第3話 白いスカート 

 初めて経験するような強風だった。二階の僕らの部屋でも、竹藪や電線の風鳴りが聞こえた。夕方に吹き始めて、夜中になっても弱まる気配はない。

 寝る前に二段ベッドの下段で漫画を読んでいると、恭子が細い腕で大きな箱を抱えて来た。今朝来たばかりの新しい制服の箱だった。汚れるとか折り目がつくとか言って母親がうるさいから、深夜を待っていたのだろう。

「見てよ。この色。あんたもあたしも四月から毎日これ着るのよ。恥だ」

 僕は漫画を置き、恭子の指差す先を見た。ブレザーが二着、男物と女物。どちらも出涸らしのお茶っ葉みたいな緑色だ。たしかにいやな色だ。

「その上、バスで四十分だよ。この町の県立高校だったら歩いて五分なのに」と恭子は唇をゆがめて言った。「あたしに死ねっていうのか」

 この町の県立高校は僕らの家の裏にある。うちの庭から、先祖の墓のある竹やぶを抜けて、一メートルくらいの崖を登るともう校庭だ。高校は小さな頃から僕らの遊び場だった。生徒には親戚や近所の子も多く、何人かの先生とも顔見知りになった。両親も卒業生だし、僕らは当たり前みたいに、自分たちも行くことになると思っていた。特に恭子は制服を楽しみにしていた。古い学校だから、校舎も制服もレトロで、わりと格好いい。男は普通の詰襟だけど、女は白いワンピースに革ベルト、ブルーのスカーフで、ちょっとお嬢様っぽい。難関校じゃないし生徒も減ってるから、僕らの成績で入れるはずだったのに。

「きょうだい二人揃って隣の市の高校なんてね」恭子は溜息をついて首を振り、箱を抱えて出ていった。僕は毛布をかぶり、ベッドのカーテンを閉めた。


 明け方に目が覚めた。まだかなり早いらしく、窓は暗かった。風音は続いていた。のどが乾いていたのでベッドを出た。何かが変な気がして見てみると、ベッドの上の段のカーテンが開いたままだった。布団も空だ。恭子がいない。

 台所に降り、水を飲む。下にも恭子の気配は無い。トイレや風呂場にいるようでもない。縁側からは、ガラス戸ごしに暗い庭が見えた。竹薮が強風に大きく揺さぶられている。まるで、藍色の空を隠すほど巨大な影が踊っているように。その姿は、かつて恭子を連れ去ろうとしていたものを思わせた。今でも恭子の姿が急に消えると、僕は三年前の恭子の入院を思いだして不安になる。

 踊る影を見ていて、ふと気付いた。おかしい。雨戸が開いてる。

 恭子は外だ。あいつ何してるんだ。僕はパジャマのままでサンダルを履いて庭へ出た。竹薮へ向かう。方向は多分正しい。強風が髪を乱す。女の悲鳴のように、男のうめきのように竹が鳴る。竹薮の中は墓地だ。祖父の墓、名前も読めない先祖の墓、倒れたもの、割れたもの。ほとんど自然の石に帰ったもの。

 サンダル履きで苦労したが、木の根を足がかりに崖を上ると、校庭に細く白い人影が見えた。恭子だ。真っ白な服。白いスカートが風になびいている。

 僕は体育倉庫の陰に隠れて見守った。恭子は校舎に近づき、行ったり来たり、向こう側に消えたりしながら、あちこちのドアや窓を開けようと試みていたが、どれも鍵がかかっているようだった。空は少しずつ明るくなる。

 やがてあきらめた恭子は、校庭をこっちへ歩いてきた。僕は急いで崖を降りた。家に戻ってガラス戸を閉じようとしたとき、悲鳴が聞こえた。

 これは風じゃない。恭子の声だ。すぐに飛び出し、竹薮へ行くと、崖の下に白い影が転がっていた。「姉ちゃん」と僕は思わず叫んだ。「大丈夫か」

 恭子は、助け起こそうとした僕の手を振り払い、片足をかばいながら立ち上がった。着ていた白い服は、驚いたことに県立高校の制服だった。

「あっち行け。姉ちゃんって言うな。家でもよ」恭子は僕をにらんだ。「高校で姉ちゃんって呼んだらマジで殺すよ。あたしたち双子で通すんだから」

 姉は――恭子は三年前、中学一年の春から長期入院したので、進級せずに中一をやりなおすことになり、弟の僕と同じ学年になった。その上、町の県立高校の廃校も決まり、僕らの一つ上の学年を最後に募集をやめることになった。恭子はどうしても納得できず、病み上がりのやせた体でぶつかるような勢いで親や先生に食ってかかったが、結局大人の言うことは聞くしかない。

 中学の三年間、恭子はその悔しさを持ちつづけていたのだろう。クラスで同級生たちにお姉さん扱いされるのを、恭子はひどくいやがっていた。今朝の怪しい行動もその悔しさのせいなのだろうが。

 しかし、それにしても、と、部屋に戻って、白い制服の恭子が座って膝にバンソウコウを貼るのを見ながら僕は考える。大体この制服はどこから出てきたんだ。ブルセラショップでお年玉をはたいたんじゃないだろうな。ひょっとして、四月からこれを着て高校に通うつもりなんだろうか。

 姉ちゃん、忘れろよ。無くなったものは戻らない。一年無駄にしても、制服着れなくてもいいじゃん、それくらい。こっちは姉ちゃんそのものを無くす心配までしてたんだぜ。

「無くしたものは戻ってこない」まるで僕の考えのエコーみたいに恭子は言って、僕に顔を向けた。青白い頬と白い制服の肩に、ゴムを解いた黒い髪が垂れていて、夜みたいに黒く大きな瞳は、いつも以上に丸く広がって見えた。ひょっとしたら、姉ちゃんはもうとっくに死んでいるのかもしれない。姉ちゃんを忘れられない僕が、幻を見ているだけなのかもしれない。一瞬そんな気がしたけど、もちろんそれは風のせいだった。



(第三話・終わり)

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