[25]

〈1988年11月30日〉


「あなた」

 老人は囁き、私の腕を取った。いきなり他人に腕を掴まれて、私の神経はそれだけで凍ってしまった。普段なら突き飛ばすところだが、とっさに動くのも忘れた。少し息を切らせている老人は人の顔色など構う様子もなく、私の隣に座って私の水をひと口啜った。その手が傍目にも分かるぐらい震えていた。

「あなた・・・」老人は身を屈めるようにして声を低くした。「大変なことです。あの女性です」

「何が」

「公園のトイレで、爆弾で吹き飛ばされた女性・・・さっき、そこに座ってた女性です。紫色のスーツを着て、マフィアに声をかけてた・・・」

「はあ・・・」

「はあ、じゃないですよ。偶然、事故に遇ったんじゃありません。トイレに入ったら、たまたま爆弾が仕掛けられてたんじゃない。女性が手に持ってた何かが爆発したんです。分かりますか?そういう死体でした・・・」

「見たんですか・・・」

「現場を見た警官に聞いたんです。ダイナマイト級の威力のある爆発物を手に持ってたと言いました。死体の様子からみて、それしか考えられないということです。あなた、何か思い当たらりませんか?」

「なんで私に聞くんです」

「あなたも見てたじゃないですか。あれを見てたのは、私たち二人だけです」

「何を・・・」

「ほら」老人はさらに声を低くする。「あの女性が貰った封筒・・・」

「封筒は爆発しません」

 私は半ば自分に腹を立てながら、無愛想に応えた。封筒が爆発しないというのは嘘だ。そういう仕掛けを作ることは簡単に出来る。自分たちが見た一連の出来事から察するに、あの封筒は細工された手紙爆弾だった可能性はある。そんなことはこの年寄りに言われるまでもなく最初から閃いていたが、今はそんなことに関わっている暇はなかった。爆弾がどうした。クラブの女がどうした。コウがどうした。私はレベッカを迎えに行かなければならないのだ。

「そういう話は警察にしろ。私は急いでるんだ」

 私は通路側の椅子をふさいでいる老人を押し退けようとした。すると、すかさず老人がまた私の手首を掴んだ。大した力ではなかったが、それをはねのける前に、私はもう一度だけ相手の顔を睨んで低い声を出した。

「何者だ、あんたは・・・」

「あなたこそ」

 老人はそんなことを言い、他の客の目線を窺うように素早く頭を動かした。しかし、他の客といっても、もう奥に居すわっている不倫の男女と紙袋の男しかいない。

「あなた、あの人たちが誰か知ってますか」老人は言った。

「誰の話だ」

「奥に座ってるでしょう、男女が」

「知らない」

「本当に知らないんですか」

「ああ」

「なら、手前に座ってるあのおかしな男性はどうです?」

「・・・知らない」

「あの男はラングレーの殺し屋です。死んだ女性は北京のスパイです」

 畜生。この爺さんは何者だ。

 熱くなった血が額の裏で濁流になっていた。いくつもの疑問とレベッカの顔が同時に浮かんだおかげで、私はやっと冷静を保つことが出来た。

「それがどうした。私は急いでるんだ。どいてくれ」

 私は老人の肩をわし掴みにした。突き飛ばして通路に飛び出そうとしたが、相手はさらに声を低くした。

「静かに。見られてます・・・あの奥の男女、公安ですよ」

「あんたこそ、何者だ・・・!」

「私はただの・・・」

 老人はふいに言いかけた言葉を呑み込んだ。私も掴んでいた手を離した。同じ方向の頭を振り向けた。座席のすぐ傍らに、あの紙袋の男が立っていた。

 すぐそばで見ると、男は店に入ってきた1時間前よりもはるかに長身に見えた。不動明王のように、立ちはだかっていたせいかも知れない。40分このかた変わらない無表情で、片手にあの紙袋をぶら下げている。

 男は顎だけわずかに動かして『おい』という身振りをした。

 私は直観で男の全身から漂ってくる殺気を察した。危険だ。身体じゅうの神経がざわめいていたが、筋肉は動かなかった。店から逃げようと決めた時、すでに私の身体が腑抜けになっていたのだろう。何も声を出せず、数秒ばかり男を見ていただけだった。

「なにか用ですか。相手になりますよ」

 老人が怒鳴った。私は我にかえった。すかさず老人を抑えて「何の用だ」と自分の口を開いた。

 男は無言だった。もう一度、私に向かって顎だけしゃくった。『来い』と言った。

『話がある』

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