○○○○に遭遇してしまった日(4)




「う……わっ!?」


 突然、視界が大回転した。

 倒れ込んだ衝撃の後には――鼻先に土と草の匂い。頬と手のひらには芝生の感触。


「いっ……たあぁぁ……」


 柚葉の警告も間に合わず、振り向きざま何か大きなものにつまずいて前のめりに転んでしまっていた。 


「彩香っ、大丈夫!?」


 駆け寄ってきて膝をつく柚葉の心配そうな声は聞こえるが、体勢に問題アリなのか未だに顔を上げられない。


 ――が。


 かなりの大転倒で体もしこたま打ち付けた(と思った)はずなのに。


(……あれ?)


 思わず呻き声を上げてしまったが、実際は身体中どこにも痛みは感じなかった。

 それどころか、倒れ込んだ先には何やら温かくやわらかい感触が――。


「あの……さ、ワリいけど」


 考えを巡らせるより早く、顔のすぐ横から若い男の声がした。


(え)


「動けそうなら、早く退いてみてくんねーかな?」


 はっと気付くと、なんとしっかり人間ヒトさまの倒れ込んでいた。


「そこらへんに乗っかられてると、どうもこう……ムズムズと――」

「すっ、すみませんっ!!」

「ぐ……ふっ」


 あわてて退こうとしてどこかに変に体重をかけてしまったらしく、再び今度は短い呻き声が聞こえた。


「あ、ごごごごめんなさいっ! だっ大丈夫ですかっ!?」

「……ってー……」


 よほど当たりどころが悪かったのか片腕で顔面を覆ったままのその男性は、未だ芝生に仰向けに寝そべったまま、上体を起こそうとする気配もない。 


「あ……あの――」


 ここは救急車か警察か!?と思わず柚葉と視線を合わせ、スマホに指を伸ばしかけた瞬間。


「あー……びっ………………くりした……」


 本気で安堵するような、深く長い吐息の末に。


「いきなり何かに降ってこられて、今日で人生終わったかと思った……」


 いやいや謝罪もリベンジもまだだ死ぬわけにはイカン……などとブツブツ言いながら、男はようやく億劫そうに上半身を起こす。



(うわ……)



 動きを追っていた彩香の目が、大きく瞠られた。


 どこのモデルだ?と一瞬思ってしまったほど細身の長身。こうして座っている状態でもそう思えるほど。

 艶のある黒髪はすっきりと短く整えられ、少しだけ長めの前髪がシャープな印象を放っている。

 沖田侑希のような華やかで爽やかな王子オーラこそ感じられないが、この青年もまた周囲の目を引くタイプなのだろう。うっわ……かっこいい、と珍しく素直に思ってしまった。


 ジップアップの薄手ショートジャケットにジーンズというラフなスタイル。ぶんぶん頭を振り上半身についた芝を払い落としているその仕草は、背は高いがまだギリギリ少年の域を抜けていないようにも見える。

 未だ直接見交わされてはいないが、鋭すぎない――けれど意思の強そうな瞳と整った眉が、前髪の隙間から見え隠れしていた。


 高校生……? か、大学生くらいだろうか……と彼のその動きをほとんど呆然の体で眺めていた彩香が、はっと急激に我に返る。

 見とれている場合ではなかった!


「ほ、ホントにすみません……! 前ちゃんと見てなくて、あの……っ」

「や。いいって。こんなトコで横になってた俺も悪い」


 染めても加工アレンジしてもいなさそうなまっさらで黒々とした短髪を大雑把にはたき、きほぐして、事もなげに青年は言うが。

 無意識なのだろうか……。先ほどからずっと左手は腹部を擦っているように見える。


「お、おケガとか……だ、大丈夫でしょうか?」


 まともに上に乗っかってしまっていた気がする。退くときにヘンな呻き声も聞こえてたような……。

 ど、どどどどうしよう、内臓とか無事だろうか? これはひょっとしてニュースものか? 裁判沙汰か? 慰謝料とか!? ――などなど、もはや悪い想定しか出てこない。

 冷や汗タラタラでおそるおそる腹部を指差す彩香に気付いて、ああ……と少年は微かに笑ったようだった。


「大丈夫。コレは別件で……。てか、そっちこそケガなかった?」


 少し長めの前髪から覗く形の良い目が、ほんの一瞬彩香をとらえる。


「――!」


 ガラにもなくどきりとしてしまった。



 にわかに活発に鳴り出した心臓をなだめるように、手は無意識にそっと胸のあたりを押さえにかかる。


「え、痛い? もしかしてどっか――」

「あ……い、いえっ! 大丈――ぜ、全然ですっ」


 ハイジャンのマットに落ち慣れている分、一般的な女子に比べたら頑丈なハズだ。実際、本当にどこにも痛みはないし――。


「日頃から鍛えてるんで! ちょいちょいケガはするけどジョーブですっ」


 無駄に気にさせてしまったことを反省しつつ、ご安心を!とばかりに「力こぶポーズ」を作って見せた。


「ぶ……っ。それって大丈夫って言わな――」


 思いもよらない言動だったのか、わずかに噴き出しそうになって青年はあらためて彩香に向きなおろうと体勢を変える。

 そして何かを言いかけ……た口のまま、フリーズ。


「――」


 目を見開いて彩香の顔を見ていたかと思うと、次の瞬間。


「ぷーーーーーーーーっ!」


 今度こそ勢いよく噴き出してしまっていた。


(……え)


 瞬時に頭が真っ白になった。 


 笑い声に、身体と一緒に思考まで凍りついてしまったような錯覚に襲われる。

 自分をまともに見たとたんに噴き出しらえきれずなおも笑い続けている目の前の相手を、彩香は茫然と見つめることしかできなかった。



 やがて。


(……そっか……そゆコト……)


 わずかな時間と微かな痛みを伴って、意識の奥深く――どこか心の片隅で合点がいく。


「あ、あんた……くくく」


 目の前に突き出された人差し指と笑い声がすべてを語っていた。


(……やっぱり。顔を見るなり笑われてる、ってことか)

 

 わかっていたはず。

 普通に会話のやり取りができていただけに、つい油断して気付くのが遅れたが。


 まともに視界に入れられてしまうと、この見てくれ――――やはり駄目らしい。


 いやに熱く重苦しい何かがじわじわと喉元と目頭にこみ上げてくるのを感じ、思わず下唇を噛み、握った拳に力を込める。


(わかってるってば……。そんな……大爆笑されるまでもなく――)


 どう贔屓ひいき目に見ても、褒められた容姿ではないことなど。


 ――昔から。

 じゅうぶんすぎるほど。


(……でも) 


 おもむろに目線を上げ、挑むように青年を見据える。


 だからと言って初対面の相手に好きなだけ笑いのタネにされる必要も義理もないわけで。

 ケガがなかったのなら失礼します、そう言って立ち去ればいい。それで終わりだ。

 いや、こんな失礼な相手にはいっそ無言でもいいかも――――と取るべき行動を即決して彩香が立ち上がりかけた、その時。


「ごめ……っ、悪い悪い。いや、スゲーと思ってさ」


 未だ収まりきらない笑いを引きずったまま、青年は明るく謝ってみせた。

 こちらの衝撃ショックや怒りはまったく意に介していないらしい。


(スゲー? ……見た目が悪すぎて凄いってこと?)


 なんとなく立ち上がるタイミングを逸してしまったことに気付いてはいたが、衝撃を奥底に沈め込んで冷たさでコーティングした一瞥だけを返す。


「だ……だって、あんだけダイナミックにコケといてアイスは放さないとか、もうね……ぶはは……サ、サイコーじゃん?」


 言い終わらないうちに再びこみ上げてきた笑いをなんとか堪らえつつ、青年は左手にしっかり握られたままだったアイスを指差してきた。


「え……あ」


 見ると、欠けも汚れもせず、かなり溶けかけではあるが最後の段のバニラがきちんとコーンに単座している。

 空いた右手のひらやら両膝やらは気付けば結構土草にまみれているというのに。


(た、確かに……。うわあ、我ながらなんて食い意地だ……)


 思わず赤面し、自身よりアイスをしっかり守った左手にこの時ばかりは舌打ちしたい気分になった。


「しかも、ホレ」


 突然、言いながら青年が彩香の顔に手を伸ばしてくる。


「え……な、なに……」

「ついてるし」


 身構える彩香にはお構いなしに、右頬下に付いていたらしいバニラを人差し指ですくい取ってみせ、そして――


 そして。


 あろうことか、彼はそのままその指をぱくりと自らの口へと運んだ。


「――」

「うん。美味い」


 にっ、と整った眉と口の端が満足げに持ち上げられた。




「……………………」




 目を見開いたまま瞬間冷却を余儀なくされた彩香。

 数秒の放心の末、かろうじて労働意欲の残っていた脳の一部をフル稼働させて今しがたの出来事を脳内リピートしてみるが……。

 やはり理解不能。


(い……っ)


 ふるふると驚くほどに拳が震えた。


(今コイツ何をしたーーーーーーーーーーーーっ!?)


 堪忍袋というものがもしあるとしたら、緒が切れるどころか確実にまるごと吹っ飛んでいただろう。

 一気に押し寄せてくる驚愕、憤り、羞恥の心情に、たった今触れられたばかりの頬はこれでもかというほど引きつり、顔面もすでに蒼白と紅潮の混合状態(しかも極限レベル)にまで達していた。


「な……っな、なななん……っ!?」

「ん?」


 そしてそんな反応を見て面白がっているのか本当に鈍感なだけなのか、目の前の男はさらに追い打ちをかけ、


「あーほれほれ、こっちも溶けるって」


 彩香の左手に握られた食べかけのバニラアイス本体をも、身を乗り出して来て……ぱくり。



 ブチリ。



「信っっっじらんない!!」


 二つ目の袋が跡形もなく吹っ飛んだことを自覚するするや否や、怒号とともに怒りの張り手が飛んでいた。

 べちんっ!と良い音も響いたような気がする。


「ありえないでしょ! この変態っ! アイス泥棒! ばかっっ!!」


 青年だけではなく柚葉までもが呆然とするなか。

 腹の底から怒鳴り散らし、極めつけに子どものような捨てぜりふを吐いてすっくと立ち上がったかと思うと、彩香はドスドスと効果音を響かせながら大股でその場を後にした。


「あ……彩香、待って」


 またもや置いて行かれそうになり、あわてて柚葉も駆けだしていく。 







 それらを見送って一人残された長身の彼は、というと。


「…………変態? ――なんで?」


 平手打ちされて微かに赤くなった左頬を庇いもせず、呆として瞬きを繰り返していた。



  


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