた。


「……それが……侑く――沖田くん……あたしのこと、憶えてないみたいで……」


「――へ? ……嘘でしょ? マジで?」


 そんな馬鹿な。大恋愛の相手を憶えてない、って?

 ぱちくり瞬きする彩香にうなずきながら、柚葉が力なく笑う。


「去年初めて部活で顔合わせた時、何の反応もなかったし。それ以降も……」

「えー……」


 わずかに振り返り、視界の端に侑希の姿を捉える。廊下側、前から三番目。


(まだ子どもだったにせよ、将来を誓ってしまえるほどの相手を忘れるか? ……いや、よくわかっていなかっただけだとしても、大好きだった女の子を憶えてない、って……)


 何か釈然としない。


「柚葉の記憶違いってことはないの? ホントに彼? その……昔の」


 侑希の居る方向をこっそり腹の上で指差してみせる。


「もちろん。名前忘れるわけないし、面影あるし」

「……実は生き別れの双子の兄弟なんてのが居たり――」

「双子に同じ名前つけないでしょ」

「……世の中には同じ顔が三つあるという――」

「ホクロの位置まで一緒」


 きっぱりと、淀みなく言い切られてしまった。


(す……すごい。伊達に長年想ってないってことか)


 ということはつまり、人物の一致は間違いないというわけで。

 数人の男女に囲まれて談笑している爽やかイケメンを、つい睨み付けたいような複雑な思いで眺めてしまう。


「……じゃあやっぱり、その離ればなれになってた時間の長さで『侑くん』は忘れちゃってる、と……?」


 小学二年の途中という話からすると……八年。今年で九年、か。確かに短いとは言えない期間だが。


「……だと思う。たぶん、だけど」


 指折り数える彩香に、柚葉ができる限りの笑みを作って見せ、肩をすくめる。

 そして。


「でもね」


 すでに人垣ができている彼の席に視線を転じて、柚葉は微笑んだ。

 長年想い焦がれてきたその相手に、幸せそうに目を細めて。


「本当にまた会えるとは思ってなかったから、すごく嬉しかったの。……すごく。本当だよ?」



(柚葉……)



 本当に彼のことが好きなんだなあ……。

 あらためてそう感じるとともに、自分の胸にまでツンと込み上げてくる何か。


「だから……ね? 今はまだ、このままでいいかなあ、って」


 黒目がちの綺麗な瞳を彩香に戻し、柚葉は満足そうに微笑んでみせた。







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