[23]
翌日から私たちはレベッカの脱出方法を練ることにした。いろんな懸念点はあったが、何か実務に取り組むことで無用な心配も紛れるだろう。私はそうやって割り切ることにした。私たちは〈ロゼ〉の向かいに建つアパートの一室に籠って打ち合わせを重ねた。打ち合わせの相手は主に島村だった。
「お前とレベッカが空港に向かう。結城が空港で待ってる。俺はレベッカの後を尾ける。当日、お前とレベッカはどこかで落ち合うしかない。合流場所の連絡方法はどうする?」
「いい考えがある」私は言った。「ホテルのバーに中年の調査員がよく来るんだが、そいつが使えそうだ」
「危ない奴だったら、使うな。すぐに切れ」
「分かってる」
「レベッカとは、どうやって連絡を取る?」
「私が指定したコールボックスに電話をかけてもらう。番号は手紙で伝えるつもりだ」
「電話でレベッカと名前を呼ぶんじゃないぞ。どこに訊かれてるか分からんからな」
私はうなづいた。
「《妹》と呼ぶつもりだ。俺には実際にいるし」
島村がニヤニヤしながら言った。
「レベッカからは《兄様》と呼んでもらうか」
私は苦笑を浮かべる。
「それは遠慮してもらおう」
アパートで何度目かの打ち合わせを終えて、私は時計を見る。昼飯どきをすっかり過ぎた午後2時だった。部屋を出ようとしていた島村に私は「昼飯でも食いに行こう」と誘った。「何を食おうか?」と訊いたら、島村が「特別に辛いカレーを食わせてくれる店があるんだ。そこへ行こう」と答えた。
2人でムゼウムシュプラッツまで歩いた。島村はエリザベート通りに建つ雑居ビルの地階にあるカレー専門店に入った。島村と顔見知りらしい店主は私たちを小さな個室に案内した。私に何の断りもなく、島村は《お子様はご遠慮ください》という但し書きがついた本場のスリランカ・カレーのセットを2人分注文した。運ばれてきた水をひと口含んでから、私は尋ねた。
「そういえば、岸部はこの作戦に参加してないのか?」
「アイツは抜きで話を進めてる」
「どうして?」私は思わず訊いた。
「アイツは男が趣味でな。どこで覚えたのかは知らん」島村が吐き捨てるように言った。「ただ、そのことでラングレーに金玉を握られてるのは確かだ。奴に話せば、どこに漏れるか分からん」
私は苦笑いでその言葉を受け流した。岸部に女の影が全然見えなかった理由が分かったところで何の役得にもならない。運ばれてきたカレーのセットに手をつける。野菜、マトン、海老の3種類のカレーが別々の器に入っていた。まずはマトンのカレーを一口食べる。途端に口の中が火を噴いた。
「言っただろ?特別に辛いって」
島村はそう言って平然と食べ始めた。私は水を呑みながら何とか喉に流し込んだ。幸い野菜とエビのカレーはさほど辛くなかった。2人しかいない個室なので、私は食事中でも構わずレベッカの話を口にした。
「レベッカが日本人の拉致被害者に関する情報を持っているということだが・・・」
「その辺の感触を探るのも使者であるお前の役割だ。これは俺が言ってるんじゃない。結城の言葉をそっくり借りただけだ」
私は不満を表すために鼻を鳴らした。
「俺はむしろ使者がお前でよかったと思ってる」
「どうして?」
「お前は人畜無害そうに見える。俺はこの強面だし、残りの2人は見た目だけで中身は腐ってる。そもそも外務省に《ユミール》情報を持ちかけたのが松岡。実際に運用しだしたのは結城。あの2人、初めからこうなることを予測していたフシもある。だとしたら、余計に喰えない」
私は話題を変えた。
「レベッカは《北》の監視を受けてるのか?」
「可能性はある。景姫は柳がハンブルクから着任したのは、レベッカの始末を平壌から依頼されたからではないかとも言った。本当のところは景姫にも分からないだろう」
「レベッカをこの街から脱出させる手はずを整えるとして・・・」
「重要なことを言い忘れてた」
島村は懐から取り出した封筒をテーブルに置いた。中には紙幣で1000ドルが入っていた。
「パスポートを用意する必要がある。2人分だ」
「2人分?」
「お前とレベッカ。夫婦を装え」
「誰が用意する?」
「お前しかいないだろうが」
「偽装パスポートだぞ。簡単に手に入るもんか。どうすりゃいい?」
島村が口角を緩めて言った。
「俺がこの街で知ってる偽装屋はお前のことを知ってたぞ」
「なぜ?おれは・・・」
「その偽装屋はカリミというんだ。テヘランではお前にお世話になったと」
「あの子か」
私は呆然と呟いた。島村が凄みのある笑みを浮かべていた。
「お前もなかなかどうして、喰えない奴だよ」
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