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 たまに時間が空いた時、私は日本大使館に出向いた。オフィスで新聞の切り抜きや記事の翻訳などの雑用を手伝った。時おり岸部が何か言いたそうな眼を向けてきたが、向こうが声をかけてこない限り無視した。その日は午後5時を少し過ぎた頃に大使館を出た。

 私はブルグガルデンの中にずんすんと入って行った。道に迷った振りをする。楽器ケースを持った2人の女学生がモーツァルトの墓を見ている。園内の掲示板を見つけて、じっくりと眺めた。思い切った動作でブルクリングを渡り、美術史美術館に入った。

 1階は古代エジプトやギリシャの彫刻類や出土品が展示されていた。私はとぼとぼと観覧コースを逆に回って歩いた。背後や周囲に監視者がいないかと観察した。美術館を出る。今度は確信に満ちた足取りでマリア=テレジエン=プラッツまで歩いた。

「ミステル・コバヤシ」

 懐かしい訛の英語で囁いた者がいた。視界の端に浅黒い肌をした若い男を捉える。その男を3メートルほどの距離を空けて並んで通りに立っている。ぱりっとしたスーツに身を包み、アタッシェケースを提げている。

 私はあえて何の反応も示さなかった。事前に打ち合わせた通りに道路を横切って森の中を歩き、ベンチに腰を下ろした。若い男は木々の香りを楽しむようにゆっくりと後を追い、私が座っているベンチに少し離れて座った。

「テヘランには帰ってるのか、カリミ」私は言った。

「あれ以来、一度も」

「何年になる?」

「もうすぐ10年です」

「寂しくなるな」

 私は10年前にイランの総領事館に単身赴任した。テヘランの市場をふらふらと歩いていた時、高額なペルシャ絨毯を買わされそうになったところを現地の少年―カリミに助けられたのが縁の始まりだった。当時、カリミは12歳だった。まだほんの子どもだったが、巧みな英語と回転の早い頭で闇市場のビジネスマンを気取っていた。

 カリミを通じて私はイランの国内情勢を詳細まで知ることが出来た。現地の新聞を英訳してもらったり、カリミの両親や親せき、その商売相手などに接触して情報を得る。本省に提出するレポートをまとめる際は特に重宝した。決定的だったのは、カリミが私に「もうすぐ革命が起こる」と漏らしたことだった。

 翌78年明けの1月、イラン革命が起きた。カリミの両親がデモで殺害された。孤児になったカリミが気がかりだったが、私は帰国せざるを得なかった。後に人伝で両親がスンニ派だったこともあり、カリミは反ホメイニ派の地下組織の支援でヨルダンを経由してオーストリアに脱出したことを知った。そして彼の地で学業に就いて、今は偽造屋を営んでいる。

「準備はできそうか」私は言った。

「あと少し、まかせてください」

「経費を請求してくれ。それにもちろん規定の報酬も。予算に余裕がなくて、すまない」

「大丈夫、気にしないで。あなたが《部品》を持つことに、職人が神経過敏になってるようで」

「どうして?」

「最近、中国人向けの仕事が多いんだそうです。ついこないだも香港からの脱出者から依頼がありました。今はこの街のどこかでバーのホステスをしてますよ」

「職人は納得したのか?」

「問答無用でさせました。ミステル・コバヤシは惚れた女のために体を張るんだという話をしましたから」

 カリミが片目をつぶってニヤッと笑って見せる。その顔に幼い頃の面影が残っていた。

 私もつられて笑った。しがない官僚が惚れたホステスのために体を張るというのが、職人を納得させる動機として正しいのかどうかは分からない。カリミが言う「ミステル・コバヤシ」はおそらく能動的にか弱き女性の窮地を救おうとするヒーローなのだろうが、私自身はどこまでもこの事件に不本意に巻き込まれたと思ってしまうあたりが情けない。

 レベッカは監視の恐怖に怯えて耐えきれなくなっていた。ある時は酒に酔ったまま、自分の人生がいかに報われなかったかと長々と私に話した。私はレベッカを宥めるしかなかった。カリミから《部品》が届かない内は脱出できないと辛抱強く伝えた。望んでいた物が来たのは、それから3日後だった。私とレベッカは中国人夫婦になっていた。私はついにレベッカに脱出作戦の決行を伝えた。

 そして今はこの喫茶店でレベッカを待っている。今までに不測の事態を招くような要素はなかったのか。いま一度、私はそのことを考えようとした。だがそうする前に、あの爺さんが喫茶店の入口から戻ってきた。

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