第2話 ハンバーガーの匂い
町役場の笹尾係長と岩崎さんは、隣の市の市役所に昼から出向いていたが、夕方には用事を片付けて、役場のカローラで帰途についた。官庁街から駅前通りへ。連絡やら協議やらで、笹尾係長は近頃よくこの道を行き来している。
「ハンバーガー食べて帰ろうよ」と笹尾係長は言った。彼らの町と違って、ここは小さくても一応は都市だから、駅前にはハンバーガー屋もある。
「もう五時過ぎてますよ。遅くなります。早く車を役場に戻さないと」
「車で食べながら行けばいいさ。岩崎さんもチーズバーガーでいい?」
笹尾係長は駅前広場に車を止めて、五分ほどで紙袋を手に戻ってきた。
町へ帰る国道を十五分も走ると家並が途切れ、田園風景が広がる。棚田の所々から上がる白い煙やトタン屋根の農家。笹尾係長は左手にチーズバーガ―、右手でハンドルを握る。岩崎さんはスカートの膝に紙ナプキンを敷いて、人差し指と親指でフレンチフライを一本ずつつまむ。空は赤みを帯び始めている。
「匂いが車に残っちゃいますね」岩崎さんがくるくると窓を開けると、草の匂いの春風が岩崎さんのショートボブをくしゃくしゃにした。岩崎さんは目を閉じ、窓の外に鼻を出した。「なんだかドライブみたいですね、先輩」
国道は田園から山へ入ってゆく。道は狭く、カーブは急に、人家はまばらに、森は暗く、谷は深くなる。日が山に隠れる。急に強い風が吹いてくる。岩崎さんはよいしょよいしょと窓を閉めた。突風で車が浮かぶような感じがした。
境界を越えて自分たちの町に入った辺りで、笹尾係長は時計をちらっと見て、ハンドルを左に切った。車は国道を離れて森の中の脇道をたどり、未舗装の急な坂道をしばらく登って、小さな広場のような草むらに止まった。
ヘッドライトを消すと、全ては夕闇に包まれる。エンジンを切った瞬間、岩崎さんが、飛びつくようにして笹尾係長に抱きついた。風がごうごうと吹いて車を揺すった。岩崎さんは笹尾係長に、唇を押しつけるようなキスをした。
「来月、わたし誕生日です」と岩崎さんは、笹尾係長の肩に頬を押し当てて言った。「三十になっちゃうんです。憂鬱です」
高校時代から二人は恋人だった。笹尾係長が東京の大学に入り四年間途絶えたが、町役場に就職が決って帰って来たら、岩崎さんがそこで働いていた。それから八年、一歳下の彼女も三十だ。わずかな時間しか恋人らしく過ごせない今の状態を、いつまでも続ける訳にはいかない、と笹尾係長は思う。この町のどこかで岩崎さんと暮らしたい。同じ物を食べて、抱きあって眠りたい。でもそれは無理だ。そんなことをすれば二人ともこの町にいられなくなるだろう。
「誕生日には何かプレゼントするよ。でも今日はもう帰ろう。遅くなるよ」
靴と背広を脱いで身軽になると、笹尾係長は足を伸ばして畳の上に座った
「今日は豚カツだよ」ふすまが開いて香織の丸顔とジーンズの脚が見えた。
「ごめん。少しでいいよ。昼飯が遅かったんだ」
「ひょっとして」香織は眉をひそめて、笹尾係長ににじり寄った。「ハンバーガー食べたね。とぼけても匂いで分かるよ。あたしにも買ってきてよ」
「……こんど行ったら買ってくるよ。そんなに食べたかったのか」
「この町ってファーストフードが無いじゃん。時々だけど、強烈に食べたくなるの。大学のときはよく一緒に夜中にマック行ったよね」
「香織、東京に帰りたい?」と笹尾係長はたずねた。「東京育ちの香織をこんな田舎に引っ張って来て、悪かったかなとも思うんだ。今でも」
「慣れたよ。もう八年だよ。地下鉄の乗り方も忘れたね。それに、ここも市になって、あなたの勤務先も市役所になるんでしょ。田舎脱出じゃん」香織は大きな口で笑った。「旦那が町役場勤務って、妹に馬鹿にされなくて済むわ」
町が隣の市と合併したら、と笹尾係長は考える。自分は新市役所に移り、岩崎さんはこの町の支所に残る。彼女と毎日会うことはできなくなる。状況は変わるだろう。何がどう変わるのかはまだ分からない。何も失いたくはない。
「ごめん。冗談だよ。合併で大変なのは分かってる」香織は夫の頬に触れた。「あたしは、あなたを選んだの。あなたがこの町とどんなに強く結びついてるか、よく分かってるつもり。昔は、この町に嫉妬したりしたけど。今はあたしも、ほんの少しだけど、あなたが愛するこの町の一部になれた気がするな」
笹尾係長は返す言葉を探していた。風がうなり、雨戸をがたがた鳴らした。
「だからさ」香織は背中からぎゅっと笹尾係長の体を抱いた。「だから、東京に帰りたいか、なんて聞かないで。ずっと一緒にここにいるから。ハンバーガー、あたしにも買って来て。ちゃんと匂いで分かるんだからね」
香織の体温と重みを感じながら笹尾係長は思う。香織は僕を、僕は香織を選んだ。なぜ僕は自分が選んだ人だけのために生きられないんだろう。八年前に大温泉ホテルで開いた披露宴の情景が甦る。白いドレスの花嫁香織の幸福な笑顔。友人席で拍手する岩崎さんの、髪飾りと青いドレス。仕事中とは全く違う愛らしさに、岩崎さんへの気持ちを四年ぶりに思いだしたのは多分その時だ。
◆
夜。車は森の奥へ入って行く。後部座席にはハンバーガーの紙袋。暗闇に車を止めると、彼は助手席の彼女を引き寄せ、抱きしめた。彼女はただ、彼の胸ですすり泣いている。髪を撫で、名前を呼んで慰めようとするが、分からないのだ、どちらの名前を呼べばいいのか。彼女は泣き続ける。顔は見えない。
(第二話・終わり)
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