第3章:脱出

[26]

「あなた、警察に言います・・・」

 老人がそう言いかけた。その顔にめがけて突然、ジャンパーのポケットから現れた男の右手が飛んだ。ほんの短い呻き声を上げて、老人はテーブルに倒れた。そして床に崩れ落ちる。男の右手に掌に隠れる程の小さなオートマチックが握られていた。

 私は咄嗟に公安だという奥のテーブルの男女に眼を走らせた。男女はこちらを見ていた。今まで見せたことのない眼差しで、自分たちを注視している。この男の正体を知っているのか。あるいは2人が狙っているのはこの私なのか。老人が殴られたというのに、店内では誰も動こうともしない。一体どういうつもりなのか。あの2人は本当に公安なのか。そしてこの爺さんは?

 何の判断もつかないまま、私は男に向かってうなづいて席を立った。頭を抱えて唸り声を上げている爺さんをまたいで通路を出る。

 ウェイトレス2人がこちらを見ている。声は出なかった。男が銃口を向けたからだ。奥の男女も動かなかった。男は私の傍らに寄り添い、脇に銃口をつきつける。身振りで『早く行こう』と促した。

 全身の血管が茫々としてふわりと広がるような感じに襲われた。私は処刑場に向かって歩いているような感覚だった。浮足立ってもはや判断力も何もなくなり、恐怖も遠ざかる。その時の私はまだいくらか判断力があり、恐怖心も残っていた。妻の顔を思ったせいだろう。私は残された時間を計算するため、ちらりと店の壁の時計を見た。時刻は午後7時31分。選択肢は2つしかなかった。

 私は銃口で急かされて、男とともに喫茶店の入口の階段をかけ下がった。路地の喧騒があらためて生き返ったように耳に響いた。野次馬の雑踏に混じって制服警官が何人も見えたが、喫茶店を囲んでいるような気配はなかった。あの老人がもし警察関係者なら、独りで喫茶店に戻ってきて私に耳打ちする前に、やることがやったはずだ。やっとそんなことを考えた。私の判断力も思考力も刻々と鈍っている。

 男と私は野次馬に紛れて速やかに移動した。ファヴォリテン通りを出る。男は駅の方向ではなく、北に足を向けた。

「どこまで行く気だ」私は言った。

「警察が追ってくるぜ」

 男は正確な英語で応えた。

 それは事実だった。あの喫茶店にいた男女か。あるいは連絡を受けた張り込み班か。逃げる私たちの靴音と似たようなペースで、背後に靴音が聞こえる。通行人の靴音と違うのですぐ分かる。

 私と男は入り組んだベルヴェーダーエーガッゼの路地に入り込んだ。早足に歩くうちに「もういいだろう」と男は言った。背後の靴音は消えていた。

 ゴミ箱が連なった暗い路地。

 男は初めて口元を緩めた。能面が消える。ごく普通の男の顔が現れた。

「忠告しに来た」男は言った。

「5分だけ付き合ってやる」私は言った。「5分経ったら、立ち去るからそのつもりでいろ」

 この男の目的が殺しでないことは分かっていた。だが、男の素性について真剣に考える余裕は私にはすでに無かった。

「アメリカに行くんだろ?」男は尋ねてきた。

「何が言いたいんだ」

「まず、頭を冷やすことだ。アンタが日本の外交官だってことは分かってる。そのアンタが偽造旅券を買ったという話も洩れてる。アンタ、この街じゃ井の中の蛙だ。この世界では、そんな頭ではやっていけない。脳味噌の中身から入れ換えることだ。何なら手伝ってやるぜ」

 私は苛々しながら、自分の腕時計を眺め続けた。何もかも洩れている。北朝鮮の情報将校よりもバーのホステス1人を亡命させることの何が鬼門だったのかと慄然していた。絶望が眼の前に垂れ下がると、今度は逆に腹が据わってくる。

「1分経った。まずは名乗れ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る