第4話 サンタ・モニカ
喫茶サンタ・モニカのマスターには朝の練習メニューというのがある。二階の部屋でエレキギターををじゃんじゃん鳴らすのだ。曲は1960年代の、ビーチボーイズとかジャン&ディーンとかそんなの。残念ながら商店街のバンドが活動を休止して以来もう何年も、アンプにつないで弾いたことはないけど。
それから、店に出る時のいつものスタイルに着替える。ボタンダウンシャツにニットのネクタイ、紺のブレザー。1980年代そのままの西海岸風の店内を掃除して、看板を外に出し、サイモンとガーファンクルのLPに針を落とす。
ここは、山間の渓谷に沿って伸びた数本の通りに、小さな商店や民家が並んでいるだけの田舎町だ。人通りは少なく、午前中に客が来ることはほとんどない。ごくたまに、朝いちばんに写真館の老主人が来て、何時間も新聞を読みながらゆっくりと紅茶を飲んで行くことがあるが、最近はそれも少ない。
マスターはカウンターでグラスを磨く。人のいない店内に音楽が流れる。サイモンとガーファンクルが終わり、アバのシングルを片面聞き、ボブ・ディランを両面聞き、バート・バカラックのA面が終わったところでドアが開いた。
時々見かける、町役場の窓口の女の子だった。グレーのスカート、白いブラウス、黒のカーディガンを着て、ショートボブの髪を栗色に染めた、なかなか可愛い子だ。顔立ちは幼いが、どことなく物憂げなところがある。二十五歳くらいだろうか。注文はレモンティーとホットケーキだった。
女の子は膝に紙ナプキンを敷き、ホットケーキをナイフできれいに八等分して、一切れずつ丁寧に食べた。そして窓の外を見ながらカップに唇をつけた。
女の子の視線は商店街の景色じゃなくて、他のものに向けられているように、マスターには思えた。目に映らない何かを見ようとしてるような、こういう感じの女の子が時々いる。1970年代にマスターが恋したのは、みんなそんな人だった。でも一度もうまくいかなかった。こうして五十歳を越えた今も、両親の残した家で店をやりながら一人で暮らしている。だが好意を持ってくれた女性が今まで一人もいなかったわけじゃない。たとえばこんな女性と一緒に人生を歩んで来られた可能性は僕にもあったんだ。今さらどうしようもないけど。
白い車が店の前に止まった。役場のカローラだった。女の子は席を立ち、代金ちょうどを払って店を出た。助手席に彼女を乗せて、車は走り去った。
次の客は少年と少女だった。テーブル席に座ってクリームソーダとココアをたのんだ。中学生のデートかなと想像してマスターはうらやましく思った。
でも二人はデートにしては浮かない顔で、ぼそぼそと話をしていた。華やぎも緊張感もない。カウンターで眺めてるうちにマスターは気付いた。あれはきょうだいだ。よく似てる。少女はとてもやせている。少年も細い。大きな目も、仕草もそっくりだ。二人とも十四、五歳に見えるが、兄と妹だろうか。
二人は低い声で話していたが、時々一緒にくすくす笑ったりするときはデートよりずっと親密な感じだった。僕にも姉か妹がいればよかったのにな、とマスターは思う。分かりあい、慈しみあえる、もう一人の自分、異性の分身。
二人が帰ると暇になり、マスターは冷蔵庫の整理をして暇をつぶした。
夕方にカオリさんが来た。カウンター席に座って、スーパーの袋を置いた。
「ミルクティーちょうだい。あと、これ冷蔵庫に入れてくれる?」
カオリさんのように東京から嫁に来た若い奥さんはこの街では珍しい。マスターは、農協で事務をしていた頃、休暇のたびに無理をしてでもギターを持って夜行で東京へ通ったものだった。カオリさんと東京のことを話すと、たくさんのなつかしい名前が三十五年前の新宿を思い出させる。カオリさんの知ってる1990年代の東京には都電もデモもフォークソングも無いはずだけど。
「うちの隣の川海苔加工場の娘さん、短大が決って東京行くんだって」とカオリさんが言った。「さっき、こーんなトランク持って出てくるとこだった」
「あの、髪の長い、ちょっときれいな子かい?」
「うん。みんな出てっちゃうんだね。あたしは逆に来ちゃったけどさ」
「そういう人生もあるさ。人それぞれだよ」
「マスターは、東京に住もうとは思わなかったの?」
しばらく迷ったが、マスターは首を振った。
「思わなかったね。結局、ここが好きなんだな。こういう人生もあるよ」
暗くなり始めた頃「旦那に夕食作らなきゃ」とカオリさんは帰っていった。
そろそろ閉店時間だった。今日の客は四人か。マスターは首を振る。また貯金を崩さなきゃ。喫茶店主だなんて言って、結局、僕は地主だった親の遺産で食ってるだけの人間なのだ。いまだにまともなコーヒーもいれられない。
看板をしまおうと外へ出たとき、突然強い風が吹き始めた。大波に見舞われたみたいに店全体が揺れた。ドアが閉まった。空は赤みを帯び、引きちぎられた雲が恐ろしい速さで押し流されていた。時間が早回しになったようだった。
両手で看板を抱え、閉じたドアの前で、マスターは思う。こんな片隅の場所で、何も出来ず、僕はひとりだ。三十数年前、東京へ行って、音楽に賭けたいと思ってた。でも身体が動かなかった。どうしても。そしてそのまま僕は年老い始めてさえいる。まだ何ひとつ手にしていないのに。
終わったわけじゃない。まだ何かできる。たとえば今すぐ東京へ行く事だって。動けばいい。動けるはず。でも吹きつづける風の中でマスターは、ドアを開ける事も、歩き出すことも、抱えた看板を置くことさえ出来ずにいた。
(第四話・終わり)
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