[22]

 結城が待ちきれなかったように部屋を出ると、ポットと盆に載ったティーカップを運んで戻ってきた。あらかじめ準備していたのだろうか。結城がぎこちなくティーカップを並べ、ポットから茶を注ぐのを眼の端に捉えながら、私はそんなことを考えた。私は結城が淹れた茶をひと口含んだ。こくのある旨い日本茶。2月に目白の屋敷で飲んだ時と同じ味。

 結城がゆっくり歩き回りながら喋り始めた。

「《トロイア》作戦は失敗していない。まだ継続中なのだ」

「では、なぜ《ヘレン》はなぜ亡命を拒否したんですか?」私は尋ねた。

「景姫は我々の体制を憎悪していた」

「自分の祖国の体制を憎悪しているように?」

 結城がうなづいた。私は脳裏に景姫が海外から送ってきた手紙の数々を思い出す。

「〈ラグーン〉であなたは景姫と話をした」私は松岡に訊いた。「差し支えなければ、どんな話を?」

「本当の出生を告げた」松岡は言った。「在日ではなく、真正の日本人だと」

「景姫は自分が日本人であることを認めたんですか?」

「半ば認め、半ば拒否した。私を父と認めたようだが、結局は祖国に帰ることにした。自分は今までもこれからもコリアンとして生きるために」

「まるで革命家だ」

 私はそんな感想をもらした。

「その革命家の置き土産が〈ロゼ〉だ」結城が口を挟む。「景姫は自分の代わりに〈ロゼ〉という市内のバーで働いているホステス一人を西側に亡命させろと要求してきた。だから、作戦は継続中なのだ」

 私は呆れたように首を横に振った。

「自分のことは棚に上げて他人を亡命させろなんて」

「そのバーで働いてるホステスの名前はレベッカ。本名か暗号名かは不明。そして、レベッカが《ユミール》の正体だということだ」

 思わず眼を細める。

「どういうことです?」

「景姫いわく、レベッカは今年の2月に粛清された許正麟の秘書だった。《ユミール》情報とは許の金庫にしまわれていた重要文書をレベッカが隠し撮りしたものだった。レベッカから景姫を介して崔に。そして我々に」

「レベッカはなぜ、そんな危ない橋を?」

「理由は不明。運よく難を逃れて脱北に成功してウィーンに流れ着いた。ここで、ようやくここで本題に入る。お前は今夜、〈ロゼ〉に行ったな?」

 私はうなずいた。

「その時のやり取りを正確に再現しろ。まず店に誰がいた?」

「ホステスが1人」

「彼女の名前は?彼女とは話したのか?何の言葉で喋った?」

「レベッカ・ラウと名乗った。英語で少し雑談を」

「ほかの言語は?」

 私は首を横に振った。

「どんなことを話した?」

「北京の出身で香港から貨物船に乗って逃げてきたとか。逃げてきた理由は分かりません」

「なぜ手紙をホテルに出したか、訳を言ったのか?」

「店に通ってた男に頼まれたと。その男を最近、ベックマンガッセで見かけた。その時、男はスーツ姿だったそうですが」

 結城が窓際に立つ島村に眼を向ける。《ヘレン》番である島村がうなづいた。

「間違いない。全部、景姫が言った通りだ」

「どういうことだ?」

「すなわち、今お前がレベッカについて話したことすべてがサインだ」島村が言った。「レベッカはお前を我々の使者として認識したということだ」

「使者?」

「お前がレベッカをこの街から脱出させるということだ」

 私は眼の前が真っ暗になるのを覚えた。思わず眼を閉じて額に手をやる。

「本来はこの部屋にいる3人の誰かがハガキを受け取って〈ロゼ〉に向かう予定だった。ハガキの返答として我々が使者を送り、レベッカが使者と指定通りの受け答えをした時点で、我々がレベッカの亡命を担うことを了承したということだ。図らずもお前がその役目を担った」

 次の瞬間、私は感情の丈を吐き出していた。

「レベッカが自分を使者とみなしたということは、レベッカはこの顔を知ってたことになる。自分はレベッカと数十分前に初めて顔を合わせたんですよ!」

「レベッカと景姫は繋がっているとみて、まずは間違いない」

「レベッカは景姫側、すなわち反体制派の人間なのか?」

 結城が苦笑を浮かべる。

「あの国にそんな物は無い」

「ならば、《北》が西側にレベッカという二重スパイを送り込もうとしている可能性は否定できない」

「天羽君」松岡が低い声で言った。「ここはひとつ、君は腹をくくってもらえんか。レベッカの亡命は我々にしても有益なのだ」

「・・・」

「レベッカは《北》に拉致された日本人被害者の情報を持っているのだ」

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