彼の隣




 予鈴は数分前に鳴り終わっていた。


 いつもなら五分後にショートホームルームが控えているため、教室以外は人の動きが極端に少なくなる時間帯なのだが、年度初日でありクラス替えもあった今日は大分勝手が違うらしい。

 始業式開始まで少しばかり時間の猶予ができたせいもあってか、それぞれの教室内はもちろん廊下のあちらこちらではまだ多くの生徒たちが楽しげに話に花を咲かせていた。


 それでももう大方は校内へと足を踏み入れ、建物の外にいるのは少なくともこれから駆け込んでくる遅刻者とそれを取り締まる教職員くらいなものだろうに――。

 頭の片隅でそんなことを思いながら、篠原しのはら瑶子ようこはもう一度ローファーへと履き替え、軽くはない足取りで昇降口を出る。

 濃い栗色のウェーブヘアがブレザーの背中でゆったりと流れた。


 新クラスが貼り出された掲示板の前にも、校門から昇降口こちらを目指し歩いてくる生徒たちの中にも、求める姿はない。


(どこに行ったの……?)


 ゆるやかに巻いたワンレングスの髪を揺らして辺りを見回しながら、仕方なく正門とは逆方向の校舎裏に向かって歩き出す。

 

 3―Gにはすでに「彼」の鞄はあったという。

 瑶子自身は別クラスなため友人の協力により確認できたことだが、間違いなく登校はしているらしい。

 それで外靴がないとなると……外の、おそらくは敷地内のどこかに――。


 東棟を抜けきり、特別教室などが入った北棟裏に回り込んだとたん。


「……!」 


 ひときわ強い風に吹きつけられ、思わず立ちすくむ。

 遮る校舎外壁が途切れて自由になった風が、ここぞとばかりに強く吹き荒れていた。

 桜の花びらを巻き込んで容赦なく襲い来る強い風をしばらくの間目を閉じてやり過ごし、激しく吹き上げられるウェーブヘアとスカートの裾を押さえ込んだまま、こわごわと目を開ける。

 ――と。


 そこに――まだ少し距離はあるが、視線の先には。

 大量の白い花びらの舞うなか、目当ての背の高い男子生徒が佇んでいた。


 ようやく探し当てた安堵感から、瑶子の目が微かに細められる。


「何してるの? しょう


 ふいに後方から呼びかけられ、わずかに驚いて早杉はやすぎしょうは振り向いた。


瑶子ようこ……」


 北校舎と第二体育館への通路に挟まれた少しだけ奥まったスペースを背にして、彼は外壁にそって植えられた桜の木を見上げていたようだった。


 全開のブレザーから翻るネクタイは、瑶子のリボンと同様シルバーのダブルストライプがあしらわれたネイビー。今年度の三学年カラーである。

 黒々とした長めの前髪もいいように風に吹き上げられ宙を舞っているが、まったく気にする様子もなく、片手は無造作にズボンのポケットに突っ込まれたままだ。


「もうすぐ式、始まるよ。講堂に移動だって」


 じき開始時刻だというのにあわてる素振りさえ見せない翔に、相変わらずなんだから……と苦笑し傍まで歩み寄る。


「もう……探しちゃったじゃない。どうして校舎裏こんなトコロに?」

「ちょっと、な。桜を見に」


 まるで桜がここにしかないと言わんばかりの物言いとニッと笑う顔に、少しだけ困ったように瑶子もまた微笑んだ。

 桜の木なら何もこんな奥まった所まで足を伸ばさなくても、正門から東側の外塀に沿って十数本と植えられているし、一本だけだが中庭の里桜であれば内履きのまま見に出られる。

 そもそも教室の窓からだって見えるのに――


「……」


 ふいに、言おうとした言葉も思考もすべてかき消えてしまい、瑶子は黙って翔の横顔を見上げた。


 空を仰ぐ彼の横顔が、何だかいつもと違っていた。

 心なしか穏やかに……どこか晴れやかにさえ見えて。


 新年度、最高学年になるにあたって何らかの決意が現れたのか、もしくは固まったか。

 あるいは――そんなこととは別に、何か気持ちを新たにしたことでもあるのだろうか?


 新たに、といえば――


「あ、そうそう。うちの顧問が翔のこと探してたよ? 始業式前に話したかった、って言ってたけど……もう間に合わないわね」


 はたと腕時計を見て、苦笑いする。そろそろ皆、本格的に講堂へ移動し始める時間だ。


「ああ、せきグッチー……。まーだ、あきらめてなかったんか」


 わずかな驚きの後、ぐしゃりと前髪をかき上げて翔が小さくため息をついた。


 体育科教諭であり陸上競技部顧問である関口せきぐちに、同部マネージャーの一人である瑶子が呼び止められたのはつい先ほどのこと。

 三年の陸上部員に配布を、と渡された書類一式と共に「早杉が捕まらん」という愚痴をもこぼされ、それを伝言するためにこうして探しまわっていた、というのもあったのだが――。


「春休みのうちにあきらめてくれるかと思ったんだけどなー。……意外に粘るな」


 頭半分低い背でまとわり付く中年男性教員を思い返してでもいるのか、ぷっと翔は噴き出した。

 やっぱ体育の時間うっかりマジで走ったのがマズかったか……などとぶつぶつ言いながら、生徒昇降口のある東棟に向かって歩を進める。


 式開始に間に合うように屋内に戻るつもりらしい。

 マイペースなように見えて、守るべきところは守る。昔からそうだ。

 パタパタと駆け寄り、その長身に並んで瑶子もまた歩き始めた。


 彼が最近、関口教諭から熱心に入部を促されているらしいことは聞こえてきていた。

 でも……と複雑な心境を悟られないよう、瑶子は慎重に言葉を選ぶ。


「……遠慮なく断ってもいいと思う。もう三年だし、受験もあるんだから……」

「まあな。けど受験生ってんならおまえだって」


 大変なのは同じじゃん?とばかりに笑って見下ろしてくる。


「マネージャーは選手ほどじゃないもの。秋までは続けるわ」


 先代も先々代の先輩マネたちもずっとそうしてきたという。元々それに倣うつもりでいた。

 それに……と思わずため息とともに肩をすくめる。


「明日の入学式以降、入部希望者が殺到するだろうしね……」


 一年前と同様、特に女子が。

 最後まで言葉にするのも嫌な、うんざりするような記憶が呼び起こされる。


「あー、侑希アイツ目当てでか」


 瑶子の心中を察してか、面白そうに翔は笑った。


「そう……だから今放り出すわけにはいかないのよ……。せめて一年生からのマネージャーもちゃんとした子を選んでからでないと」


 真面目な二年のマネージャーに負担が掛かりすぎるのは避けたい。本当に一生懸命に仕事に取り組む子なのだ。


 学年で一人と決められているにもかかわらず(無制限だと選手人数を軽く上回りそうなため)、マネージャー職に殺到する女子はおそらく今年も多いだろう。

 憧れの存在の近くに居たい、という気持ちはわからなくもないが……。


 トンデモ部員ばかり集まった去年に思いを馳せ、またもや深いため息がもれてしまう。


 競技経験の有無を問題にしているのではない。

 少なくとも真面目に部活動に取り組もうとするのでなければ、また、真剣に競技に向かう選手の邪魔にしかならないのなら。……酷な言い方かもしれないが、そんな部員は要らない。


 顧問とも主将とも話し合い、真剣さの度合いを見極めるという意味も込めて、最初のひと月は新入部員(学年を問わず)には特に必要以上に厳しくしたのだ。用具の出し入れ・管理から基礎練習、専門種目、マネージャー仕事に至るまで。

 あえてかなり目の粗いふるいにかけた、といっても過言ではない。


 その甲斐あってか予想どおり……いや予想以上に、ハナから「やる気」というものがなく単に沖田侑希目当てだった女子はほぼひと月で脱落してくれた。

 精鋭と呼ぶにはいささか難があるが、やる気のあるひたむきな後輩だけが残り現在に至る。(彼らにはその直後に当初の作戦をカミングアウトし、思惑どおりそれが成功したことも伝えてある。)

 部員数は最初の四分の一まで減ったが、それでいい。個人のファンクラブではないのだ。


 しかし……おかげでしばらくの間「陸上部は全員性格最悪の鬼畜」という噂が絶えなかった。

 出処の見当は容易についたし、部員一同さして興味もなかったため気にせず放置しておいたところ、インターハイ出場まで果たしてしまった沖田フィーバーにかき消され、それもいつの間にか鎮火していたのだが。…………まあ、余談である。


 何にしても今年も(というか彼が卒業するまではずっと、ということになるだろうが)年度初めは間違いなくその戦略で行くことになるのだろう。

 明日が来なければいいのに……と、つい珍しく現実逃避したくなって瑶子は頭を抱えた。


「なかなか大変そうだな」


 ネクタイを収めブレザーのボタンを留めながら、まるで他人事ヒトゴトのように鼻で笑っている翔。

 その整いすぎた笑顔をつい上目遣いに睨んでしまう。


「…………あのねえ……」


 わかっていないだろうが、この状況でもし翔まで入部したとなったら――。


 考えるとますます頭が痛む。


 もし本当にそうなったとしたら、おそらく……混乱は昨年の比ではない。

 本人はまったく頓着していないが、実は彼とて女子人気はかなり高いのだ。

 去年はひと月強で収まった(脱落しきった)女子熱が、二人分となると今年はどれだけ長引くことになるのか。そもそもいったいどれくらいの数が押し寄せてくるのか。

 何がどうなるのか皆目見当がつかない、というのが正直なところだ。


 それも瑶子を憂鬱にさせている一因だった。


 実際、沖田侑希ほど派手に騒がれたり大っぴらに群がって来られてはいないが、それは単に、基本面倒くさがりの翔がどこの部や会合に所属するでも参加するでもなく、これまで特に目立つような活動コトをしてこなかったから。

 ただそれだけのことだ。少なくとも瑶子はそう思っている。

 ――にもかかわらず、今でさえ……とため息をつきかけ、

 

「……」


 見上げて、ふと目を瞠る。


「……翔、また伸びたんじゃない? 背」

「そか?」


 この長身と整った顔立ちという見た目だけでも、じゅうぶんモテてしまうというのに……。


 しばらく停滞気味だと思ってたけどな……と呑気に欠伸をかみ殺しながらの声を聞き流し、ヒトの気も知らないで……と瑶子はとうとうため息をついた。


 現に、決して少なくはない数の異性に想いを寄せられていることは知っている。

 時折どこかに呼び出され、その想いを伝えられていることも。

 さっきだってその手の行方知れずかと思っていたほどだ。

 探しながらどこかの角を折れる度に、今度こそ女子とのツーショットが視界に飛び込んでくるかもしれない……と覚悟した。


 いつの間にか伏せられていた長い睫毛が、微かに震える。


(変わらないでほしい……なんて、言えないけどね……)


 今現在、いくら他のコたちより近い位置に居るとしても。

 こうして隣を歩くのは、常に自分でありたいと……願ってやまないのだけれど――。 


 沈んでしまいそうになる目線を気分とともに無理やり押し上げ、気を取り直すように瑶子は隣を振り仰ぐ。


「で、結局どうするの?」

「陸上部か。んー……どうすっかなー」


 伸びすぎた前髪を無造作にかき上げ、そのままぐりんと翔は首を回した。

 ふと、その拍子に彼の頬に目がとまる。

 どことなく違和感をおぼえた。


「――ほっぺた、どうかしたの?」


 違和感の正体。

 今の今まで気付かなかったが、片頬が心なしか赤く、微かにだが腫れてもいるような気がする。


「え……ああ。昨日ちょっと威勢のいいやつに絡まれてな」


 思い出したように笑い、左頬をさする翔。


「殴られた」

「えっ? 大丈夫なの?」


「やっぱ俺がマズかったかな……? ――にしても、あのあわてようって……」

「?」


 暴力を振るわれたにしてはどこか楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか。

 クックッ……と喉を鳴らして思い出し笑いを続けるその横顔を、瑶子は不思議そうに見つめていた。






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