かげりゆく場所

猫村まぬる

第1話 トランクを渡す

 山の木々が騒いでいた。ガソリンスタンドに並べられた旗は今にも千切れて吹き飛びそうだった。夕方になって急に吹き始めた強風が、渓谷のまわりでは特に荒々しく渦を巻いていた。ミサキの家からバス停まで、谷沿いの国道を歩く間、ミサキの長い髪は逆巻く風に激しくかき乱されて、彼女が何か言おうとするたびに唇にまつわりついて言葉をさえぎった。そうでなくても風音のせいで彼女の声は切れ切れにしか聞こえなかったのだけれど。

 そろそろ時間だが、バスはまだ見えない。風の影響で少し遅れているのかもしれない。遅れていてくれればいいのに。いずれにしても彼女が街を出ていくことには変わり無いのに、そう願わずにいられなかった。

 錆びた標識があるだけのバス停で、字の薄れた時刻表に目を凝らすミサキの姿を、ガードレールに腰かけて眺めた。風に揺れるミサキの髪が、西日で金色に輝いた。こらえきれず、心配するような口振りで、心の願いを言葉にした。

「もし、バスが遅れて夜行に乗れなかったら? 出発は明日にするのか」

 ミサキは振りかえって、聞こえないよ、という顔で首を振った。大声で同じことを繰り返したら、彼女も声を張り上げた。

「大丈夫よ。ちょっとくらい遅れても、駅で待ち時間があるもん」

 ミサキだけじゃない。同級生のほとんどは卒業すると街を出ていく。進学にしても就職にしても、ここに残っていては選択肢はわずかしか無い。だれもがいなくなってしまうこの小さな街にひとり取り残されて、あと一年間受験勉強をつづけなければならないのは憂鬱なことだった。

 ここ数日で、ほとんどの友達はもう出発してしまった。そして今日はミサキだ。一人だけの見送りで、淋しい出発だったが、彼女の家からバス停まで、こうして二人で風の中を歩いてこられたのは貴重な時間だった。

「見送りに来れてよかったよ。最後に、二人でさ」

「なんて? 聞こえないよ」

 また大きな声を出そうとしたが思い直し、ミサキに歩み寄って顔を近づけた。風になびく髪の幾筋かに頬をくすぐられた。こんな強風なのに、彼女の髪の、息が苦しくなるような甘い匂いを感じた。

「お前の見送り……僕だけか。セツコ叔母さん来なかったね」

「うん。お母さん、いま川海苔で忙しいの。いらないって言うのに、瓶詰めいっぱい持たされちゃったよ。だから重いでしょ、わたしの荷物。ごめんね」

 すぐ近くにミサキの身体があり、目の前にミサキの顔がある。今のうちにまっすぐ見ておきたいのに、できない。苦しくて目をそらしてしまう。

 バスのクラクションの音が、風に流されてきて耳に届いた。エンジンの音はまだ聞こえない。ひょっとして、エンジンが動いていないのかもしれない。故障だったらどんなにいいだろう。止まってしまえ。エンジンが聞こえたらもう最後だ。いとこ同士なのだから、二度と会えないということは無いだろうけど、今のままの気持ちで会うことは、もうできないかもしれない。伝えておくべきだったのだろうか。「ずっとミサキのこと好きだったんだ」って?そんな馬鹿な。言えるもんか。彼女とは十八年間ずっと、きょうだいみたいなものだったじゃないか。

 ミサキのトランクは本当に重かった。着替えや川海苔だけでこんなに重くなるものだろうか。彼女はこの街に何も残さないように、十八年間のすべてを詰め込んで持ち去ろうとしているのではないか。そんな気がした。バスが来れば、その重みの全てを彼女が一人でずっと遠くまで持っていくことになる。

 バスが見えた。近づいてくる。あたりまえだけど、エンジンはちゃんと動いていた。そいつは崖の陰からカーブを曲がって姿をあらわし、夕日に照らされた無表情な顔をこちらに向けた。行き先が見えた。間違い無く、ミサキを乗せてゆくバスだった。

 トランクを差し出すと、思いのほか、ミサキはそれほど重くもなさそうに受け取った。こちらに背中を向け、車道に半歩踏み出し、バスに向かって手を上げた。

 離れて行こうとするように見えるミサキの後ろ姿と、長く伸びた彼女の影に向かって、「淋しくなるよ」と声をかけた。聞こえていたのかどうかは分からない。彼女の答えは聞き取れなかった。

 バスはまっすぐ彼女を目指すように近づいてきて、目の前に止まった。

 ブザーを鳴らしてドアが開いたとき、ミサキはトランクを置いてくるりと振りかえった。ひょっとしたら、「わたし、やっぱり東京行くのやめる」と言ってくれはしないかと、ありえないことは分かっていても、まだ願っていた。

 ミサキは近づいてきて、身体を寄せるようにして耳元で言った。

「東京で待ってるから。早くおいでよ。わたし短大だから、一年しか待てないのよ」

 そして頬に何かが触れる微かな感触があった。それが彼女の髪だったのか、鼻先だったのか、あるいは唇だったのかは分からない。全くの錯覚だったかもしれない。あるいはただの願望だったかもしれない。それは分からない。分からないまま最後に見たのは、ピンクのトランクを重そうにバスに引っ張り上げるミサキの、夕映えに染まった姿だった。ドアを勢いよく閉めてバスは走り去り、排気ガスの匂いもたちまち風に掻き消された。


(第一話・終わり)

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